罰(ばち)が当たる

私達は幼い頃より、悪いことをすると罰(ばち)が当たるということをよく言われてきました。罰(ばち)などと言う言葉は今や死語になりつつあるのかもしれませんが。

人間のレベルなど遥かに超越した神様や天使やその他目に見えない存在の裁きにあって、罰(ばつ)を与えられることを罰(ばち)が当たるというのですね。

無邪気な子供は自分が悪いことをすると一体どんなばちが当たるのか、それが怖くてできるだけ悪い事をしないようにと躾けられるわけです。

それの最上級の表現が、悪人は死んだ後地獄に突き落とされるというものですね。それも怖いので、生きてる間になるべく品行方正にしていようと思う人もいるかもしれません。

特に昔、信心深い人などはそうだったかもしれません。そういう考え方には、神様の怒りに触れてしまうということも含まれています。

神仏などを擬人化して、我々人間のように感情を持っていて、悪い人に対して怒りを覚え、厳罰に処するということを考えるわけです。

少し冷静に考えれば、人間を超越した大いなる存在がこんな卑小な人間と同じ怒りなどの感情を持っているはずがないと分かるはずです。

きっと心の中の恐怖が大きかったり、特定の宗教的な教義などによってある種の洗脳をされてしまうことで、そういった馬鹿げた思い込みを持ち続けてしまうのかもしれません。

善悪、正不正などの概念や怒り、憎しみなどの感情を持っているのは人間です。神仏という存在があるとすれば、そういった人間臭い部分など持っているはずがないのです。

つまり、罰(ばち)が当たるなどということはあり得ないということです。それは、人の罪の意識が作り出した幻想に過ぎません。

神の裁きというものがあるとすれば、それはあなたがどんなことをしたとしても、そのことに罪などありませんよ、ただ間違いを訂正するだけでいいのです、と教えてくれるということです。

神は悪い行いということを認識しないはずです。それは人間が考え出した概念に過ぎないからです。罪というものを意識して人を裁くのも人間以外にはありません。

もしも心が愛に溢れていたら、決して裁くということを考え付かないはずなのです。出来る限り、愛を持って人を見ることができるようになれたらいいなと思います。

便利さの価値

自分は子供の頃から合理的なものの考え方や合理的な事をとても好む傾向がありました。そしてそれは当然便利なことやものへの興味へと発展していきました。

小学生くらいのときに考えていたのは、誰でも身につけられる腕時計くらいのもので、家中の電化製品をすべてコントロールできたり、今のケータイの役割を持ったりするものが発明されると思っていました。

その頃見ていた子供向けのテレビ番組などの影響があったのだと思いますが、結構真剣に未来を想像したりして父親にそのことを話したりしていました。

今から30年くらい前の、社会人になってすぐのころ、21世紀になるころには新聞配達というのはきっとなくなるという話を職場の先輩に話してたことを覚えています。

これは当たりませんでしたが、はがきや手紙の代わりに電子メールが普及するようになったし、いまやニュースはネットで読むという人も増えています。

きっと単行本のようなものは消えていき、代わりに電子ブックが標準的なものになると思っていたのは完全に予想通りになりつつあります。

ところが、合理的で便利なものを考えるのは本当に楽しいことなのですが、最近はあまり考えなくなってしまいました。

それは便利さや合理的なことに、以前ほど大きな期待を感じなくなってしまったからだと思います。そしてその理由は自分の中ではかなり明確です。

それは、やはりそういったことが自分の心の幸せとは結びつくものではないということがはっきりと分かってしまったからなのです。

私の予想では、あと数十年たつと、一家に一台、聞けば何でも応えてくれるロボットさんがいるのが当たり前になると思っています。

世界中のすべての情報とネットで繋がっていて、人の話す言葉を理解し、質問に対して瞬時に答えを見つけて言葉で教えてくれるはずです。

寂しい独り暮らしの人の心の友になってくれるかもしれません。それでも、自分の幸せには寄与しないだろうという予想がつくのです。

便利さや快適さが全く不要ということではありませんが、幸せは周囲にころがっているわけではなく、ただ与える心の中にしかないということです。

他人のことはよく分かる

私は約10年前に癒しを始めたときに、なかなか自分が変化したという自覚を得ることができずにいました。

一緒に癒し始めたヒプノのクラスの仲間たちは、会うたびにこんなふうに楽になったとか、こんなことに気づくようになったとか、口々に言っていました。

自分だけが一向に変化しないなあと半ばいやになっていたときに、講師の方からご家族のみなさんはどうですかと聞かれたことがありました。

その時に、自分以外の家族がみんななんとなく変化してきたという感覚がありました。それを思ったときに、ああ本当は自分も変化しているんだなと思えたのです。

自分が変わったからこそ、家族も変化してきたのだろうということが直感的に分かったのです。つまり、そのくらい自分の事というのは分かっているようで実は分かってないということだったのです。

自分以外の人のことというのは、ほんの些細な変化でも分かるものですし、ここをもう少しこうすればもっと楽になれるのにといったようなことが手に取るように分かったりします。

なぜこれほどまでに、自分のことと他人のことで違いがあるのでしょうか。それは、他人のことは比較的客観視することができるからです。

客観的に見るということは、それだけ自分を防衛する必要がないということなのです。防衛せずにいられれば、それだけ冷静にそして理性的に見ることが可能なのです。

逆に自分のことは、常に防衛しようとする意識が働いているために、都合の悪い自分については自覚しないままに目をそらしてしまうということです。

ですから他人のことであっても、自分との強い利害関係などがある場合には、やはり防衛が働くことがあるために、客観視できなくなってしまうということもあり得るのです。

自分のことを深くそしてあるがままに見つめるためには、利害関係のない他人を客観的に見るようなつもりで見てあげることが是非とも必要なのです。

適職と天職

以前このブログで一度、天職について書いたことがありました。この時期になると、新たに仕事に就く人が沢山いらっしゃいます。それで、再度職業について書いてみたいと思います。

世の中には沢山の職業がありますね。勿論主婦業や子育てをする親業というのも一つの職業だと思っていいと思いますが、どれだけの人が自分の職業に満足しているのでしょうか。

その人の性格や気質などにちょうどマッチした職業のことを適職というのかもしれません。生まれながらの得意分野というのが誰にでもあるわけですが、そうした才能を生かせる仕事は適職というのでしょうね。

学生から社会人になるときなど、一体自分はどんな職業が適しているのか、自分は何をしたいと思っているのかと考えるはずです。

また、すでに仕事に就いている場合でも、今の仕事は自分にとっての適職なのかと疑問を持つこともあるはずです。

そんなとき、適職を見つけるヒントになるものとして、とても重要な要素があります。それは、子供のころに持っていた興味です。

一般的に小学生や中学生の頃というのは、まだそれほど人生のしがらみというものを持っていませんので、そういう時期に興味を抱いていたものは生まれながらに好きなことである場合が多いと思います。

私の場合には、物事の本質を考える哲学的なことと、人の心について興味がありました。偶然かもしれませんが、今そのどちらにも深く係わる仕事に就いているという自覚があります。

自分が社会人になるときには、そうした子供の頃の興味については職業を選ぶ選択肢としては全く考慮することはありませんでした。

そんなものでは生活していくことができないと勝手に思い込んでいたからでしょうね。そういった常識的な思い込みというのが、適職に就くことを邪魔したのだと思います。

適職に対して天職という言葉もありますね。これは、得意不得意などとは関係なく、何か大きな力によって決められた職業というようなニュアンスがあると思います。

ですから天職というのは自分の理性では気づくことができないものかもしれません。きっと、適職かどうかも分からないままに続けた結果、何となくこれが天職なのかもしれないという感覚としてやってくるのかもしれません。

勿論、適職であると自覚している職業に就いていて、それが天職である場合もあるはずですから、そうなったら何よりも幸せかもしれません。

またその反対に、全く適職ではないと思っているような場合であっても、それが天職であるということもあるはずです。

職業で人生が決まってしまうわけではないということをこの10年くらいの間に学んできましたが、それでもかなり大きなファクターになることは間違いないですね。

もしも自分の仕事に不満がある場合、じっくりとこうしたことを考えてみることは決して悪い事ではないと思います。

録音の勧め

いつの頃からでしたか、セッションの様子を録音して持って帰るクライアントさんが増えてきました。はじめのころは、ごくたまに催眠療法の部分だけを録音したいという方がいる程度でした。

それを持って帰って、録音されたものを聞きながら自分独りで年齢退行のセッションをやるときの補助として使いたいということでした。

それが次第に一般のカウンセリングのセッションを録音されるケースが多くなってきました。私自身も録音されることをお勧めしています。

その理由は、クライアントさんというのはセッションの内容を覚えているようでいて、実は次にいらっしゃるまでの間にかなりの割合で忘れてしまうからです。

ご本人はこれだけ繰り返し聞いて納得もしたことを簡単に忘れるはずはないと思っているのですが、実際にはやはり忘れて生活してしまっていることが多いのです。

その証拠に、次のセッションのときに前回の内容について伺ってみると、ああ忘れていたと言われる場合がとても多いのです。

心の癒しはセッションを受けるだけでは残念ながら思うように進めることができません。現実の生活の中で実践して初めてその効果が期待できるのです。

セッションとセッションの間にどう生活に反映させることができるかというところがとても大事なわけです。そのためには、内容を忘れてしまってはせっかくのセッションが役に立たなくなってしまいます。

そのために、私はまた来ていただけるかもしれないと感じたクライアントさんには、大抵次から録音機材を持ってこられるようにと促します。

私も経験がありますが、自分の声というのはどうしたわけか何だか最初のうち、聞くに堪えない感じがするものです。でもそれも始めのうちだけでそのうちには慣れてきます。

録音を聞くことが出来ると、内容の復習だけではなくて、自分がセッションでどんなふうに会話しているのかということも客観的に見ることができて、とても自己分析の役に立つのです。

個人的な使い方をしていただく限りにおいては、セッションを録音していただくことには何の問題もありませんので、癒しを本気でやっていこうと決意したのであれば、是非とも録音されることをお勧めします。

復讐の人生

人は誰もが幸せになりたいと思っているその裏側で、実は仕返しを目論んでいる心を持っているのです。勿論それは一般的には自覚されていません。

そして仕返しを現実のものとし続けるためには、残念ながら自分の人生を幸せの方向とは反対に向かわそうとしてしまうのです。

なぜなら、自分が誰からも羨ましがられるような幸せな人生を得てしまったら、それこそ仕返しすることができなくなってしまうからです。

つまり、その仕返しとは自分の人生が病気や不運などの苦悩によって彩られている必要があるということです。

その理由は、仕返しの相手が親だからです。あなたのせいで、自分はこんなに苦しんでいる、こんなに辛い人生になってしまったのだということを知らしめたいということです。

それは元はといえば、幼いころに自分が我慢をして自己犠牲を強いてきたことに対する不満の気持ち、文句を言いたい、訴えたいという思いがベースになっています。

そうした満たされない思いが大人になっても人生のあらゆる場面で、かたちを変えて現実としてやってくるのです。

成長する過程において、充分にその不満を親にぶつけて受け止めてもらうことができたなら、その時点で仕返しは沈静化すると共に幸せを求める人生がやってきます。

しかし、そうしたことが実現できないまま大人になってしまうと、いつまでたっても親に対して訴え続ける気持ちがなくならないのです。

そしていつしか、訴え続けること、つまり復讐することそのものが人生の目的と化してしまうのです。これは本当に恐ろしいことですね。

大切な自分の人生を馬鹿げた復讐のために台無しにしてしまう可能性があるのです。もしも、自分の人生を呪いたくなるような気持ちがあるのでしたら、このことを一度真剣に見つめてみることをお勧めします。

感情は溜まる

10年前に会社を退職して、ヒプノのスクールに通い始めたときに、学んだことの中でとてもインパクトのあるものがありました。

その一つは、感情というのは心の中に溜まっていくものなのだという事です。それまでの人生ではあまり感情について真剣に考えたこともなかったのです。

感情というのは、単にその時々の状況に合わせて心に浮かび上がってくるものであって、その場を過ぎれば消えていってしまうものと漠然と思っていました。

自覚としては、過去に体験したいやな出来事やそのときに感じた様々な感情を、自分がいつまでも心の奥に残して持ち続けているということはありませんでした。

過去のことを思い返したときに出てくる感情がもしあったとしても、それは現在の感情であって過去に感じた感情とは別のものだと思っていたのです。

このように認識している人は多いのではないでしょうか。勿論、今この瞬間に新たに沸き起こってくる感情というものも確かにあります。

しかし、過去の出来事を想起したときに沸き起こってくる感情は、過去に自分が感じて未消化のまま残っていた感情である場合がほとんどなのです。

この気づきはとても新鮮でしたし、ある意味驚きでもありました。感情はしっかり味わって消化しない限り、時間を越えて過去から現在へと生き続けているということです。

このことにはっきりと気づくことができたおかげで、人の心のメカニズムというものに深く係わっていくことができるようになったのかもしれません。

感じなくなることでなくなってしまったと思った感情は、基本的にはみな心の奥に抑圧されてしまわれていただけだったのです。

一般的な事実の記憶と同じようにして、我々はその時々に未消化にした感情を記憶として心の奥にしまってしまうということです。

そうしてしまわれた感情記憶は自分にとって都合の悪いものですから、自分で意識しない限りいつまでも川底のヘドロのように溜まったままになるのです。

そしてそれがある限度を越えたときに、無自覚のうちに表面へ飛び出してくることになります。その時に初めて自分の心には何か得体の知れない感情があるということに気づくのです。

何も特別なことが起きているわけでもないのに、ふと電車の中などで涙が出てきてしまうというようなことになったりします。

あることをきっかけとして、急に怒りっぽくなってしまったとか、今まで寂しさなど感じた事もなかったのに、孤独感を感じてしまうようになるといったことが起こるのです。

誰の心の奥にも未消化なままになっている沢山の感情が溜まっています。それは悪いことでも病んでいるわけでもない、正常なことなのです。

ただ、それがあまりにも限度を越えて溜め込まれた状態であれば、必ずそれがその人の人生の中で大きな影響を持って表面化するようになるということなのです。

感情は見えるものではありませんが、ある種のエネルギーの塊のようにして心のひだの奥深い部分に蓄積され、それがその人の人生をコントロールしているということなのです。

小さな幸せ

私達は確かに、より幸せになれるものならなりたいと思っています。誰もわざわざ苦しむことを好んで引き寄せようとなどしないと思っているのです。

現状の自分にはとても簡単には手が届きそうもないような幸せを夢見たり、憧れを持ってそうなれたらいいなと思うことは誰にでもあることです。

ところがその反面、すぐに手が届きそうな幸せに対しては、人は一概にそれをすぐにでも手に入れようとばかりするわけではないということがあります。

幸せというと大げさですが、今日確実に手の届くような満足感とか達成感とか、そういうものを絶対に手に入れようとなど思ってないということです。

例えば、今日中に終わらそうと思っていた物事を計画通りに無事やり終えることができたら、プチ幸せになれる、気持ちをスッキリさせることができると分かっていても、それをせずにその日を終えてしまうことがありますね。

この一口を我慢することで、ダイエットを成功させて晴れ晴れとした気分で人生を過ごせると分かっていても、食べてしまうこともあります。

大きなやさしい気持ちで相手に接することができたら、互いに小さな幸せを感じられるはずなのに、相手が言った一言に気分を害して、いやな反応をしてしまうこともあります。

こうして見て行くと、私達は本当に幸せを求めていると言えるのかと疑問を感じてしまうのです。簡単には実現しそうもない幸せを例にとって、それを本気で願っていると思っているだけです。

そういうものは、この瞬間に自分がすべきことと結びつかないために単にその幸せを求めていると思っているだけなのかもしれません。

本当に幸せを求めているのであれば、身近にある小さな幸せに対して、それが叶うように具体的にしていくはずです。

大きな幸せよりも、小さな幸せをしっかり実現できるように、日々自分の言動に気をつけることが大切なのだと思います。それができて初めて、本当に幸せを求めているということになるのではないでしょうか。

求める人生

何かを渇望して、それを手に入れるために無類の努力をして、そしてめでたくそれを得られたとしても人は満足することはありません。

志望する学校に入学できても、希望する会社に就職できても、愛する人と結婚できても、素敵なマイホームを建てられたとしても、決して満たされることはありません。

3億円の宝くじに当選しても、そのお金で好きなものを沢山購入できても、自分の思い通りに人や社会をコントロールできたとしても、金メダルを獲ったとしても、結果は同じです。

その理由は簡単です。今上で挙げたようなことはみな自分の外側で起きたことだからです。その時々の達成感だったり、一過性の満足感は確かに得られます。

しかし、真に私達が求めている永続的な満足感、満たされていると言う感覚とは違うものです。真に満ち足りているとは、それが決して失われるものではないと分かっているということです。

自分の達成した成果や外側で起きたことというのは、すべて一過性のものに過ぎません。それはいつ失われることになっても不思議ではないのです。

つまり外側に何かを求めている限り、それを手に入れられても入れられなくても満ち足りるということにはならないということです。

自分の外側に求める心こそが自分の心に欠乏感をいつまでも残してしまう原因となっているのです。求める人生を辞めることこそが、満ち足りた幸福な心になるための条件だと言えます。

外に求めないと一口に言っても、そのことを真剣に考えてみると大変なことだと気づくことができます。なぜなら、私達は一様に誰でもがずっとそうした人生を送ってきてしまっているからです。

他の人の力に頼って求めるのが依存心であり、自分の力で求めるものを手に入れようとするのが自立心なわけです。

結局、自立していても依存のままであってもどちらも本当に満ち足りるという心の状態にはなれないということになります。

勿論、私達は簡単には求める人生をやめることはできないでしょう。それでもそれを承知の上で少しでもそこから手を引くことにチャレンジする必要があるのではないかと思います。

それが与える人生ということになります。

怒りの取り扱い その2

昨日のつづきです。

幼い頃に不安の中で生活してきた人はそれだけ自分を防衛しようとする気持ちが強くなるために、それだけ多くの怒りを溜め込んでしまうということでした。

そしてその怒りを何とかして開放していかないと、その後の人生において新たな怒りを覚えてしまうような現実がやってきてしまうのです。

このやっかいな怒りという感情について、このように対処すればいいんだということを我々は習わずに大人になってしまうのです。

私達は怒りをどう取り扱えばいいのでしょうか?持て余すだけで、今更誰にも聞けないと思っている人もいらっしゃるでしょう。

心に関することで正解というのはないかもしれません。しかし、次のようなことを心がけることはヒントになるはずです。

まず、怒りという感情を特別扱いする必要はないということです。他にも沢山感情の種類はありますが、そうしたものと同じものだということです。

どうしても怒りは攻撃的なニュアンスが強いので、悪いもの、人に迷惑がかかるもの、そうしたネガティブなものだという思いが根深いのです。

まずそれを払拭することです。怒りはただ自分を守ろうとする時に湧き上がってくるだけのものなのだと理解する必要があります。

いいも悪いもないし、ただ怒りを感じているだけなら別に誰にも迷惑をかけるようなことはありません。その怒りを自分で受け入れずに相手にぶつけてしまうと迷惑になるだけです。

怒りを感じる自分を否定する必要もありませんし、ただ自分の心の内部でそれを感じて処理することができれば、正常な心の状態に戻ることができるのです。

自分の怒りともっと密接に付き合うという意識が必要かもしれませんね。感情はすべて正当なものだという理解が大切なのです。

自分の怒りをきちんと受け止めて、内面で味わって開放することができれば、他の人の怒りの感情に対しても拒絶することがなくなるのです。

是非、自分の怒りを手なずけて仲良くなって下さい。そして、どんな怒りが湧き上がってこようと、いつでもそれを冷静に処理することができれば、生きることがとても楽になるはずです。