これはきれいであれは汚いだの、これは善くてあれは悪いだの区別をしないこと。区別はいらない。
離れているのだ。ものごとは善くも悪くもない。善だの悪だのという性質はあなたによって持ち込まれたものだ。
ものにはきれいも汚いもない。それはただあるがままにそこにあるだけだ。
by osho
↑これを日常の生活の中にそのまま持ち込もうとしても、それは土台無理なことですね。無理して、何かを自分に強いるのはやめることです。
そうではなくて、人知れず自分の中で↑このことを携えて生きていればいいのです。たとえ忘れてしまったとしても、また思い出すことができればいいのです。
「区別をしないこと」と言われて、すぐにそうしなくてはならないと考えるのではなく、自我は区別するものだと認めることが先決なのです。
その上で、自我として生きている自分はそのままにしておいて、ここで言われていることを忘れずにいればいいだけなのです。
この人が好きで、この人は嫌いということを否定せずに、自我として生きている自分は、そのようにして区別することで存続しているのだと理解することです。
それを否定したり、改善しようとすればするほど、それこそが自我の欲望であることに気づくこと。
これは善いことで、あれは悪いことだと思いながらも、一方では本当はそんなのはないのだけれどね、というのを持っていればいいのです。
自我が消えれば、区別も一緒に消え失せると知りつつ、自我として生きている自分を受容するのです。
そして時期が来れば、自我としてのあなたは消えていくことになるだけなのですね。
毎日更新を楽しみにしています。
いつもありがとうございます。
質問させていただきたいのですが、
自分の本当の気持ちと自我の声は違いはあるのでしょうか?
また、ある時の気持ちが自己防衛からの気持ちでもそれは本心となりその声を尊重して良いのでしょうか?
私達は自我として生きているので、本当はないけれど区別した自我の気持ちで生きることがシンプルに生きている事になるのかな?など疑問が湧いています。
まだまだわかっていない自分がいます。
まとまりのない文章ですみません。
よろしくお願いします。
↑このような疑問が湧くのも当然だと思います。自我の声というのは、すべてが自己防衛からやってくるものだと理解することです。このことに例外はありません。ただ、防衛からくる気持ちだと気付けるかどうかが問題なのです。多くの人にとって、そこに気づくことが難しいのです。そしてどんな声であれ、それを見ていることです。見るというのは、批判せず判断せずにただ見るということです。尊重でもいいのですが、ちょっと誤解しやすい気がするので、ただ愛をもって放っておくという感じです。
ご回答ありがとうございます。
例外はないのですね。
やはりこれも見ることなのですね。
最近は大澤さんがよく伝えてくださっているシンプルで生きることを心がけているのですが(行きたいところに行く、快不快の選択など)そうしてるうちに、このこうしたいと湧いてくる気持ちは、本当の自分の声なのか自我の声なのかと考えるようになりました。
結局は自我として生きるしかないのでしょうから、これを見ていくことなのですね。
つい忘れがちですがまた根気よく続けていきます。
ありがとうございました。