自分が作った現実を生きている

最近、平日の午後に母親を連れて自宅からクルマで30分程度のところにある、神代植物公園というところに散歩に行くのです。

母親は、数年前に転んで股関節を骨折したせいで、障害者手帳を取得している身分なのですが、その手帳のおかげで本人と付き添い一人までは入場無料なのです。

通常だと入場料大人500円と駐車場代も払う必要があるのに、そのどちらもが無料となるとあって、これはいかない手はないということになったのです。

家の周りを散歩するのと比べれば、それはもう比較にならないくらいに気持ちのいい場所なのです。

広大な敷地の中に、それこそ無数の植物が綺麗に管理されているし、ほとんど人影もないくらいに感じられるくらい、とにかく広くて気持ちいいのです。

ところが何度も繰り返し行くうちに、次第にあの広大な感じが少しずつなくなってきたのです。きっと、園内の地理が頭に入るようになったからなのでしょうね。

園内を頭の中で把握できるようになると、あの初めての時に感じた広大さというのは減ってきてしまいました。もちろん、物理的な広さに変わりはないのですが。

つまり自分が感じていた広大さというのは、事実ではなくて、自分がこしらえた感覚に過ぎなかったということですね。

初めてのところに行くときには、遠く感じたはずなのに、帰り道は意外に近く感じたという経験は、誰にもあるはずですが、あれと同じこと。

私たちは、事実としての現実の中を生きているように見えて、実は自分がこしらえた感覚の中で生活しているのだということがよく分かりますね。

物語の中で生きているというのも、これと同じようなものだと理解することです。