知識と知ることを見分ける

ほんとうに真実を知りたいと思う人に求められる第一の誠実さは、

”自分自身で知っているもの”と”ただ受け売りで知っているもの”をはっきり見分けることだ。

そして借りものは何であれ投げ捨てるのだ!

それはすべてがらくただ。

他の誰かの体験に知識の上でよく通じるよりも自ら無知であるほうがよい。

by osho

 

クライアントさんとのセッションで、いつも基本に置いてもらいたいことは、誰の言葉もそのままに信じてはいけないということです。

信じることと信じないことは1つものです。どちらも全く自己検証していくという態度を放棄してしまうことになるのです。

それはまったくもって楽な道ではあるのですが、それではどんな気づきもやってきてはくれなくなってしまうはずです。

肯定も否定もせずに、じっくりと確かめていくということです。そして、実はもっと問題なことは、単に信じていることを知っていることと混同してしまうこと。

もともと知識とは信じている情報のことを指すのです。だから知識が豊富であるということは、真実から遠ざかってしまうことになりやすいのです。

真実への最短の道は、自分は何も知らないという事実に気づいていることです。瞑想中に、記憶へのアクセスをしなくなったときに、そのことを知ることになるはずです。

「癒しから覚醒へ」がまもなく出版されます

何をおいても大事なのは、自分自身になるということだ。
それが可能になるのは、まずセラピーによって社会から押し付
けられたゴミをすべて掃除すること、そして瞑想によって内側
におもむき、もはや経典に手引きを求めなくなることが必要だ。
経典はあなたの内側にある。

by osho

↑この osho の言葉をモチーフとした本を書きました。きっともうすぐに出版されると思います。ただ、購入はアマゾンからということになります。そのときには、またここでご紹介させていただきます。

セラピストの仕事をスタートさせて何年か経ったときに、セラピーの仕事に一種の絶望を感じたのです。それは、癒しても癒してもキリがないと分かってしまったからです。

逆に癒せば癒すほど、実存の不満、欠乏感に気づいてしまうというジレンマがあったのです。困った末に自己探求へと突き動かされた結果、自己の不在を垣間見ました。

そのときから、セラピーは内側へと入っていくための準備としての位置付けへと変化したのです。もちろんそのことをセッションの中でお伝えするとは限りません。

お伝えしてもいいと感じたクライアントさんには、自然とそうした内容になっていくようです。そういう意識に変わったときに、このブログのタイトルを「癒しから覚醒へ」に変えたのです。

なので、本の題名もそれにしました。不思議ですね、本を出版するなんてまったく思ってもみなかったことだったので。

ただただ思いつくままに、こうして毎日ブログを書いていただけなのに…。
気が向いたら、読んでみて下さいね。

 

悔しさと惨めさの根っこにあるもの

私たちは、傷つきたくないと思いながらも、時として傷ついてしまうことがありますが、それが人生というものですね。

身体の傷は目に見えるので隠しようがありませんが、心の傷は他人に対しても、場合によっては自分自身に対しても隠すことができるのです。

そして人知れず悔しい気持ちになったり、惨めな思いをしつつも、頑張って生きているのです。なぜ悔しくなったり、惨めになるかというと、被害に遭ったと思うからです。

つまり、傷ついたことよりも、傷つけられたという被害者としての想いこそが、悔しさと惨めさを生み出す張本人なのです。

ただし、ここではっきりさせておく必要があるのですが、身体は物理的に傷つけられる可能性がある反面、心は決して傷つけられることはできないということ。

あなたのマインドを傷つけるのは、あなたのマインドにしかできないということ。この事実を深く深く理解することができるなら、傷による悔しさも惨めさも小さくなるはずです。

自分を精神的に傷つけられるのは、自分自身だけだと分かれば、それ以降決して被害者になることはなくなるからです。

私自身、以前からこうしたことを聞いていたものの、なんとなく釈然とせずにいたのですが、自分を癒していく間に、あるときズシンと来るものがあったのです。

それまで何だか腑に落ちないなと思っていたものが、突如として深く納得することができたのです。分かってしまえば、簡単なこと。

思考から抜けている時には、どんな環境であれ決して傷つかないということを体験したのです。つまり、傷つけるのは、自分のマインドがやっている判断や防衛だったのです。

私たちが意識的であればあるほど、いずれは内面を傷つけることがなくなっていくということです。それを体験できれば、悔しさや惨めさを隠すために、誰かに復讐しようとも思わなくなるのです。

そして傷ついた出来事への執着が消えて、自由の身になることができるのです。それまでは、残念ながら囚われの身として生きていくのでしょうね。

傷を癒すという大義名分

私たちは人のことがいつも気になりますね。このブログでも繰り返しお伝えしている、「人のことを考えるな。さもなければ、どんな成長もない。」がいかに難しいか。

その理由は、「私」というエゴがどのようにして作られたのかを見れば明らかになります。幼い頃に、家族から毎日毎日送られて来た自己に対する彼らの反応。

それを自己イメージとして蓄え続けたその先に、エゴという架空の「私」がでっち上げられたのです。だから、エゴは他人抜きには存続できないのです。

つまりエゴとは人との関係性の中でのみ生き続けられるわけです。だからこそ、「人のことを考えるな。」と言われたら、エゴは困惑してしまうのです。

私たちが目の前にいない誰かのことを考えるとき、エゴは安心し、生きるエネルギーを与えられるのです。だからやめられないのですね。

好きな人のことを考えるときも、憎っくき上司のことを考えるときも、気に入らない誰かのことを考えるときも全て同じなのです。

実際に人と一緒にいるときには、エゴは放っておいても活躍できるのですが、独りでいるときには考えることで、エゴは生き延びようとするのです。

セッションで行う癒しの作業では、目の前にいない人のことを思い出し、つまり過去を思い出して、直接傷口を見ることからスタートします。

つまり癒しの前段では、エゴのやり方を積極的に利用するのですが、この方法はどこかで飽和してしまいます。つまり、キリがないのです。

傷を癒すという大義名分がエゴの活力源になってしまうのです。いずれはそのことに気づいて、「人のことを考えるな」を実践していく必要があるのです。

具体的には、人のことを考えていることに気づくこと。気づくことができれば、その時点で考えることをやめることもできるようになります。

そして、人のことを考える自分を見続けることができるようになれば、いずれはエゴは餓死するはずです。だから意識的であることが最も大切なことなのですね。

ブログにまつわる不思議な現象

とても不思議な現象なのですが、一年に一人あるいは二人くらい、私がただ書き続けているこのブログの内容に不満を表明するのです。

書く自由があれば、勿論不満を述べる自由もあるわけですが、なぜわざわざ気に入らないものを自ら読みに来て不満を書かなければならないのか?

よくテレビの番組を見ながら、ずっと不満や悪態を言い続けている人がいますが、あれと同じなのかもしれません。

気に入らなければ、チャンネルを変えるだけで済むはずなのに、チャンネルはそのままに文句を言いつづけるのですから。

勿論、NHK のように受信料を払っているテレビ局に対する不満であれば、それを表明するのは妥当ですが、民放は見なければいいだけ。

私のブログは内容が特殊ですし、社会的な一般常識からみればきっとアウトローなのだと思います。だから目にしたくない人には単にスルーしてもらえばいいのです。

誰もが読んで気持ちいいものだなんて、全く思っていないし、そういうものを書こうというつもりも最初からないのです。

だから内容が自分には合わないと感じるなら、わざわざ読みに来て不快な気持ちになる必要もないと気づいて下さいね。

当たり前過ぎることなので、殊更こんな断り書きをしていないだけです。また、こんなブログでも一応は目を通してやろうと思っている人もいらっしゃるかもしれません。

そういう場合にも同様に、内容が合わない場合にはスルーして下さい。勿論、疑問や質問があればそれはまた別の話しですが…。

共にあることも一人あることもできない

あなたは<全体>とひとつだ。
いかに独りでありえよう?
いかに共にありえよう?
なぜなら<全体>の他には誰もいないからだ。
<全体>とは<全体>だ-他には何もない。
その外には何もない-それゆえに、
それは誰とも共存できない。
共にあることが不可能なのはそのためだ。
が、独りあることもできない。

by osho

 

人間は誰であろうと例外なく孤独です。それを感じていようが感じていなかろうが。なぜなら、個人だという思い違いをずっとしているのですから。

個人であることに基づく孤独に気づいていないとしたら、それは周りにいる誰かを利用して、その孤独を紛らわしているだけなのです。

この身体の内側だけが自分であって、外側の世界は自分とは切り離された別物だという感覚こそが、個人であるわけで、それが孤独でないはずはありません。

人生とは、その孤独感やそれからやってくる不安感とどう戦うかという物語でしかないのです。乗り越えたつもりになっているなら、気づくまで人生は繰り返されるはず。

真に気づくためには、孤独の中へと入っていくしかありません。それは何も山奥で隠居生活をするということではなく、社会の中で内側に意識を向けるということ。

エゴが活性化している状態で、そのエゴを見つめることができるなら、osho が言うように、個人という幻想に気づき、全体性に戻ることになるはずですね。

なつかしい証明問題

学生の頃、数学で証明問題というのがありましたね。ただ計算して答えを出すのではなくて、すでに答えは分かっていて、それが正しいことを証明するという、あれです。

証明とは、つまり正しさを保証するということを意味します。大学の何かの授業で、円の外にある一点と内側にある一点を結ぶとき、必ず円周のどこかを通ることを証明せよという問題がありました。

そんなことは、幼稚園児でも分かることなのに、なぜそれを証明しないといけないのかということと、どう証明すればいいのかに興味を持った記憶があります。

実際にどのような証明方法だったのかは忘れたのですが、覚えていないということは大してズシンとくるものがなかったのでしょう。

世の中には、「なるほど」と唸らせるような証明も確かにあるのですが、所詮は証明とは思考の中でのみ通用することです。

それは証明する「正しさ」自体が思考の中の産物でしかないからです。だから難解な証明問題というのは面白いパズルのようなものなのですね。

正しさに価値がないと気づくようになってから、どんな素晴らしい証明であろうと同様に価値を感じなくなったのです。

人類がまだ解けていない数学の証明問題はいろいろあるらしいですが、万が一それを証明してノーベル賞を取ったとしても、その物語も瞑想には敵わないのですね。

人生物語は夢と同じ

最近老齢のせいか、母親が手が痛くなったり指先が痺れたりするらしく、あまり効果はないのだろうけれどオイルマッサージをしてあげています。

そのときに、ふと母親が、長生きはするもんじゃないねえ。具合が悪くなって人に迷惑をかけるだけの人生なんて、何の意味があるんだろう…などと言うのです。

子育てを遥か昔に終えて、孫の面倒を見終わり、長年連れ添ったパートナー(私の父)を昨年失くして、役に立たない自分でしかないという感覚になっているのでしょう。

私はそんな時、人生というのは元々どんな意味もないんだよと伝えるのですが、それがどれだけ響いているか怪しいです。

人は誰かのために生きているのではなく、何かの役に立つために生きているのでもありません。誰かの世話をしたり、世話をされたり、迷惑をかけたりかけられたり。

ただ自分の存在のままであればいいのです。人生でそれ以外のことはただの夢物語です。目覚めたときに、どんな内容の夢であれ瞬時に消え去ります。

それと同様に、どんな人生物語であれ、死んだ(目覚めた)ときにすべては消滅してしまうのです。ただほとんどの場合は、無意識状態で死んでいくので、目覚めることができないだけです。

百歩譲って、人生で意味あることがあるとするなら、死んでいくときに無意識状態にならないように練習しておくことです。

それが唯一、夢の中でできる夢から覚める確かな方法なのです。できるだけ意識的であり続けられるように、毎瞬毎瞬の注意深さが後でものをいうのですね。

大切な気付きは失望から起きる

内面をじっと感じていると、失望が横たわっているのを感じることができます。それもずっと前からそれはありました。

けれどもそれを包み隠して分からないようにするために、新しい希望や欲望が表面に集結しているのです。どちらが先かといえば、きっと希望や期待が先に来たのでしょう。

失望や絶望というのは、元々希望や期待がなければ存在しないのですから。それはひとつのコインの表と裏の関係と同じ。

いつも一対となって存在しているのです。面白いのは、希望や期待はそれが叶えられなかったときにのみ失望すると錯覚していることです。

実のところ、どんな希望や期待が成就しようと同じように失望はやってきてしまいます。なぜなら、成就とともに「望」みは「失」われるからですね。それが文字通り失望です。

成就してしまったものを望むことは不可能だからです。望みとは未来に向けて手に入れようとすることそのものだからです。

だからお金持ちは貧乏人よりも失望しているし、既婚者は未婚者よりも失望しているのです。この希望と失望のループに気づいた人は、新たな希望をしなくなっていくものです。

そうすれば、もう失望がやってくる可能性はなくなるからですね。それはとても大切な気付きの一つなのです。

そしてどんな望みもなく、その結果として失望も消えていったとき、過去と未来も同時に消えて今あるがままの実在と一つになるのです。

生き甲斐なんていらない

若い頃から、自分は一体何を生き甲斐にして生きていったらいいのだろうと考えて、その答えが出ないままに生きていたのです。

時が経っていつかは生き甲斐が見つかるかもしれないと期待はするのですが、心のどこかでそんなものは一生見つかるはずがないと知っていたのです。

で、やっぱりそれは正しくて、この歳になっても生き甲斐などというものはどこにも見当たらないことは明白になったのです。

そもそもなぜ生き甲斐を必要とするのかというと、瞬間瞬間が充実していないからに違いないのですが、どうしたら充実感を味わえるかを追求することもありませんでした。

最近ようやくその周辺の秘密が分かってきたのです。それは、生き甲斐を見出そうともがくのは、今この瞬間にいないからだということ。

思考によって、過去と未来をいったりきたりしていて、目の前に今あるがままに展開している実在に意識を向けていないからだと気付きました。

思考は必ず、過去と現実を比較し、無いものを想像させ、未来への期待や欲望を生み出し続けるのです。思考こそが、生き甲斐を必要とさせるメカニズムだったわけです。

思考がなければ、生き甲斐は不要となるのです。生き甲斐は物語の中で絶望せずに生きていくための手段でしかなかったのですね。

自己の実在に100%意識を向ければ、その驚異と至福を知ることができるのです。それ以上何もいらないのです。