恋愛のパターン

以前、「恋愛は心の窓」というコラムを書いたことがありました。自分が経験してきた恋愛をよく観察すれば、自分の心の奥にしまわれた秘密が分かるというものです。

恋愛がうまく行かないという悩みでセッションに来られる方はとても少ないです。きっとそれは、元々恋愛がすべてうまく行くなどということはないし、そうした悩みは誰もが抱えるごく普通のことだという認識があるからでしょう。

確かに10代の頃の恋愛で悩むことはごくごく当たり前のことですし、そういう経験が人を大人へと成長させるのだというくらいの感覚を誰もが持っているからですね。

しかし、20代、30代と恋愛の経験が増えても、相手がいろいろ変わっているというのにどうも同じような恋愛ばかりを繰り返してしまっているとしたら、心の問題を疑う必要があります。

それこそが恋愛のパターンであるわけです。こうしたパターンには本当に沢山の種類があります。例えば、一番好きな人とはお付き合いができずに、いつも二番手ばかりと恋愛をする。

あるいは、相手からお付き合いを申し込まれての恋愛ばかりで、自分が好きだと思う人とは付き合うことができない。

そのほかにも、女性の場合でしたら年の離れたお父さんのような男性とばかり結果として付き合ってしまっているとか、不倫関係になることが多い。

一人の人と長く付き合うことがなく、半年もしないうちに他の人に気持ちが移ってしまう。一度に多くの人と付き合ってしまう、いわゆる二股三股あるいはそれ以上となってしまう。

相手がストーカーのような人だったり、暴力や依存症などの一般的には相手としては敬遠するような人を自然と選んでしまうということもあります。

こうしたことは、大抵がパターン化されて繰り返す傾向が強いのです。それはすべて、心の奥深くにしまわれた幼い頃からの問題が顕在化していると言って間違いありません。

ただの恋愛の悩みだと思って軽く扱っていると、人生そのものが大打撃を受けることにもなりかねません。是非、心の癒しの必要性に気がついて一日も早くセッションを利用されることをお勧めします。

理性的な自分と情動的な自分

昨日は、ダイエットを目的として食事制限しようとする意識と食べてしまいたいという意識の間の葛藤を例にとって、能動的な選択の重要性についてお話ししました。

このとき、食事制限しようとする理性的な自分と食べてしまいたいと思う情動的な自分では、理性的な自分が正しくて、情動的な自分は幼稚でダメな自分と思ってしまいがちですね。

しかし、実はこのどちらの自分も与える心ではないのです。つまり双方ともに求める心であるということができます。

食べてしまいたいという気持ちは、確かに求める心であるというのは分かりやすいのですが、食べないようにとしている理性的な自分がなぜ求める心なのかは分かりにくいと思います。

それはなぜダイエットをしたいと思っているのかという根本的な理由を探っていく事で理解できるはずです。健康上の問題は例外として、大抵の場合はダイエットによって他人からの評価を上げたいという気持ちがベースにあるはずです。

それはつまり、他人からのいい評価を求める心であるという事がいえますね。決して与える心ではありません。

結局、理性的であろうと情動的あるいは感情的であろうと、その違いにはあまりこだわる必要はないのです。なぜなら、大切なことは与える心か求める心かという一点にあるからです。

そして、与える心になれるのは、昨日も触れた唯一中立な意識だけなのです。昨日は、心の中にいる中立な意識だけが本来の選択をすることができるという説明をしました。

この意識、この中立な心だけが食べるのを控えるか、食べてしまうかという直接的な選択をするだけではなく、もっと大切な求めるのか与えるのかの選択をすることができるのです。

人は与えることによってのみ心の平安を得られ、幸せな状態になることができます。与えることは、必ず与えられるからです。

逆に求める心は一過性の安心を得ることはできますが、その意識の元になっているのは欠乏感や恐怖なのです。

理性的であろうと、情動的であろうとどちらも大して違いはありません。そこに注意を向ける必要もありません。与えるという選択こそが幸せへの鍵なのですから。

能動的な選択

葛藤という言葉があるように、私達の心の中には、互いに真反対とも言える意識が一歩も譲らないようにして、まるで戦闘態勢になっていることがあります。

自分の心がある事柄に関してたった一つの意識だけであれば何の問題もないのですが、なかなかそうは簡単にはいきません。

例えばダイエットをしようと決意して、大好きなケーキを食べないようにしようとする意識があれば、その反対に目の前にあるケーキを食べてしまいたいという意識もありますね。

その二つの意識はそれぞれに、もっともな理由があってその気持ちを主張しているわけですが、全く相容れない主張であるため本人は苦しむことになります。

ケーキを食べずに我慢しようとする意識が理性的であるとするなら、大好きなケーキを我慢せずに食べてしまいたいという意識は情動的なわけです。

こうした葛藤が心の中で互いににらみ合って、相手を打ち負かして自分の主張を通そうと頑張るわけです。

そして、どちらの主張が通るかは、その時のパワーの強さで決まってしまいます。つまり、より強力に訴える方が自分自身を乗っ取ることで、自分がどうするかが決まるわけです。

乗っ取るという表現は少し過激な感じもするかもしれませんが、力づくで自分を奪い取るわけですから、どちらでもない中立な自分の立場からすると紛れもなく乗っ取られたということになってしまいます。

それは能動的に自分の行動を選択するというよりは、受動的にあるいは強引に決められてしまうという表現の方が近いのです。

あたかも能動的に自分が選択したかのように見えて、その実は強引にどちらかに決められてしまったということです。禁を破って食べてしまった時にはよりそうした感覚になるはずです。

どちらを選ぶにしても、能動的にあるいは理性的に選択することができると、自分を責めたりすることがなくなります。

そのためには、中立な心が双方の主張を充分に受け入れることです。特に、情動的になっている意識の主張は時間をかけて受け止めてあげることです。

それに成功すると、その訴えるパワーをある程度平静化することができるのです。そうすることによって、どちらが勝つかということではなく、中立の心が穏やかに選択することができるのです。

自分の心に葛藤が生じているときには、この方法によってその葛藤を鎮めると同時に能動的に選択することができるようになるのです。

機会があれば是非試してみて下さい。上手にそれをするためには何度も練習をして習慣にする必要があります。懲りずに訓練を続けることですね。

内的世界と外的世界

私達は目覚めている時、つまり意識を持って生活している間は自分の外側に何事かが起きているということを把握しながら、自分の心の反応をも感じています。

自分という存在の外側を外的世界と呼び、誰にも分からない自分だけの心の中のことを内的世界と呼ぶことにします。

私はこの仕事をするようになって、外的世界で何が起きているかということよりも、内的世界のことにいつも意識を向けるように自然となってしまいました。

その理由は、外的世界と内的世界の一番大きな違いについて考えてみれば容易に理解していただけるはずです。

それは外的世界というのは、何かが現象として起こり、我々はそこで何か問題となることを認識すると、それを解決しようとするのです。

その解決方法としては、人一倍努力してみたり人のアドバイスに従ってみたりしますね。そうして、最終的に物理的に解決することこそが目的となるのです。

それに比べて、内的世界というのは現象として何かが起こるということはなく、目で見ることも耳で聞くこともできない世界です。

心の世界では、何か問題となることがあったとしても、それを直接自分以外の人が認識することができないわけです。

したがって解決と言っても、それはもっぱら問題を深く認識して、それを受け入れるということになるのです。

そして結局、外的世界の問題を解決したからといって、内的世界の問題がなくなるわけではありません。

しかし逆に内的世界の問題を解決することができたら、外的世界で何が起ころうとも問題とはならくなってしまうのです。

つまり、内的世界をいつも意識に上げて、そこから目を背けずにすべてを受け入れることでしか本当には問題を解決することはできないということです。

外的世界がどうなっていようと、そこに翻弄されている限り、何も根本的な解決にはならないことを忘れずに、常に自分の心と対話することが大切なのです。

シミュレーションの世界

吉祥寺のセッションルームからそれほど遠くない距離に調布飛行場があります。昼間、時々セスナが吉祥寺上空を旋回してたりするのですが、きっとその飛行場から飛び立って練習しているのだと思います。

子供の頃から何かを操縦することに興味を持っていて、勿論クルマの運転が好きで、ヘリコプターや飛行機も運転できたらいいなと思っていました。

そんなおり、その飛行場の中のある場所で、飛行機のフライトシミュレーターを体験できることを知り、先日行って来ました。

ホンモノのセスナの操縦席そっくりに作られたシミュレーターの中に入って、操縦桿を握ると、目の前に並ぶ沢山の計器類にちょっと気後れしてしまいました。

パイロットの人に飛行機の計器類や操縦方法をそこそこ詳しく説明してもらったあと、いざ離陸です。そのシミュレーターでは、その飛行場を飛び立って羽田飛行場の滑走路に着陸するというものでした。

エンジンをかけると、全身にその振動がとてもリアルに伝わってきます。大型の画面が目の前に三つあって、そこに映る景色もホンモノそっくりです。

操縦桿を握る手にやや汗をかきながらも、なんとか離陸に成功しほっとしたのもつかの間、機体を水平に安定させるのにも苦労しました。

離陸して少しすると東京タワーが見えてきます。それを目指して飛行すると、すぐに右前方に羽田飛行場が小さく見えてきます。

それを目標に右に旋回して、そのまま真っ直ぐに羽田の滑走路を目指して少しずつ高度を下げていきます。パイロットの人の指示に従ってなんとか着陸して、機体を停止させて終了しました。

長く生きていると、こんな楽しい経験もできるのですね。今はジャンボジェット機のパイロットの方々も日常的にシミュレーターを利用しているそうです。

バーチャルな世界では、リアルな体験が危険を伴わずにできるので、本当に楽しいものです。奇跡のコースによると、この現実という世界も実は幻想だということなので、それを信じることができたら、何も怖れることなく楽しめることになりますね。

そうできたら恐怖がなくなり、生きることを心から楽しめるようになって争いごとが消えてしまうのでしょうね。

自分の人生を生きる

人はその成長過程において、少しずつ自分のアイデンティティというものを確立していきます。その基盤となる時期を自我確立期といい、一般的には4~5、6歳くらいの間に起こります。

その後の12歳くらいまでの間を同一性確立期といって、アイデンティティをしっかりと確立していくことになります。

こうした大切な時期に、子供の存在を自分とは別の存在だとはっきり認識できない親に育てられてしまうと、その子供のアイデンティティが曖昧なまま成長してしまうことになります。

そういう親は、その親自身の幼いころにやはりそうした傾向を持つ親に育てられた可能性がとても高いと言えます。

つまり、分離不安を強く持ち続けてしまった親に育てられた人は同じようにして分離不安を持たされてしまうため、人と分離できない、つまり境界の分からない人になってしまうことが多いのです。

猫可愛がりしたり、溺愛したり、過保護、過干渉などはその典型的なものだといえます。程度を超えた心配性なども同じことが言えます。

そんなふうな親に育てられてしまうと、子供の心のなかにその親の考えや主義主張、趣向などのすべてが入り込んだままになってしまうのです。

一人の人間としての自己同一性、つまり自分とはこういう人間なんだという明確な感覚を持とうにも、それを親の色で塗りつぶされてしまうのです。

そうなると、何歳になってもその子供の独自性が育つ事が出来ずに、その子供の色あいが出てくることがなくなってしまいます。

それはもう自分の人生を生きているとはとてもいえない状態なのです。自分が何者なのか分からないばかりか、そうした状況では生きていることがとても辛いのです。

だから、自分がなぜ毎日生きているのか分からない、自分はなぜ生きなければならないのかが理不尽に感じられたりするのです。

心の癒しを進めていくと、本当の自分というものが次第に顔を出すようになって、それがなんともいえない気持ちのいい体験だと気づいていくのです。

もしも、自分の人生を生きてる気がしないという自覚が少しでもあるのでしたら、何歳からでも遅くはありませんので、真剣に癒しを実践していくことが必要です。

対人恐怖

人は心の奥底で自分のことをダメ出ししたり否定していると、そのダメさ加減が周りの人に知られてしまったら軽蔑されて、見捨てられてしまうと感じるのです。

大人であれば見捨てられてしまったとしても、苦痛や悲しみを感じるだけで生きてはいけるということを理解できるのですが、それが幼い子供であれば死を意味します。

そうした幼い頃の意識をいつまでも持ち続けていると、それこそ命がけでダメな自分を隠さねばならないという強い衝動を感じながら生活することになるのです。

それこそが対人恐怖の元となるものなのです。自分を守ろうとする力が大きければ大きいほど、恐怖もそれに比例して大きくなるのです。

そういう状態では、人と関わることがものすごい重荷になってしまいます。気軽に人と接してたわいもない話しをしたりすることが辛くて仕方ないのです。

まだ、決められた仕事を黙々とこなしたり、与えられたことを淡々と遂行する作業のようなものが主であれば楽なのですが、筋書きのない人とのコミュニケーションが一番苦しいのです。

油断しているすきに、いつ何時自分のダメな部分を見破られてしまうかもしれないと思えば、相手に気を許すことなどもってのほかと感じてしまうのも当然ですね。

そんな苦しい思いをしてまで人並みの生活を維持しようとは思わなくなってしまう可能性もあります。そうなると、外出することもままならなくなってしまうかもしれません。

深夜にレンタルビデオ屋でビデオを借りたり、コンビニに夜食を買いに行くということはできるのですが、それはそういった行為には社会生活という人とのかかわりがないからです。

家を出て、近所の人と出会って軽い挨拶をするということの方がむしろ辛いはずです。なぜなら、そういった行為はシンプルではあっても、そこには立派に社会というものが存在するからです。

毎日の生活に支障が出てしまうくらいの対人恐怖は、心の奥底に持っている自己否定感、無価値感といったものをしっかり見つめて、それが単なる思い込みに過ぎないということを理解することができれば、少しずつ改善していくことができるのです。

裁く基準

私達は無自覚であろうとはっきり自覚していようと、自分のことや他人のことを日々裁き続けて生きています。

自分を裁くと自責の念というものに悩まされることになります。それは罪悪感といってもいいですし、自己嫌悪とか自己否定と表現することもできます。

簡単にいうと、自分へのダメ出しですね。自分をそんなふうに裁いている人は、必ず他人のことも同じように心の底で裁いているものです。

ところで、何かを裁くという時には必ず裁くための基準となるものが必要です。ただ通常はあまりにも当たり前過ぎるようなことは基準など考えなくても裁いてしまいます。

例えば漠然とした人の道に反した行為、悪意のある言動、反道徳的なこと、倫理的でないこと、など挙げ出したらきりがありません。

そういった一般常識的な基準があっても私達は人によってそれぞれ全く同じように裁くわけではないですね。

ある人はこの程度のことは許せると感じるかもしれませんし、別の人はそれは人として絶対許せるものではないとして裁くかもしれません。

このような違いは一体どこからくるのでしょうか。単なる個性の違いということで済ましてしまうこともできなくはないですが、生まれ育った環境による影響も馬鹿に出来ません。

幼い頃に、自分は母親や父親にとって理想的な子供ではないと感じることが続くと、それに対して自分は自分だというように突っぱねることは至難の技です。

なぜなら、幼い心にはそうしたことを主張できるほどの基準となるものがまだ出来上がってないからです。つまり、親の期待や理想などが自分の基準となってしまうのです。

ですから、親にとって自分は都合の悪い子供なんだと感じると、その親の基準に習って、自分はダメな奴なのだという思い込みをしていってしまうのです。

それが結局大人になって自分や他人を裁く時の基準となっているのです。親の期待に応えられない自分は、自分のままでは価値を見出せないと思ってしまうのです。

そうした自己否定感は根強く心の底に残ってしまい、自分に対して自信を持てなかったり、ダメな自分への罰として辛い人生を作り出してしまうことにもなるのです。

自分を責めてしまうとき、その基準は絶対的なものではないし、親の基準を使っていないかどうか、再確認することはとても大切なことだと思います。

愛を感じるとき

人は自分にとって特別な人、例えば我が子やパートナーなどの家族、あるいは恋愛対象となる異性、そういった人に深い愛情を感じるものですね。

こうした愛は概ね誰でも経験しているはずです。自分の身を挺(てい)しても守りたい相手、とても大切で愛しい人、そういう特別な存在には誰でも愛情を感じるのです。

ところが、そういった特別な存在ではない、ごく普通の関係の人に対しても愛を感じるときというのがあるのです。

私の経験では、一緒にセッションをしている時のクライアントさんには大抵そうした気持ちを感じることができます。

セッションの中でも、特にヒーリングをしているときとか、催眠療法をしている時などはまた更にクライアントさんをとても愛しいと感じてしまいます。

私がなぜセラピストという仕事を選んだのか、一つ理由を挙げろと言われたら間違いなくこのことを言うはずです。

人を愛しいと感じることができる瞬間というのは本当にいいものです。だからこの仕事はやめることができません。

また、そうした個人セッションの時以外でも、同じような体験をしています。日々複数の方々を相手に講座を開いています。

その時にも、常にというわけではないのですが、何か急に同じ空間で同じことへ意識を向けて下さっているみなさんのことが本当に愛しいと思うことがあります。

それは何度も繰り返しいらしてくださって顔見知りになるからではなく、初めてお会いする場合でもそうした事は起こります。

その場合、その場にいらっしゃるお一人ひとりに個別に気持ちが向くというよりは、何か一つの塊のような感じで愛しさが溢れてきます。

こうしたことは、正直言うと奇跡のコースの勉強会のときにも時々あります。あるときに気持ちが心の奥から何か突き上がってくるようなものを感じるのです。

その瞬間、ものすごくそこにいる全員がとても愛しい感覚になります。きっと、これが愛を感じている時なんだろうなと密かに思っています。

愛は人に向くばかりではないはずです。先日何かのテレビ番組を見た直後に、地球のことがものすごく愛しく感じたときがありました。

愛のターゲットはどんなものでもいいのです。なぜなら、愛を感じる事自体が自分の幸せだからですね。みなさんは、どんなときに何に対して愛を感じるのでしょうか?

一体だった頃への執着

人は大抵互いに気の合う者同士でいる時に心地いいと感じます。物事の考え方や主義主張や信条、何かに対する意見、あるいは趣味や趣向、そういったものが同じだと嬉しいのです。

個人というのはそれぞれに独立した個体であるわけで、だからこそ姿かたちや指紋や性格にいたるまで、同じ人というのはいません。

つまり個別性というのは互いに違っているということが前提なわけです。それにもかかわらず、自分と同じようなものを相手にも求めてしまうのです。

人が何人か集まったときに、みんなの意見が揃うと気持ちがいいものですね。自分が思っていることと、相手が思っていることが同じだと嬉しくなります。

逆に、意見が食い違っていたり、趣味や趣向などが違っていたりすると、当然話しもさしてはずまないですし、何となくつまらないような気持ちになってしまいます。

私達は本来、その違いを超えて相手の気持ちや考えを受け入れることができます。言葉を変えれば共感することができるのです。

自分の気持ちを分かって欲しいと訴えている人を、丸ごと受け止めてその気持ちに深く共感することができると、その人は穏やかな気持ちになりますね。

ところが、もっと心の奥の本心では、受け止めてもらうだけではなく、自分と同じ気持ちになって欲しいと願っているのです。

特に、心の多くの部分にまだ依存が強く残っている人の場合には、こういった傾向が色濃く出ることになるのです。

その理由は、依存心というのは、すべてが一つであると感じていた赤ちゃんの頃への強烈な執着からくるからです。

この現実では、残念ながら成長するにつれて、身体も心も一人ひとり別々だということを思い知らされるわけですが、赤ちゃんのころの一体感への郷愁、強い執着が個別性を感じたときに悲しく、そして寂しい気持ちにさせるのです。

だからこそ、自分と同じものを求めてやまないのです。この気持ちの正体をしっかり見据えることが、依存から自立へと進むためには絶対に必要なのです。