私たち一人ひとりが、自分の本質に気づき、自分の本質と出会うとき、つまり光明を得たときには、それまで探究していた私は消え去っていくのですね、残念ですが…。
それはまるで、一滴のしずくが大海の中へと落ちて、その中へと消えて影も形もなくなってしまうことに似ています。それはそういう運命にあるのです。
それはただ自然であって、そこにはどんな問題もあるはずもないのですが、一滴のしずくのような「私」という自我が出来てしまったために、大海の中へと消え去ることに恐怖を感じるのです。
インドには、その昔ごく普通の機織り職人でありかつ詩人でもあったカビールという人がいたのですが、彼は光明を得た人でした。
その彼が、光明を得ることは一滴のしずくが大海の中へと入っていくようなものと詩の中で言ったことを、後で訂正したのです。
その訂正とは、実は光明を得るということは、大海が一滴のしずくの中へと入って来ることだと言ったのです。わざわざこのような訂正をしたということは、そこには何か大きな意図があるのでしょうね。
つまりは、私たちの準備ができるなら、真実の方から私たちの中へと飛び込んでくるということです。真実はいつだってその瞬間を待っているのです。
いつも使っている言葉で言えば、全体性はそのチャンスを狙っているのです。そして、それが起きるときには、私たちの中へと全体性が流れ込んでくるのです。
思考が落ちて、真っ平な鏡のような内面になるなら、それはいつかやってきてくれるのでしょうね。