「私」を探すこと

人は誰でも不安を抱えて生きています。なぜなら、生そのものが不確定要素から成り立っていると言ってもいいからです。

明日どんな不都合が降ってくるか、分かったものではありません。生にはどんな保証もないのです。そんな未来を考えて、不安がやってこないはずはないのです。

だから、何とかして安心を手に入れようとするのですが、それ自体が間違いだと気づくこと。安定、安心を求めることこそが、不安を増幅することなのです。

けれども、そんな言葉に耳を傾けることもせずに、○○を手に入れたらきっと安心できると信じて、飽くなき闘いを繰り返してしまいます。

お金、評価、パートナー、家族、仕事、どれほど頑張って何を手に入れてもダメだと気づいた人は、今度は目に見えないもの、精神性へと希望を向けるのです。

誰もが欲しがっている世俗的なものから離れて、何かもっと崇高な精神性を手に入れたらと考えるわけです。それは勿論、対象が変わっただけで安心を求めるその生き方は何も変わっちゃいないのです。

精神性あるいは神性を求める、探究するのが「いわゆる」宗教なのかもしれません。この世でうまくいかなければ、今度はあの世で幸せになれるようにと思って、一心不乱に祈るのです。

私に言わせれば、世俗のものが神へとすり替わっただけで、本人は一切変わってはいないし、決して安心を得ることもできません。

神性を探してはいけないのです。その代りに、「私」を探すこと。神のことを何も知らずにどうやって探すつもりなのでしょう?それは不可能なことです。

最も身近な「私」を内側深く深く探しに行くこと、そのことに人生のすべてをかけてもいいと思えるなら、いつか「私」が消えたその先に神性が顕わになるのでしょうね。

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