厳密な言い方をしてしまうと、私たちの誰も覚醒することはできません。どれほどの難行苦行を行い、崇高な精神を持つようになったとしても、それを行っている本人が覚醒することはないのです。
以前奇跡のコースを読み始めたときには、私自身がこの教えに従って根気強く自分を改善していけば、いずれは神の子に戻る、つまり覚醒することができると思っていました。
けれども、それは違うということに気づいたのです。歴史上誰もが知っているイエスキリスト、あるいは仏陀(釈迦)といった聖人についてはどうなのでしょうか?
実は、一人の人物としての彼らにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなかったのです。個人という自我は、どれほど鍛え上げたとしても覚醒するわけにはいかないのです。
個人という人物の中で、私たちの本質自体がそれ自身に気づいたとき、それが覚醒ということになるのです。
このことを残念なこととして受け止めるのか、それともかえってスッキリ爽やかな気持ちで受け止めるのか、人によって様々かもしれませんね。
私は、とてもスッキリしたのです。なぜなら、もう自己改造プログラムに興味が失せてしまったからです。観念したというのか、とにかく個人という自我はどこまでいったって自我のままだと分かったのです。
そして、更に嬉しいことに自我のままでいながらにして、同時にこの人生のすべてを貫通して常に在り続けている本質にも気づいていられると分かったのです。
このことについてだけは、本当に誰にも平等に与えられているのです。それこそが本当の救いですね。