自分を観察していて気付いたのですが、ごく普通に外側の世界を見ている間は、内側の自分というものが個として感じられるのです。
そして、その逆に瞑想などによって内側深くに入っていけばいくほど、外側の世界との境界が曖昧になってくるということです。
このことは一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、実はそうでもないのです。外を観るということは、同時に外とは隔絶した内側を明確にするからです。
だからこそ、ごく普通に社会の中で暮らしているという感覚は、それこそが自分を個人として見るということを同時に起こすのです。
一方で、内側深くに意識を向ければ向けるほど、外側の世界は希薄になって行き、しまいには消滅してしまうかもしれません。
そして、残るのは内側だけとなったときに、内側と外側の区別すら消失して、それが全体性へと変わっていくのです。内も外も同じ一つだったということ。
ただし、それが分かったとしてもこれまで通りの人生は続いていくのですが、間違いなく個としての自分は、周りとの境界が曖昧なものになってしまうのです。
外と内の境界がなくなれば、防衛するべきどんな理由もなくなってしまい、残るのはすべては一つという愛だけになるのでしょうね。