何であれ全体からのプレゼント

先週久しぶりに東京に雪が降った次の日、以前に買っておいた雪靴を履いて事務所に出かけたのです。

細心の注意を払ってクルマの運転をして無事到着して気が緩んだのか、あるいは初めて履く雪靴に慢心したのか、まさかの転倒。

かかとのところに金属のギザギザがついていて、これなら滑らないはずと思っていたはずなのに…。

逆につま先の方がツルツル滑る感じがしてはいたのですが。カチカチに凍って少し傾斜のある歩道を歩いていたら、あっという間に転んで膝が血だらけ。

顔や腰を打ったりしなかっただけマシなのですが、この年齢になって転倒するとは思ってもいなくて、急に降り掛かったちょっとした災難。

次の日、同じ場所を通りたくなくてちょうど道路の反対側を歩きながら、あそこで転んだんだと思って見ていたら。

何とその場所を若い女性が普通のスニーカーを履いた状態で、スケートのように滑ってなんとも楽しそうにしているのです。

年齢差なのか、運動神経の違いなのかは分かりませんが、呆気に取られてしまいました。

この災難も何かのプレゼントなのかと苦笑いしつつ、今日も風呂上がりに患部の処置をしながら思ったのでした。

自分なりの魔法の言葉

みなさんの中にあるかどうかは分かりませんが、私のマインドの中にはかなり以前からある「特別な言葉」があります。

それは何かというと、「ただそれだけ」という言葉です。なんだそれ?と思うかもしれませんが、それは自分なりには重要な意味があるのです。

年齢は定かではありませんが、きっと小学生の頃にはもうすでに考え出していたと思うのです。

生きていると日々自分の嫌な気持ち、嫌な気分、嫌な感情、焦る気持ちやどうしようという困った感覚などがたくさんやってきますね。

落ち込んでみたり、嫉妬や劣等感、あるいは罪悪感に苛まれたり、とにかく不都合なものは毎日必ずやってきます。

そう言ったあらゆる都合の悪いものから解放されたいと思っていたのです。そのためにあみ出した言葉が「ただそれだけ」だったのです。

何か都合の悪いことが起きたときに、「ただそれだけ」と自分に言ってあげることで、ちょっと距離ができるような気がしたのですね。

今ではその理由が分かります。「ただそれだけ」というのはただ単にそれが起きているだけ、というニュアンスなのです。

つまりは、それに対してただそれを見てそれを感じるだけで、それに対してどんな解釈も判断もしないでいるということです。

思考を使わずにいられれば、何がやってきたとしてもそれをただ見ていることができるのです。

子供の頃はそのようには理解できていなかったので、この魔法の言葉を用いるようになったのだと思います。

みなさんも、自分なりの魔法の言葉を持っているのではないでしょうか?そしてその魔法がどう言った理由で効果を発揮するのかを、検証してみるといいと思いますね。

中道=「ふつう」の中の「ふつう」

ブッダは自らの生き方を中道と呼んだと言われていますね。ある極端とその真反対の極端のちょうど真ん中のことを中道と呼んだのです。

孔子はそれを中庸と呼んだらしいですが、どんな言葉であれそれが伝えようとしていることは同じです。

ところがこの中道や中庸を勘違いして理解してしまった人がたくさんいます。一つの例をあげれば、中道が正しい道だと思っているのです。

それが間違いだと言うことが分かるでしょうか?中道は、正しさと正しくないことのちょうどど真ん中なのです。

善と悪の真ん中でもあり、誠実さと不誠実の中間でもあります。もうお分かりだと思いますが、真ん中というのは「ふつう」と言うことです。

極端に真面目でもなく、不真面目でもないと言うこと。物事を信じるのでもなく、信じないのでもないと言うこと。

私たち自我にとっては、この「ふつう」と言うのは特に魅力を感じるわけでもないし、なんなら忌み嫌っている可能性すらあります。

と言うのも、「ふつう」であると自我はその中で埋もれてしまって存在が危ぶまれてしまうと思っているからです。

中道というのが何となく難しい感じがするというのでしたら、それは「ふつう」の中の更に「ふつう」であることをイメージすればいいのです。

それが如何に難しいことであるか、実際自我には無理なことです。だからこそ、ブッダは中道を目指せばいずれは覚醒すると言ったのですね。 

観念から離れてみる

私たち人間が日頃どれほど観念やイメージの世界に生きているのか、それはもう驚くべきことになっています。

その中でも最も強く囚われてしまっているものの一つが罪深さですね。罪というのは観念でしかないのですが、それへのこだわりは相当なものです。

罪悪感から逃れようとしてどれほどの無理や我慢を自分に強いていることか。あるいは、相手をコントロールするのに罪悪感を利用したりもするのです。

親が子供を言いなりにしようとして、子供に罪悪感を感じさせるのは常套手段ですね。子供はまんまとその作戦の餌食になってしまいます。

瞑想状態において、消えてしまうものは全て観念であり概念であり、イメージと言ってもいいし妄想でも構いません。

つまりは実在しないということです。ありもしないものに対してひどく怯えてしまうということです。

罪が実在しないのに罪悪感を実際に感じるのは、罪という観念を実在するものだと信じてしまったことによるものです。

そう考えてくると、実在するものの方が圧倒的に少ないとわかります。例えば、感覚的なことで言うと、冷たい水に飛び込んだ時のスキッとした感覚とか。

爽やかな微風に吹かれた時の清々しさとか。あるいは、冷えた身体で温かいお湯にゆったりと浸かった時の温もる感じ等々は、実在のものです。

そうした身体の感覚は分かりやすですね。なるべく観念を使わないでいられる時間を多くして、実在の中で過ごせるとシンプルな生を堪能できるように思いますね。

自我の原理を認める

繰り返しお伝えしていることですが、自我として生きている私たちの根っこにあるものは、不安と恐怖と孤独です。

これは絶対的なものです。というのも、冷静に理性を働かせてよく見れば分かることです。個人、個体である限りは避けられないのです。

だから人類は何とかしてそれを克服しようとして、あらゆる手段を講じてきたわけです。その一つが誰かと一緒にいるということ。

幼い子供は、親やその他の家族がそばにいてくれるおかげで、孤独を紛らわすことができるのです。

大人になってもそれは変わりません。誰かと共に生きているという感覚があれば、孤独は和らぐのです。

誰かを愛するだけで、不安や恐怖も小さくなったように感じることができます。けれども、そのどれもこれもが真実を隠すためのものでしかありません。

所詮は孤独だし、不安と恐怖は消えないのです。自我の愛は、真の愛ではなく、苦しみを紛らわしてもらうためのものでしかありません。

魂の恋人と巡り合ったとしても、原理は何も変わりません。良い悪いの話ではなく、原理をしっかり見て認めることです。

誰もが同じ原理の中にあるわけですから、これほど平等なものはありません。その上で、じっくりと自我という幻想を暴けばいいのです。

孤独も不安も恐怖も自我と共に消え失せて、後の残るのが真の愛(無我)ということですね。

柔らかい人とは

子供の頃にインコや文鳥を飼っていたのでよく知っているのですが、彼らは何か物音がすると身体が細くなったようになり、逆に安心しているうちに身体が丸く膨らんだようになります。

私たち人間であれ他の動物であれ、身を守ろうとするときには身体を引き締めて硬くする傾向にありますね。

ギュッと身を縮めて油断のない状態にするのです。その逆にゆったりとして自然でいるときには身は緩んで柔らかくなっているのです。

ということは、自我が不安や恐怖で強く防衛しているときには、頑なな心の状態になっているはずなのです。

とにかく硬い感じのする人は、防衛が強い人だと思えば間違いありません。正しさという衣をまとっている人も同じですね。

一方で、まとっているエネルギーが柔らかくて自然な感じがする人は、防衛が小さい状態でいるということです。

私たちはどちらの人の方を好むかといえば、もちろん後者の方ですね。恐怖のエネルギーは硬く、愛は柔らかいということです。

さてあなた自身は、どちらのエネルギーをより多くまとっているでしょうか?じっくり見つめてあげることですね。

ただやってきてくれるプレゼント

何の理由もなく、どんな予告もなく、ただあるとき急にふと感じる幸福な感覚、それが好きなのです。ただそれを意志の力で引き寄せることができないのです。

それと、その感覚がいつまで続くかも分からないので、それがまた儚い感じがしていいのかもしれません。

それに対して、何か自分の努力で望むものを手に入れたときの感動も好きですが、こっちはその後にある種の失望がやってきます。

あれほど憧れて、どれほど夢に見たかと思うようなものが、やっと手に入って大喜びしているはずが、それほどその興奮は続くことがないのです。

だから、絶頂を極めてしまうと、後にやってくるのは谷底でしかないということなのかもしれません。

このような理由のある満足感は、いつだってそれほど長く続いたことはなくて、私はそれを失望と呼ぶことにしています。

だから冒頭の、理由のないフワッとした緩やかな幸福感の方が好きなのです。やってきてくれたのを当然とも思えないところもいいですね。

そうしてみると、私の場合は自分の力で何かを成し遂げても満足することがなく、逆にただやってきてくれたものへのプレゼント感が好きなのです。

この社会では脱落者になるしかないのかもしれませんが、そういう性分なのでそれで良しとして生きています。

夢とこの生は違う?

今回の人生の目的は何か?と考える人は意外に多いかもしれません。何か目的や目標がはっきり定まっている方が、生きやすいのだろうと思います。

人間(自我)のレベルでの話しであれば、そう言ったことをあれこれ考えるのも悪くはないかもしれません。

けれども、より真実に近いところにおいては、答えは全く異なるものになってしまいます。

そもそもこの生に目的などないのです。生に意味を見出そうとするのは勝手ですが、そんなものはありません。

生は何かを達成するためにあるのでもないし、どこかに至るものでもないのです。これが真実です。

自我(思考)はそれを許すつもりはないでしょうけれど…。目覚めた途端に長い夢が消えてしまうのと同じ。

あれほど夢の中でもがいて必死だったのに、目覚めてしまえば、まるで泡のように消えていくのです。少しの間は余韻が残っていることもありますが。

生も全く同じです。どれほど焦って耐えてもがいて苦しんで、何かを手に入れようとしたところで、終わってしまえば何も残りません。

それなら、夢とこの生という現実と何が違うのでしょうか?違いを見つけることはなかなか難しいように思いますね。

真の自己への回帰

私の内側深くで、しかも小さな頃から現在に至るまでずっと叫んでいる声があります。声と言っても言葉が直接聞こえてくるわけではありません。

それを敢えて言葉に変換するなら、「なんだか変」と言っているようです。何が変なのかというと、全てが変だという感じです。

変というのは、きっと何かが間違っていると感じているのか、あるいは勘違いをしてしまっているということなのか。

それを突き止めることができずにずっと生きてきたのです。99%はもう諦めてしまったように思います。

それでも残りの1%が諦めずに、ずっと心の奥で訴えているのです。それ、違うよって。全くもって間違っちゃったと。

今ならその意味がわかるような気がします。それは、全体としてただ在る自己を、個人という自我に落とし込んでしまったことが原因だと。

この世界で上手に生きていくために必要なことだったのですが、幼い頃に家族や周りの人たちから教え込まれてしまったのです。

4、5歳にもなれば、社会から与えられた自分という立場に沿って生きるようになったのです。

社会が望むものを見て、社会のルールの中で立派に生きていくための方便を、真実だと思い込んだのです。

それでも1%はそれ以前の自然さを覚えていて、異議を唱え続けていたということですね。ある意味の頑固さがあってよかったです。

これからの残りの人生は、決して消えることのないその声に耳を傾けて、感覚としてしっかり残っている全体性への回帰に向かうことにしたいと思います。

とはいえ、やることはとてもシンプル。長年のしつこい思い込みを外して、あの自然だった自分に戻るだけなんですけどね。

比較が貧しさを生む

自我というのは、その成り立ちからして貧しさがあるのです。それは、自分には何かが足りないという不足感を持っているからです。

どれほど裕福であっても、人も羨む財をなしたとしてもその所有からくる豊かさというのは、非常に危ういものなのです。

なぜなら自我の根っこにある不足感という原動力が、表面的で物理的な豊かさを常に否定してしまうからです。

どれほど多くの人々に囲まれていたとしても、根本的には孤独であるということと同じようなものです。

自我が抱えざるを得ない内面的な貧しさというものを、なるべく感じないようにするためには、比較をしないように生きることです。

本当に豊かな人というのは、比較せずに生きている人なのです。原理的に言えば、比較をしないでいられれば、あなたは真に豊かなままでいられるのです。

あの人にはこうしてあげるのに、私にはしてくれないとか、あの人はあれを持っているのに私は持っていない等々。

比較を始めたら、それこそ際限なく続くことになるのです。自分が比較をしていることにリアルタイムで気づけるようにすること。

比較はあなたを貧しいままにしておくことを覚えておくことですね。