怒りの取り扱い

今更言うまでもなく、怒りというものは自分を攻撃的な気持ちにさせるための感情であるわけです。比較的静かな怒りもあれば、とても激しい怒りもありますね。

どちらにしても、相手を攻撃することで自分を守ろうとする行為であるのです。それは物理的に、自分に襲い掛かってくる危険から自分を防衛しようとするだけかもしれません。

また、心理的な面で相手にこれを分からせたい、訴えたいという気持ちの表現かもしれません。

分かってもらえない自分、受け止めてもらえない自分があまりにも惨めだし、可愛そうなのでそういう自分にならないように防衛しようとするのです。

だから端的に言って、強く防衛しようとすればするほど、怒りが強くなってしまいます。逆に無防備の方向へ気持ちが行けば行くほど、怒りは薄くなっていきます。

そこから類推して、幼い頃に安心できるような環境ではなかった場合、つまり不安や恐れが多かったような場合には強く防衛しようとして怒りが沢山溜まることになってしまいます。

そして幼い頃から溜め込んだ怒りの感情は、その後の人生の中で都度本人の心に怒りを誘発せざるを得ないような現実を起こすことになります。

つまり怒りを抱え込んだ心ほど、負のフィードバックがかかり更にその上に怒りを溜めていくような結果となってしまうということです。

この悪循環を断ち切ることをどこかでしないと、怒りに満ち溢れた人生を送り続けることになってしまうわけです。

本人の自覚としては、自分は何も悪い事をしていないしまじめに生活しているのに、どういうわけか腹立たしいことばかりが身の上にやってくるという感覚かもしれません。

誰の心の中にもある怒りという感情をどう取り扱えばいいのか、その理想的な方法を学校や親などからきっちり教わった経験のある人はまずいないはずです。

子供にとって、学校の先生にしても親にしても、回りの大人の誰もが大抵はそのことについて無知であったからです。

つづく

与えるレベル その2

省エネ対策として、ガソリン自動車から電気や水素なとで走る自動車に期待がかかる時代になってきましたね。

そういったクルマはかなり昔から研究されてきましたが、完全を求めるのではなく、現実を見越した折中案とでもいうような自動車、ハイブリッドカーが脚光を浴びてますね。

少し前に我が家でもトヨタのハイブリッドカーに乗っている時がありました。それは、電気で駆動するモーターとガソリンエンジンの両方のいいところを合体させたようなクルマです。

もしも、自分が省エネのクルマの開発をするなら完全な電気自動車や水素自動車などにかかわりたいと思うだろうと想像できます。

これが完全でありたいと求める気持ちです。中途半端が嫌いということかもしれませんが、その真っ白でも真っ黒でもないグレーゾーンこそが現実的な解決策になりえるのです。

与えるということもそれと同じです。自分がすぐに完全な愛の存在になれるわけではないと思うのでしたら、完全さを求めずに自分が自己犠牲なしに与えられる範囲を見出すことです。

このくらいだったら自分のプライベートの時間を割いてもいいとか、このくらいの金銭的なものなら支障はないなどといったことですね。

そして充分に与えることができない自分を責めないということも大切かもしれません。そして、もしも心の余裕がある時には、そのレベルをほんの少しでも超えて与えてみることです。

そうすると、きっと思いがけないようなプレゼントを受け取ることになるかもしれません。勿論それを期待すると与えることができなくなってしまいます。

あくまでも結果を期待しないで与えることに徹するのは言うまでもありません。できる範囲で与え続けることで、知らぬ間に多くのプレゼントを受け取っていることに気づくことになるはずです。

与えるレベル

このブログでは、すでに幾度となく与えることの重要さについてお話ししてきました。心の平安を得て、満ち足りた心になるためには、与えることが大切だということでしたね。

そうはいっても、我々は与えるということに慣れ親しんでいるわけではありません。与えると減るという概念が強いからです。

我々は知らぬ間に、与えるという事と犠牲を強いるということがあたかも一対であるかのような感覚を持ってしまっているかもしれません。

いくら頭で違うと分かったとしても、その癖はなかなかしぶとく付きまとってくるのです。したがって、与えるといっても一体自分はどこまで与える事が出来るのだろうかと具体的に考えてみることはいいことかもしれません。

毎日の自分の生活に支障が出てしまうような与え方をしたいとは誰しも思わないはずですね。 本質的には、与え続けることで初めて本当の愛に目覚めることができるのですが、それは理想的な話です。

より現実的に考えたときには、おのずと自分ができる範囲というものがある程度見えてくるはずです。

極端な例を言えば、あるボランティア活動をするために大切な仕事を退職するということはないでしょう。そして勿論そんなことをする必要はありませんね。

与えることのできるレベルというものがその人の現在の状況によってある程度決まってくるのですが、それはその人が自己犠牲を感じないで済む範囲ということになります。

自己犠牲を強いてしまうと、今度は与えるという愛の行動ではなくなってしまうからです。決して無理をしないことだと思います。

何でも100%でないと気がすまないという人の場合には、与えようとして無理をすることで結局与えられずに終わってしまうということになってしまいます。

理想を追わずに、与えることが続けられるように自分に猶予を与えてあげられるといいと思います。

囲い込み

世の中には第三者の人のことを悪く言ったり酷評して批判する人というのは大勢います。それこそ著名な評論家の方から無名の自称評論家まで様々です。

否定的な事柄というのは最低でも本人に言う場合はまだしも、本人のうかがい知れないような場所などで公表するのはどうなのでしょうか。

そこに愛があればまだいいのですが、恐怖や憎悪ばかりですとどこにもいい結果を生み出す要因を見つけることができなくなってしまいます。

一般的に人はそういう人たちが公表する第三者に対するネガティブな情報を信じやすいものです。有名人のゴシップ記事などが興味を持って見聞きされるのを我々はよく知っていますね。

インターネットが普及するようになって、そうした第三者を糾弾するような情報というのが簡単に一人歩きするようになってしまったとも言えます。

私はそうした人たちに公表された情報がどんなに信憑性のあるものに感じたとしても、酷評された人よりは酷評した側の人の心の闇を感じてしまいます。

そこには大抵怒りや憎悪などの否定的な感情が渦巻いているからです。実は私が囲い込みと読んでいる心の状態がそこにはあります。

つまり、相手への憎悪を持っている自分を正当化するために、味方を作ろうとするのです。相手と自分の一対一の関係では不安なために、そこに別の人たちを巻き込もうとするのです。

そしてできるだけ多くの人たちを自分と同じ気持ちにさせることにより、つまり多くの人たちを自分の憎悪に巻き込むことで安心しようとするのです。

そのとき、一番の被害者は酷評された人よりも巻き込まれてしまった人たちなのです。その人たちはたった一人の憎悪によって、同じような憎悪や裁く心を持たされてしまうからです。

内容がどんなに真実味があろうと、どんなに否定的なものであれ、当事者がそこにいない状態で公表されたものはそれを聞き流すことです。

その内容に同調したり、翻弄されてしまうと自分自身もその内容を公表した人と同じレベルの病みを持ってしまうことになるからです。

理不尽なこと その2

約一年前にとてもひどい理不尽さの中に自分から入り込んだというお話しをしました。その時は、その理不尽なことに対して防衛しようとしてしまう自分ばかりを感じていました。

そして、出来る限りその理不尽さを愛で溶かすことができるようになれたらいいのにということも書いたはずです。

今その理不尽さと一年付き合ってきて思うことは、自分でもうんざりするほど一進一退を繰り返しているなあということです。

正直な気持ちとしては、密かに期待していたようには自分の心が変化してないのではないかと感じています。

残念といえばそうですが、でもそれだけ自分にとってとても難しいチャレンジングなことなのだろうと思って、また気持ちを新たにしています。

この一年の間自分が心がけてきた事は、相手の理不尽さを裁かないでその向こう側にある相手の本当の愛の部分だけを見ようとすることです。

うまく行くときもありますが、自分が相手から裁かれていると感じると、自分の心に少しずつ余裕がなくなっていき、結果としてその理不尽さをどうしても感じてしまうのです。

逆に防衛する必要があまりないと感じる場合には、その理不尽さを通り越して相手を見ることもできなくはありません。

それだけ自分を守りたくて仕方ないんだなということが分かります。理不尽さを感じてしまう気持ちというのは、そもそも自分の中にある信念などを基にして裁こうとする意識なわけです。

従って、理不尽さを愛で溶かすためには、自分の信念や信条というものを手放しておく必要があるということになります。

この心の訓練は一年くらいではとてもマスターできるものではないということがよく分かりました。また来年の今頃にこのことを思い出してどんな思いでこれを読むのか、楽しみです。

催眠下での抵抗

人の心には表面意識と潜在意識の間を仕切っている膜のようなものがあると言われています。それをクリティカルファクターと呼ぶことがあるそうです。

それによって、心の奥に抑圧したものを普段自覚しないで済むようになっているわけです。これは都合の悪い自分の本音や感情を感じないでいられるようにするためには有効なのです。

しかし、本当の自分と向き合おうとするときには、そのクリティカルファクターの存在が逆に邪魔をしてしまうわけです。

通常催眠状態になると、そのクリティカルファクターが緩んだ状態となるため、潜在意識の中に隠されていたものが緩んだ隙間から漏れ出てくるようになります。

そのため、手付かずだった潜在意識の中の本当の自分と対面しようとする時に、催眠状態になることが有効になる場合があるのですね。

そうした期待を込めて催眠療法を行なうのですが、逆に何も思い出すこともできなくなってしまうことが時々あるのです。

カウンセリングの時には、過去の出来事をいくつか思い出していただいて、そのエピソードについてご一緒に見ていくことをするのです。

ごく普通の意識状態では思い出すことができていたのに、催眠状態になった途端に頭の中が真っ暗になってしまって、何も思い出すことができなくなってしまうのです。

これは都合の悪いことを思い出したくないという防衛によって、心のシャッターを閉めてしまうということが無自覚のうちに起きたわけです。

隠しておきたいと思っている意識にとって、催眠状態そのものが危険だと感じ取ってしまうことによって起きるものだと思っています。

こうした場合でも、何度か繰り返し催眠状態を経験していくうちに、次第に抵抗が小さくなっていき、結果として心のひだに隠された大切な本音や感情に気づくことができるようになるのです。

分析心理学

今から10年ほど前、会社を退職する少し前に、ある日本人女性のセラピストの方が書いた本を読んで、ユングの分析心理学なるものがあることを知りました。

それは夢を分析していくことによって、心を癒していくというカウンセリングのようなものです。興味を持って読んだ後に、自分も受けてみたいと思ったのです。

その著者の方が実際にやられている場所がたまたま比較的自宅から近くだったこともあって、通いだしたのです。

元々人の心というものには興味があったということもあるかもしれませんが、今思えばちょうどそういう人生の分岐点的な時期にきていたのかもしれません。

毎回、自分が見た夢の内容を覚えておいて、それを持っていってそのセラピストの方にお話しすることから始まります。

詳しいことは忘れてしまいましたが、単に一つの夢の内容から意味を導き出すというよりは、毎回ごとの夢の内容を連続したものとして解釈していくのです。

ですから、よくある夢判断的なものとは若干趣きが違います。勿論夢以外のことも、必要に応じて自分のプライベートをお話したりもします。

不思議だったのは、あまり話したくないと思って黙っていることなども、回を重ねていくごとに少しずつ暴かれていく感じがしたことです。

そんな中で一つとても印象に残っている夢がありました。それは、自分が生まれ育った昔の家を少し離れたところから眺めているというものでした。

ただ、その家がクレーンに吊り下げられた大きな鉄の丸い塊を振り子のようにしてぶつけられて、破壊されていくというものでした。

私はそれを特別何の感情を感じることもなく、ただ見ているのです。それは、自分の中で大きなパラダイムシフトが起ころうとしていることを意味するということでした。

そしてその分析どおり、私はその後まもなく20年以上にわたる会社員生活にピリオドを打つことになったのです。

かなり勉強しないと夢の解釈は難しいらしいですが、それでも見た夢の内容を日記のように記録することを続けていくと、自然と自分の心の深い部分を知ることができるらしいですね。 ご興味があれば、試してみて下さい。

比較すること

私達は人と人やモノとモノなどを比較してしまう習性を持っています。比較する事によって、それらが別々の個体であるということを証明するわけです。

そして別々の個体というのは本質的に互いに違いがあるということによって明確化されるのです。この世界のすべてが比較することを基本として成り立っているとも言えますね。

確かに地球上のすべての人は互いに違う顔形、姿をしていますし、誰一人として同じ指紋を持っていることはないと言われています。

比較することをしなければ、人を見分けるということもできなくなってしまいます。ですから、比較することの意義は個別性を見出すということであるとも言えます。

ところが、我々は比較する目的としてただそれだけではなく、比較した結果に何らかの意味を見出そうとしてしまうのです。

そこにあらゆる苦悩の元が隠されています。比較した結果、優劣をつけてしまったり、真偽や善悪などを付加してしまうのです。

それが価値の有無あるいは大小を判断することに繋がっていくわけです。私は小学生の頃、学校の給食を食べるのがクラスで一番遅かったのです。

その時の自覚としては、何しろまずくて食欲が湧かないのですが仕方なく食べているという感じでした。そのため唾液が出ずらくて噛んで飲み込むまでに時間がかかってしまったのだと思っています。

ですが、食べるのが友達と比べて一番遅いということに優劣で言えば劣という判断を自分なりに下してしまったのでしょうね。

ゆっくり時間をかけて噛むことは決して悪い事ではないのですが、遅いのは男の子としては何となくみっともないという感じがあったのかもしれません。

意識的に早く食事を済ませるように自分なりに癖をつけていくことで、次第にみんなと同じペースで食事をするようになっていきました。

そして、10代の中ごろになるまでには、普通以上に早く食べるようになってしまっていましたが、そのために慢性的に胃弱になったのかもと思っています。

あの時に食べるスピードの違いには何の意味もないのだということを理解できるような日本の文化であったらよかったのにと思ったりします。

あがり症

人前で何かをしないといけないような時とか、恥ずかしい思いをしたりすると頬が赤くなったりすることがありますね。

それを他人から指摘されたり、自分でも気づいたりすると益々恥ずかしくなってもっと顔を赤らめてしまうことになります。

おとなしい内気な女の子などによくあることですね。私はまだ小学生の頃にそういった顔を赤くする極端な経験をしたことがあります。

床屋さんに行った時に、いつもだったら大して意識することもないはずだったのに、その日はなんだかきれいな大人のお姉さんに散髪してもらっていたのです。

思春期直前くらいの時期だったからなのか、髪を切ってくれているそのおねえさんが自分のすぐそばにいて、じっと自分の頭を凝視している姿を正面の鏡越しに見ていた時でした。

なんだか急に恥ずかしいような感じがしてきたと思ったら、鏡に映る自分の顔がやや赤くなってきたのです。そのことをおねえさんに知られたくないと思ったら、更に赤くなってしまったのです。

そしてまた更にそれを確認してという具合に悪循環となって、これ以上赤くなれないというくらいに真っ赤になってしまいました。

きっとおねえさんもどうしたのだろうとびっくりしたはずです。でも、行き着くところまで行ってしまったと思ったら、徐々に回復していきました。

その体験は本当にびっくりするもので、しばらくは自分がどうなってしまったのだろうと呆然としていたのを覚えています。

そしてそのことはしばらく忘れていたのですが、次に床屋さんに行った時に思い出してしまいました。またなってしまったら困ると思いつつ鏡の前にすわったところ、前回と全く同じような状態になってしまいました。

今思うと軽いパニック障害のような感じだったかもしれません。一度顔が真っ赤にまでなってしまって、もう取り繕いようがないなと思うと不思議に治ってしまうのです。

それ以来またそうなったらどうしようという、予期不安を感じたのも覚えています。その時に自分であみ出した解決法が、事前の深い呼吸法でした。

前もって鼻から深く息をゆっくり吐き出すのを何度か繰り返しておくと、心がリラックスして大丈夫になることを体得したのです。

それ以降はそういった症状を起こすことはなくなってしまいました。こうしたことを起こすからくりというのは、大人のパニック障害と似たものではないかと思います。

症状が軽いものですと、そうしたリラックス法程度で解決することができますが、それで解決しない場合には心の癒しが必要だと思います。

相手に自分は許してもらえるという気持ちになることが、症状から脱出するのにとても有効なのです。そういった無防備に近い感覚は、癒しを進めていくことで実感できるものなのです。

沈丁花の香り

吉祥寺にあるセッションルームの裏手に大きくて立派な邸宅が沢山建っている区域があります。見るからに古くからあるお屋敷ふうの邸宅には、それぞれ沢山の植物が植えられています。

そのうちの一軒の道路に面したところに何本もの沈丁花が植えられているお宅があります。ちょうどお庭と道路を分ける塀に沿って植えられていて、その道を歩くととてもいい香りが伝わってくるのです。

私は沈丁花の香りがとても好きで、毎年今頃の時期になるとそのお宅の前を何度もわざわざ通って、その香りを楽しむことにしていました。

今年もそろそろだと思って行ってみたら、残念なことにそのお宅のあった土地全体がまっさらな空き地になっていたのです。

勿論、その沈丁花も一本残らず撤去されてしまっていました。しばらくじっとして、残念な気持ちを受け止めるのに時間がかかりました。

その場所はセッションルームからも近いし、あまり人通りもないためゆっくり安心して立ち止まって香りを楽しむ事が出来る、自分にとっては最適な場所だったのです。

沈丁花の香りを嗅ぐと、なんと言うか昔の何かを思い出すというのか、そういったノスタルジックな感覚になることができます。

具体的に何かを思い出すというのではないのですが、一種独特な不思議な気分にさせてくれるものがあるのです。

普段そういった気持ちを味わうことはとても少ないので、この沈丁花が咲く時期はいつも楽しみにしているのです。

一番の穴場がなくなってしまいましたが、少し足を伸ばせば5分くらいのところに井の頭公園があり、吉祥寺通り沿いには沢山咲いているスポットがあります。

過去はないとコースで何度も教えられてはいるものの、あのなつかしい感覚は理屈抜きに好きですし、忘れたくはないと思っています。