忖度はあったのか?

昨年の流行語大賞にも確かなった「忖度」という言葉が、なかなか時代遅れにならないのは、それがマインドのメカニズムとしてあるからですね。

いわゆる森友学園問題に関連して、公文書偽造という大問題が発覚して大変な荒れ模様となっている国会ですが、その根っこにあるのが忖度があったのかどうか。

忖度があったとしてもそれは当たり前のことだとなぜ分からないのでしょうか?誰のマインドにも忖度がはたらくようにマインドはできているのですから。

忖度にいいも悪いもありません。その結果、法に触れるようなことがあればそれは問題ですし、処罰されなければならないというだけ。

もしも忖度してはいけないというのであれば、嫉妬をしてもダメということ、誰かを憎むのもダメということになってしまいます。

そうした考え方が根本にあると、物事を否定的に捉えることになってしまい、そこには何のご利益もありません。

それよりは、マインドとはどのように働くものなのかを深く理解することで、それを認めることの方がはるかに賢いのです。

安倍首相の間違いは、忖度はなかったと明言してしまったことにあるのです。昭恵夫人が名誉会長になっていたことを否定されないようにするためもあったのかも知れませんが…。

事務方に忖度されないような政治家であるなら、そちらの方が問題なのだということに一人ひとりが気付けばいいのです。

忖度を好ましく感じないのであれば、それは忖度されなかった側のひがみくらいに解釈すればいいのです。

私自身は、若い時から義理を欠いて生きるというのをモットーとしていたので、マインドの忖度事情を冷静に見ることができたのかもしれません。

なんであれ、そうしたくないということであれば、それをしようとするマインド事情をしっかり見つめて、いつも気づいていてあげることですね。

見守る目、裁く目

赤ちゃんの時、私たちは周囲をありのままに見ていました。すべてが一体であり、どこにもどんな分離もなかったのです。自他の区別がなかったのですから。

ところが少しずつ自我が作り出されると、周囲から見られる存在としての自分というものを感じ始めるのです。勿論最初は身体としてですが。

それまで全体と一つだったものが、周囲と分離している自分がいるという感覚がやってくるのですから、これはもう大変なことになるのです。

とはいうものの、まだまだ幼児のころは周囲の目がやさしさに満ち溢れていたかもしれません。見守ってくれている目を感じることは心地よかったはずです。

それが自我の発達とともに、周囲の目の反応も変化してくるのです。場合によっては、妹や弟が生まれてくるかもしれません。

そうなると、周囲の見守る目が、今度は一転して裁く目という本当に恐ろしいものへと変化することが増えてくるのです。

欲しいのは見守る目なのに、残念ながら裁く目がやってきてしまったのです。子供は、見て欲しいのに見て欲しくないというジレンマに苛まれるのです。

この感覚は自覚があろうとなかろうと、大人になってもずっと続く事になるのです。だから、人の目が気になるという状況が生まれるのですね。

私たちの苦しみの原点はすべてここにあると思って間違いありません。自我である限りは、解決の目処は立たないのです。

自分の本質に戻る以外には、真に満たされることはないということですね。

思い切り怒れない人へ

誰であれ、できることなら怒らないで平安な気持ちでいたいと思うものですね。場合によっては、怒ることは悪いことだと感じているかもしれません。

ただし、喜怒哀楽というくらいですから、怒りも正当な私たちの感情の一つなので、健康であるためには怒りもしっかり感じる必要があるのです。

怒りを自覚して抑える場合はともかくとして、自動的に抑えられてしまう主な三つの理由は、以下のものです。

– 恐怖感:怖い状態では怒りは出せなくなってしまいます。

– 罪悪感:申し訳ないという気持ちがあると、怒りはしぼんでしまいます。

– 自己否定:自分が悪かったと思えば、やはり怒りは出にくくなるのです。

こうしたことは、日常的にきっと体験していますので、ああなるほどと思えるはずですが、これらが重複したり互いに関連しあうことで、いろいろバリエーションが起きてくるのです。

たとえば、幼い頃に親などに繰り返し激しく怒られて、その時の恐怖が残っていたとすると、大人になっていざ怒ろうとしても、その過去の恐怖が邪魔をするということもあります。

現実の世界では恐怖はないのですが、過去の恐怖に現在の怒りが妨げられるということです。

こうなると、なぜ自分は怒ることができないのか、その理由が分からない状態になってしまうかもしれません。

場合によっては、その怒りが行き場を失って仕方なく自分へと向かうことになることもあります。それがなんらかの自傷行為を誘発させるのです。

怒りに対面できない理由が過去の恐怖なのであれば、今度は恐怖と対面することが必要になるということですね。

瞑想が苦手と感じている人へ

クライアントさんの中には、瞑想を得意としている人も確かにいらっしゃるのですが、実際には多くの方々が苦手だと感じているようです。

人間にはそれぞれに得意不得意があるものですから、誰もが同じように瞑想しなければならないというものではないのです。

もっとも不要だなと思うのは、瞑想が苦手な自分はダメだと否定してしまうことです。本来、瞑想はするものではありません。

何もしないことこそが瞑想なのですから、得意かどうかなどという発想が見当違いだということもできるのです。

ただし現実的には、マインドというのは何もしないでいることはほとんど不可能なので、瞑想を「する」という変な言い方をせざるを得ないのですね。

その上で、どんなマインドの状態にあると瞑想しづらいのかを見てみると、無意識的な状態のときなのです。

自覚なく過ごしていることが多ければ、間違いなく瞑想が不向きなマインドの状態であると言えますね。

逆に言えば、何であれ意識的にするのであれば、それが歩くことでも食事することでも、会話することでも、それだけで瞑想することに近いのです。

わざわざ時間を割いて瞑想しようとしなくても、できるだけ意識的な時間を過ごすようにする方が、より瞑想的なのです。

したがって殊更苦手意識を持つよりも、瞑想のことはすっかり忘れてもらって、ただただ意識的な状態でいるように心がける方がいいということですね。

向こうの世界に自分はいない

先日あるクライアントさんとのセッションの中で、ずっとエゴと意識について話し合っていたのです。

いつもそのクライアントさんとは、そういった内容で終始するのですが、そのせいなのかセッションが終わろうとしているまさにそのときに、急にこの世界の中に自分を探すことはできないということを体感したのです。

つまりこの世界の中には、自分はいないということです。ある実験をすると、自分がどこにいるのか実は分からないということに気づくのです。

なぜ分からないかといえば、それはいないからです。正確に表現すれば、無か全体だということです。

他の言い方をすると、本当の自分は向こうの世界にはいないということです。私たちは、通常自分の肉体の内側が自分の領域だと感じています。

そして肉体の外側にこの世界が広がっているというわけです。けれども、今言わんとしていることはこれとは全く異なることです。

自分の本質だけがこちらにあり、向こう側に自分(エゴ)の肉体も含めたこの世界が広がっているという感覚です。

だからこの世界の中に、本当の自分(自分の本質、つまり純粋な意識)を探すことはできなかったということです。

エゴとして生きている自分を、いつも向こう側の世界に所属する奴だと思って、優しく見守ることができると更に距離ができるようになるのでしょうね。

マインドの仕組みを理解したらこっちのもの

私にとって、クライアントさんとのセッションの目的の大きな柱の一つとなっていること、それがマインドの仕組みを深く理解することなのです。

人間の苦しみというのは、本質である意識がマインドと同化することによって、個人だという思い込みの中でもがくことなのです。

マインドのなかでどれほど幸福感に包まれる瞬間があろうとも、その逆も必ずややってくることになり、結局はマインドという牢獄から抜けない限りは何も変わらないことに気づくのです。

マインドというものを理解すればするほど、理解が深まれば深まるほど、自然とマインドとの距離ができてくるのです。

言ってみれば、マインドの傍観者になるのです。他人のことも、自分のこともマインドとして見ることができるようになると、自分が特別ではないと気づくのです。

自分を特別視しなくなれば、自分に固有の苦しみというものもなくなっていくのです。マインドとは、思考によって人生という夢を見ている儚い奴なのです。

マインドから距離を取ることができると、マインドを磨こうとか、良いマインドにしようということが、馬鹿げた考えだったと気づくのです。

どんなマインドであっても、みんな本質的には同じなんだということが身にしみて分かるようにもなるのです。

そうなったら、どんなマインドのことも責める必要がなくなるのです。マインドの仕組みはどれも同じ。マインドはどこまでいってもマインドなのです。

それが分かれば、マインドをあるがままに見て、愛を持って放っておくことができるようになるのです。それが最終的には、マインドの終末を迎えることになるのでしょうね。

嫉妬深くて困っている人へ

嫉妬というのは、恐怖と怒りと自己嫌悪が適度の割合でミックスしたものだと言えますね。だから、どんなマインドであれ嫉妬心がないということはありません。

それがはっきり分かるのであれば、嫉妬することも一つの楽しみとして感じてあげればいいのです。

ジェラシーは楽しいって…。それは嫉妬する相手への最大の賛辞だということでもあるわけです。

誰にも嫉妬したことがないなどとうそぶくよりも、すぐに嫉妬してしまうという方が素直でいいのです。

大切なことは、嫉妬しないようにするということではなく、嫉妬している自分のマインドをしっかりと見つめてあげるということです。

勿論マインドが落ちてしまった人は、つまり覚醒してしまえば嫉妬することもできなくなってしまうわけですが、マインドがあるうちは誰でも嫉妬するのです。

嫉妬だけでなく、マインドのシステムが持つあらゆる感情、あらゆる気持ちをそのままに見て、それを受け入れてあげることです。

もしも嫉妬深いことを否定したくなる気持ちがあるのなら、その気持ちを今度は見てあげることですね。それもマインドの当たり前の機能なのですから。

人と一緒にいて疲れる人へ

人と一緒にいて、和気あいあいとできる人もいれば、何となく疲れてしまうという人もいます。

人と仲良く快適に気持ちよく過ごせればいいのですが、誰かと一緒だとかえって寂しさを感じてしまうという人もいるでしょう。

本来人間は社会的な生き物なので、独りでいるようにはできていないのですが、防衛が強く働いてしまうと、ハートが閉じてこもりがちになるのです。

けれどもそれは大チャンスなのです。なんのチャンスかというと、自分とは本当はなにものなのか?という最も大切な真実に気づくチャンスなのです。

というのも、人といて楽しむことができる人は、そのことによって本質的な不安や孤独というものが紛らわされてしまうのです。

そうなると、真実に気づかずに人生を終えてしまう可能性が大だからです。それも決して悪くはないのですが、気づいて次のステージへと向かう自然の流れに乗れないのです。

独りでいた方が楽という人は、不安や孤独に気付きやすい状態であるということができます。

その不安と孤独から逃げずに、しっかりと見つめていればそれがどこからやってくるのかに気づくこともできるのです。

それは個人だという間違った思い込みによって、自分以外のすべてと分離しているという感覚が原因のすべてだと分かるのです。

分離しているという思い込みをしているマインドから離れることができるなら、不安も孤独も一瞬にして消えていくでしょうね。

所有欲と独占欲を見てあげる

誰のマインドにも所有欲というものがありますね。あれが欲しい、これが欲しい、それさえ手に入ったらきっと幸せになるに違いないと思うのです。

欲しいものが手に入って、その所有欲が満たされると、今度は失いたくない、誰かに奪われたくないという独占欲がムクムクとあらわれてくるのです。

それが執着を生み出すというわけですね。ないものを欲しがり、あるものは失いたくない、こうしたことが私たちの不幸の原因になっているのです。

もしも誰かを好きになったなら、その好きという気持ちを抑圧せずにただ見ること、同時に所有欲が湧いてきたらそれも見ればいいのです。

その好きな人と共にいることができるようになったなら、すかさず湧いてくる独占欲をよく見てあげること。

こうしたことを意識的に継続的に繰り返すことで、執着というものが小さくなっていくはずなのです。

とにかく鍵となるのは、「見ること」なのです。見ることができるなら、所有欲であれ独占欲であれ、それらに巻き込まれてしまうことがなくなるからです。

その結果、執着に縛られなくなるなら、きっと結婚制度というものに意味がなくなっていくのではないかと思うのです。

そうなったら、昼メロで描かれるようなドロドロした人間関係も影を潜めてしまうでしょうね。家族の形態も変化するかもしれません。

家族の形がもっと別の開かれたものになったなら、従来のような閉ざされた環境で子供たちが親に洗脳されるようなこともなくなるのではないかと思うのです。

やり手か見物人か

ほかのさまざまな状態は消え失せる
しかし、それだけがただひとつ
あなたの中で不変なものだ
もっともっとこの<観照者>に近づきなさい
もっともっと気を引き締めて
もっともっとひとりの<観照者>になるのだ
世界の中で<やり手>でいるより
ひとりの<見物人>になるのだ

by osho

「やり手」と「見物人」がいるとしたら、どちらの方が価値があるかと聞かれたら、きっと多くの人が「やり手」でしょうと答えるはずです。

オリンピックにしても、優勝して金メダルを獲得したやり手の選手と、その様子をただ見物していた人とでは、間違いなく選手の方が重要視されますね。

見物人が国民栄誉賞を受賞することは決してありませんから。当たり前のことですが、けれどもそれはなぜかを見ると理由があるのです。

それはエゴの価値の決め方によるということです。実際に行動している「やり手」こそが、この世界を作っていると考えているからです。

「やり手」側というのは、素晴らしい偉業を成し遂げることもあるし、極悪非道で邪悪な場合もあるのです。

だから面白みもあるということですが、一方の「見物人」というのは可も不可もなく、ただ傍観しているだけなのでいてもいなくてもいいとされるのです。

ところが、↑では明確に、「やり手」でいるより「見物人」でいなさいと言っているのです。

実は、「やり手」というのはエゴのことであり、「見物人」というのは観照、つまり意識を意味しているのです。

常に意識的であれということですね。なにもしてはならないということではなく、なにをするにしても意識的でありなさいということですね。