分からないを認める

私たちは、他人のことをよく分かっていると思い込んでいるふしがあるのです。きっとこうに違いないとか、間違いなくこうだというように。

けれどもそれは本当でしょうか?ただ分かっているということにしたいだけなのではないかと考えてみませんか?

私はよく、どうやってそれを証明するの?と思ってしまうのですが、そんな時に、証明なんかしなくても分かっているので…、と言われてしまいます。

自我というのは、分からないということが苦手なのかも知れないです。分からないでいることが怖いので、分かったことにしたいのです。

分かってしまえば何かと安心するのです。まずは、しっかりと分かっていることと分からないことを見極める必要があるのです。

例えば、他人の幸不幸など決して分かるはずがないのに、あの人はきっと幸せだろうとか、あの人は可哀想に不幸に違いないとやるのです。

類推するのは自由ですが、類推するということは分かっていないということを意味します。分かっていることは類推できないですから。

そう考えてみると、まずは前提として他人のことは決して分からないということからスタートする必要があります。

分からないからこそ、少しでも分かろうとして受け止めるという大切なマインドの働きに辿り着くのです。

更には、分からない他人のことと自分を比較することの無意味さに気づくことができます。分からないものをどう比較対象にできるのか?それは不可能ですから。

分からないことをそのままに分からないと受け止める練習をするのです。きっと分からないことだらけで生きてきたことにびっくりするはずですね。