見ることなしに眺める

どんな判定もなしに、ただあなた自身の内に坐り、そして眺める。

何を見ることもなしに眺めること。眺めれば眺めるほど、見出すものは少なくなるものだ。

深く目をやればやるほど、思考は姿を消す。ひとたびこれを知ったなら、鍵はもうあなたの手中にある。

by osho

私たちが何かを見る時、それは自我を通して見ているということに気づくべきなのです。

ただ見たようなつもりであっても、実際には一瞥しただけであって、その後は自我の独断と偏見によって彩られたものを見たことにしているのです。

↑上で言っている「何を見ることもなしに眺めること。」とは、自我の目を通して見るのではなく、ただ眺めることだと言っているのです。

「眺めれば眺めるほど、見出すものは少なくなる」とは、自我の目を通さずに見ることができれば、自我の判断や裁きがなくなっていくということ。

「深く目をやる…」とは、ただただ見つめるということであり、そうすることで自動的に思考の介入がなくなっていくのです。

深く目をやることで、客観的に見るということよりもむしろそれと一体になっていくニュアンスを感じ取る必要があるのです。

たとえば、部屋の中で独り静かに坐り、目の前の壁をただ見つめてみるのです。ただただ眺めていると、ふいに壁との距離が曖昧に感じられるかもしれません。

私が壁を見ているということが事実ではなく、単にそう思い込んでいただけだと気づくかもしれません。それは単に思考の解説だったということです。

そこに見出すものは何もなくなり、どんな意味も価値も一切が消え去ることを実感できるはずなのです。