「私」という個人がいるという思いと、「ここにただ在る」という感覚には違いがあるということに気づいているでしょうか?そこには天と地ほどの違いがあります。
前者は思考の産物であり、後者は意識そのものの気づきからやってくるものです。ただし、前者の思い込みの背後には、やはりただ在るという感覚があり、それが使われているのです。
つまり、自己への気づきがなければ「私」がいるという思考を生みだすこともできないはずだからです。人間のマインドのごく一部だけでも意識的になれたために、「私」という思考も作れたということです。
こうしたことをつらつら感じていると、ここに「私」というあるまとまった個としての存在がいるという信じ込みが、何だか滑稽に思えてくるのです。
肉体を用いて、それを「私」と外の世界との境界のように思うことで、独立性を作り出したのです。そしていかにも自律的な存在のように感じさせたわけです。
けれども、自律的であるかのように見えているのはうわべだけで、その実態はどんなものとも分離することなど不可能なことなのです。
この「私」は、自分の腕が一本亡くなったとしても生きていけるのに、外側の世界だと思っている太陽や地球がなくなったら、瞬時に消える運命にあるというのに。
こうした事実を突きつけられると、一般的にそれは単なる依存関係にあるだけだということになりますね。空気がなければ生きていけないのと同じようにして。
そうやって、どんなことがあっても外側の世界は「私」自身ではないということをエゴは曲げたくないのです。その必死さがまた滑稽な気がするのです。
一枚の絵の中に描かれたモナリザは、その絵の中に描かれた背景と一つながりであることは誰でも知っています。私たちが人物に対するゲシュタルトを使わずにその絵を見るならば、そのことは明白なのです。
私たち自身も絵の中のモナリザと少しも違いはないと気づけばいいのですね。