やり手か見物人か

ほかのさまざまな状態は消え失せる
しかし、それだけがただひとつ
あなたの中で不変なものだ
もっともっとこの<観照者>に近づきなさい
もっともっと気を引き締めて
もっともっとひとりの<観照者>になるのだ
世界の中で<やり手>でいるより
ひとりの<見物人>になるのだ

by osho

「やり手」と「見物人」がいるとしたら、どちらの方が価値があるかと聞かれたら、きっと多くの人が「やり手」でしょうと答えるはずです。

オリンピックにしても、優勝して金メダルを獲得したやり手の選手と、その様子をただ見物していた人とでは、間違いなく選手の方が重要視されますね。

見物人が国民栄誉賞を受賞することは決してありませんから。当たり前のことですが、けれどもそれはなぜかを見ると理由があるのです。

それはエゴの価値の決め方によるということです。実際に行動している「やり手」こそが、この世界を作っていると考えているからです。

「やり手」側というのは、素晴らしい偉業を成し遂げることもあるし、極悪非道で邪悪な場合もあるのです。

だから面白みもあるということですが、一方の「見物人」というのは可も不可もなく、ただ傍観しているだけなのでいてもいなくてもいいとされるのです。

ところが、↑では明確に、「やり手」でいるより「見物人」でいなさいと言っているのです。

実は、「やり手」というのはエゴのことであり、「見物人」というのは観照、つまり意識を意味しているのです。

常に意識的であれということですね。なにもしてはならないということではなく、なにをするにしても意識的でありなさいということですね。