電気自動車への期待

今一番欲しいものは何?と聞かれたらということで、昨日のブログでは、水泳選手が使うトレーニング用の水槽設備について書きました。

でも、今日もっと切実に欲しいと感じているものを思いつきました。それは、小型の電気自動車です。それも、勿論手の届くくらいに安価なもの。

遠距離をドライブする目的ではなくて、日々のお買い物や、ちょっとした用事に街中をスイスイ走れるクルマが理想です。

特に、私の自宅付近は道路が狭い上に、一方通行にしているところが少なくて、クルマのすれ違いで苦労するので、小さいクルマが有利なのです。

ネットで調べてみると、電気自動車が急速に開発・販売が進んでいて、一月前に発売したトヨタの一人乗り電気自動車の受注が好調のようです。いずれ二人乗りも発売するらしいですが。

そのほかにも、ぼうメーカーが折り畳める電気自動車も近々発売するらしいですが、これはまだヨーロッパだけで、日本での販売は予定されてないらしいです。

私の予想では、あと数年のうちには大変なブームになっているものと思います。それがまた、価格の引き下げにつながり、日本は一大電気自動車大国になるかもしれません。

私の個人的な条件は、低価格でサイズが小さいこと、そして家庭用の100ボルト電源から容易に充電できることなどです。

きっと近い未来に、望むような電気自動車が手に入るようになるのでしょうね。今からとても楽しみです。

今回の母親の事故で、年寄りが自転車に乗ることの危険性を充分に認識したので、買い物やスポーツクラブなどへは、そうした小さな電気自動車で送り迎えができたらいいなと思っています。

久しぶりの水泳をしたい気持ち

最近、歳を重ねてきたせいもあると思うのですが、特別に欲しいと思う「もの」がなくなってきました。もちろん、大切な人の病気や怪我が快復するようにという願いはあるのですが。

それでも、手に入るかどうかは別としても、今本当に欲しいものを一つ挙げてみてと言われたら、あるものが心に浮かびました。

それは、水泳選手が使うトレーニングマシンです。みなさんはご存知かどうか分かりませんが、何度かテレビなどで見かけたことがあります。

小さなプールというか、大きな水槽といえばいいのか、その中にポンプで水流を作って、人間一人が移動せずにずっと泳ぎ続けることができるものです。

きっと六畳くらいの広さがあれば、設置できるんでしょうね。勿論、一般家庭の部屋では床がもたないでしょうけれど。

目をつぶって一定のスピードでクロールで泳ぎ続けることができたら、きっと深い瞑想の中に入っていける気がするんです。

水の音の奥にある静寂と、規則的な呼吸を続けるうちに、ランナーズハイのような状態と相まって、すばらしい恍惚感を味わえると思うのです。

プールで泳がなくなって三年が経つのですが、その間に透明の自己を見るクセができたので、今度泳ぐチャンスがあったら、その場でも試してみたいと思っています。

きっと、自分の周りに水が満ちていると感じていたものが、代わりにその水すべてを含む自己を感じることができるはずです。

そして、うまくいったら、さきほどのトレーニングマシンと同じように、泳いでも泳いでもまったく移動しない自己にも気づけると思うのです。

書いているうちに、早く試してみたくなってきました。

多くの人に支えられた母

昨日は、ほぼ一日中母が入院している病院にいました。午後から手術が予定されていて、母が心細いだろうと思って朝早めに行ったのですが、結局手術が始まったのは午後3時でした。

救急病院だからこそなのでしょうけれど、頻繁に救急車の音がして、そのたびに患者さんが運び込まれるのでしょうね。

そういうこともあってか、緊急オペの患者さんがくると、こちらの手術の時間が延期になったりするのです。

手術の時間がなかなか告げられなくて、イライラしたりしたのですが、手術が終わって執刀医から説明を受けながら、大勢の人たちの協力によって母の足が回復していくんだなと、感謝に変わりました。

麻酔から醒めかけた母が、やや朦朧とした意識の中で、傷口のあたりの痛みを訴えてきたときには、何とかその痛みを和らげたくて、立ったままヒーリングをしました。

すると、あっという間に強烈な痛みが両方の手のひらに伝わってきました。しばらくして、うっ血したようになった指を横にいた家内に見せたら、普段はまったく興味を示さない家内もヒーリングをしてみたくなったようでした。

真似でいいからやってみたらと促したところ、見よう見まねで試してみた彼女も、両手がピリピリする感じがすると言っていました。

人はいざとなると、やはり自分が消えて、そのときには愛が発動するのですね。これは、能力ではなくて、そのように我々は設計されているということなのでしょう。

昨日は、いつもの淡々とした毎日とは、随分と違う一日でしたが、沢山の人々の愛を感じることができ、またそのことへの感謝も味わうことができました。

母は強し!

とうとう今日は、母が手術を受ける日となりました。自転車どうしの事故で転倒して、救急車で病院へ運ばれたのが先週の日曜日のことなので、もう10日経ちます。

執刀する医者から、手術の予定日を聞かされたときには、なぜ10日間も何も処置せずに放置されるのかと、とても理不尽な気持ちでした。

それでも、気を取り直して、とにかく手術されるまでに寝たきりになった母親の気持ちが正常に戻るようにと、毎日病院へ通って力づけました。

毎日、私が言った言葉は、「過ぎてしまえばあっという間だからね」でした。実際、自分の経験からもこれは真実だと知っていたからです。

随分と先の話だなと感じることであっても、結局その日はやってくるし、過ぎてしまうと何と言うことはない、もう終わってしまったといつも感じるのです。

そのことを、毎日毎日伝えていたら、今度は母親の方からもそれと同じ言葉を聴けるようになりました。習慣になるのですね。

結局、手術の日はこうしてやってきてくれました。本当に、あっという間でしかありません。この10日間は、聖霊からいただいた、ささやかな親孝行のための時間だと思っています。

そして、明日以降は、今度は辛いリハビリの毎日が待っていますので、そこは、我ながら得意分野だと思っている、「心を鬼にして」、リハビリに励んでもらうようにしたいです。

親子でもこれだけ違うのかと思うくらいに、不思議なのですが母は状況の変化に対する柔軟性がとてもあって、それはどうやっても敵わないなといつも思っているのです。

ですので、その適応能力を充分に活かすことができれば、また今まで通りの元気な母親に戻ってくれることができると思っています。

いろいろな意味で、母は強し!ですね。

宇宙は全自動だった!

昨日の朝、久しぶりにちょっと涼しくて、目覚ましを止めてからまたしばらくウトウトしていたのですが、そのときにはっきり感じたのです。

ああ、何もかもがただただ自動的に起きてるんだなって。なぜそう感じたのかは分からないのですが、まず地球が自動的に動いているのが見えたのです。

そしてこの現象界において起こるあらゆる出来事は、ただ現象として起きているだけなんだなと、いつもの単なる理解を超えて、肌でそう感じたのです。

そしてさらに、どんな現象を起こす原動力も、この現象界の中にあるわけではないと。私たちの科学や常識では、風が吹く力によって風車が回ると見ます。

勿論、それは100%この世界では正しいことですが、真実はまた別の見方ができるわけで、風が吹くことも風車が回ることも同じようにこの世界の中にはない、源泉の力から現象化されているのだと。

スクリーン上に映し出される映画の内容では、様々な現象が起こっているように見えますが、その映画のどんな映像にも何かを具体的に起こす力などないことは誰でも分かっています。

撮影して編集が済んだ映像は、全自動で上映されるわけですが、それと同じような感じだと思えばいいかもしれません。

私たちが寝ている間に見る夢も同じです。夢の登場人物としての自分が、夢のなかで何かを能動的に起こせると、夢の中では錯覚しています。

けれども、実際には夢の中で起きることは、夢の中の住人からすれば全自動であるということです。なぜなら、作り主は夢を見ている自分の心であり、それは夢の中をいくら探しても見つからないのですから。

全自動で、起きることがただ起きているだけのこの宇宙であるなら、それを信頼することこそが、私たちにできるたった一つの価値あることなのだろうと思うのです。

視点についての疑問

外側に広がる世界を見る時の方向とは間逆の方向に注意を向けた途端に、そこには何もないということが提示されています。

見えないということは何も存在しないということです。このことは、現代の物理学の常識となっています。つまり、存在とは知覚であるということです。

一人称は知覚することが不可能なので、一人称とは存在しないということを意味しているのです。ところで、その広がった無色透明さを見るということは、知覚ではなく直接体験しているのです。

そして、その体験者は本当の自己であるということができます。真の自己が、唯一の純粋意識であるとすると、なぜ視点が人間の数ぶんだけあるのでしょうか?

このことは、実は一年も前から私の中で疑問として燻っていたのです。けれども、その疑問に対してあっけないほど簡単に、回答が与えられてしまいました。

それは、視点というものがあるとするなら、それは無数にこの宇宙に在るに違いないということ。もっと端的に言えば、宇宙空間のあらゆる位置は、すべて視点でもあるということです。

なぜなら、真の自己自身が宇宙を満たしていると考えるなら、地球上の人間の数だけ視点があるのではなくて、視点もくまなく偏在しているということなのです。

なんでこれほど簡単なことが分からなかったのか、今となってはそっちのほうが不思議な感じさえしてしまいます。

というわけで、真の自己が私を通して見るときの視点と、あなたを通して見るときの視点が違うということは、何も矛盾しないのです。道端にころがっている石にも、同じように異なる視点があるということですね。

全視点を同時に直接体験することになったら、一体どんなことになってしまうのでしょうか?今の自分には想像もすることができません。

意識は自分の外側にも内側にもない

私たちは、あらゆるものの外見だけを認識することができます。それも、そうした外見のほんの少しの情報しか、知ることはできません。

知覚できる情報は、非常に限られているからです。例えば、こちらを向いている人の後ろ側などはまったく見えないわけですし、たとえ見えている顔でも、完全な捉え方はできないと知っています。

そして、外側のどこにも思考や意識というものを見つけることはできません。それは、どこかに隠れているのではなくて、外側の世界にはないのです。

私たちは、目の前に誰かがいるとき、その人の内側には意識や思考があると信じて疑うことがないのですが、実際には身体の内部のどこを探しても、意識も思考も見つけられません。

意識や思考は、自分自身の内側に探す以外ないのです。そして、この自分の意識や思考にしても、内側といってもこの身体の内側ではないと分かります。

敢えて表現すれば、外側とは反対方向に無限に突き進んで行った深淵の彼方に、それはあるのではないでしょうか。

ということは、それはもうこの世界のものではありませんね。人間の外側に在るとされるこの世界においても、人間の内側である身体の中にも、つまりこの宇宙のどこにも意識や思考の所在を見つけ出すことはできないのです。

また矛盾する言い方になってしまいますが、意識や思考こそが、実はこの世界全体を覆っているのだと考えることもできます。

特に、純粋な意識というのは時間や空間を超越しているので、過去から未来におけるあらゆる時間のあらゆる空間に、それは満ち満ちているとも言えるのです。

それこそが、私たちの本当の姿であると多くの賢者たちが言ってきました。それを鵜呑みにすることなく、自分でそれを検証して、経験によってそれを信頼できるようになることが、大切なのでしょうね。

母親は自分にとって「恩人」です

昨日のブログにも書きましたが、83歳になる母親が予期しない自転車の事故で入院し、来週に予定されている手術を前にして、不安な気持ちで病院の個室で過ごしているのです。

普段は用事でもない限りは、あまり母親と話しをすることもなく、比較的感情を伴わない淡々とした関係でいるのですが、今週は仕事が暇なこともあって毎日ベッドで寝たきりになっている母に会いに行っています。

母は、以前ヘルペス菌が耳に入ってしまい、しばらくの間入院していたことがあったのですが、そのときは退院してからも、その後遺症が続いて辛そうでした。

私は毎日のように、自宅で療養している母親にヒーリングをしていましたが、自分が大人になってから始めて母親の身体に触れるという経験をしました。

毎回30分くらい、彼女の身体に手を当てて、出来る限り優しく撫でながらのヒーリングを繰り返したのを昨日のように覚えています。

そのときに、自分は普段まったく親孝行らしきことをしたことがなかったけれど、たまたま仕事でヒーリングをしていたおかげで、こうして母親の身体に照れずに触れることもできて、ありがたいなと思ったものです。

考えてみれば、彼女が具合の悪いときにしか親孝行しないというのも、どうなのだろうと思ったのですが、今回もいつもはできないようなことをしています。

昨日は、初めて彼女の身体をお湯で熱くしたタオルで拭いてあげたり、痒い背中などに薬を塗ってあげたりしました。

食事の後は毎日のように入れ歯を洗ってあげたりもしています。自分としては、献身的な行為が苦手なので、そういうごく当たり前のこともまったく経験していませんでした。

今度の母親の怪我は、ひどく彼女を辛い気持ちにさせていて、見ていて本当に心が痛むことではあるのですが、私は滅多にない親孝行のチャンスだという気持ちもあるのです。

子供のころには、母に対していろいろ不満もあったのですが、この年齢になると母親のことをただ愛しいと感じるよりは、この人は本当に自分にとっての「恩人」だなあと思えるのです。今は、そう思えることに感謝したいとも思っています。

生まれ育ったときの人間関係をもう一度見直す

数日前のことですが、母親が自転車を漕いでいて後ろから追い越そうとした若い男性の自転車と接触して、転倒して骨折したのです。

母親は、以前から腰の手術などをしていたものですから、その悪いところを強打したら大変なことになると思っていたので、知らせを聞いたときにそうでないことを祈りました。

結果としては、腰を打つ代わりに股関節を陥没骨折してしまっていたので、人口関節に代える手術をしなければならなくなりました。

入院している母親の看病のために、私と私の家族や私の姉が毎日のように病院にいって、あれこれと母の身の回りの世話をしているのですが、それで気づいたことがあります。

それは、以前から苦手な姉の言動にものすごくイライラさせられている自分に気づいたのです。姉と長い時間一緒にいるのは、数十年ぶりかもしれません。

だからこそ、ずっと前の子供の頃のようなイライラした気持ちが蘇ってきたのです。ああ、自分はこれが嫌いだったんだと思い出したのです。

言葉が通じないで一方通行のような、やりきれない気持ちになったのです。大人になってからは、ほとんど体験したことのない感情でした。

これ見よがしの話題と、他人に対する否定及び文句、こうしたことのオンパレードが自分の心をひどく傷つけるのでした。

けれども、さすがに今となってはただ相手を否定するわけにはいかないということも、分かっているので、それを嫌がる自分の心の中に同じ要素を持っているんだなと理解したのです。

セラピストになって、とてもおだやかな心の状態を継続できるようになって、癒しが進んでいるように思い込んでいたのが、実はそうでもなかったということがバレタわけです。

見るべきものがまだまだ残っていたということを、しっかりと思い知らされた気がしました。逃げずに、なるべくあるがままを体験しようと思っています。

生まれ育った環境で一緒だった家族と自分の関係が、やはり原点なのですね。大人になって、遠ざかっていたおかげで心の中が静かだっただけで、実は元の環境がやってくればたちまち心は波立つということです。

一番むずかしい人間関係は、生まれ育ったときの人間関係の中にこそ見出せるということですね。まだまだです。

物語は完結することはなく、常に中断する

私が子供の頃は、映画にしてもテレビドラマにしても、ハッピーエンドがほとんどでした。ハッピーエンドでない場合でも、それなりにああこれで終わりだなと分かるような結末でした。

あれから何十年と経った今でも、それは概ね変わらないのですが、それでも時々は、え、これで終わりなの?と感じるような幕切れの物語もありますね。

なんだか、尻切れトンボのような、不十分な感じがして、製作者に文句を言いたくなるような気持ちがするものもあります。

そこには、きっと製作者の意図があるのでしょうね。私たちは、時代が変われど、物語の結末を見ずにはいられないという傾向が間違いなくあります。

それは実は、エゴがそれ自身を存続させるための作戦なのだ、ということに気づく必要があります。物語の結末を知らずして、安心して死ぬことができないというのです。

けれども、これはある意味の騙しのテクニックに違いないのです。というのも、物語というのは、本当の意味でのお仕舞いというものはないからです。

一つの物語が終わっても、必ず次の物語がすぐにでも始まろうと待ち構えているからです。それは、大きなスパンで見れば、その繋がりを含めて大きな一つの物語であるとも言えるからです。

つまり、物語というのは決して終わりがないということです。物語が終わるときというのは、如何なる場合においても、中断したように感じるものなのです。

だからこそ、私たちは自分の人生という物語が終わりを迎えるときであっても、まだ続きがあると錯覚するのです。そうやって、輪廻の無限とも言える繰り返しが起こるのです。

肉体の死がやってくるのを待つことなく、いつでも人生を終える覚悟をすることです。そして、それは常に結末という感じではなくて、途中で頓挫したように感じることをあらかじめ覚悟しておくことです。

中断してもいいのです。まだ、やり残したことがあるという状態でも、完全に人生を気持ちよく終えることができるなら、肉体の死後に覚醒することになるのでしょう。