自責のメリット

一ヶ月ほど前にこのブログで、自分を責め続けるメリットについて書きました。その時には、自分を責め続けていると、誰かを憎んだり恨んだりしている見たくない自分の本心に気づかずにいることができるというお話しをしました。

しかし、自分を責めてしまうことによるメリットというものは、実はそればかりではありません。そこには、それこそ沢山のメリットを見出すことができるのです。

例えば、誰かに責められる前にまず始めに自分で自分のことを責めておく事によって、人に責められたとしてもダメージを最小限度にとどめることができるというのがあります。

予め最悪の状態を予期しておいて、ショックをできるだけ小さくしようとする作戦なわけです。これは幼い頃に親に怒られる前に自分で自分にダメ出しをする子供の心と同じです。

また、元気な自分でいるよりも自分はダメなんだと責めている状態の自分でいる方が、周囲にやさしくしてもらえると思っている場合もあります。

これは通常の肉体的な病気になって、いつも怖くて冷たい親に優しくしてもらおうとする幼い子供のやり方と同じです。

こういったメリットというのは、単独で使われる場合もありますし、複数のメリットを同時に享受しようとして自責する場合もあります。

そして、実はそうした自責する心の部分というのを、影で糸を引いている黒幕のような意識があるのです。

それは様々な心の断片に自分を責めさせておいて、ある本質的なメリットを得ようとする意識なのです。

その目的は、自責する心が幸せになることはないと分かっているので、自分を不幸な状態に置き続けることで自らの存続を図ろうとするのです。

それがエゴなのです。エゴは自分で自分を徹底的に責めさせておいて、そこから自分を防衛しなければならないとして、エゴ自身を殺さないように仕向けるのです。

自責の念はどんな理由があるにせよ、その理由はエゴが勝手に後付けで作ったものなので、それを信じないことです。

もしも、自責の念があると自覚があるのでしたら、その意識に乗っ取られないようにして、中立な自分の意識で自分を裁かないで見るトレーニングをすることが大切です。

継続すること その2

継続といえば、「奇跡のコース」という本にワークブックという部分があって、それは365課分の課題が納められているものです。

一日に1課づつを毎日続けて実践することによってちょうど一年で終えるように用意されたすばらしいワークブックなのです。

私の場合は、一昨年の9月1日より開始して、昨年の8月31日で終えたのですが、その間の一年はとても充実していたと思っています。

ここで内容を詳細にお伝えすることはほとんど不可能に近いのでそれはあきらめますが、自分にとっては1課1課が何と言うか宝石のような言葉ばかりだったのです。

内容を熟読して、その日の課題となる言葉を覚えて、それを決められた回数と時間だけ繰り返して心の中で実践するのです。

朝起きてすぐにその課題を読み始めることからその日一日が始まるのです。それが少しも面倒でも辛くもありませんでした。

瞑想しながらワークの言葉を唱えたりすることが自分にとってはとても楽しい体験なのです。こうしたものは、好みの問題が大きいのでしょうね。

ちなみに、記念すべき第1課の言葉は、「自分が見ているものには何一つ、なんの意味もない。」というものでした。

自分の外側に繰り広げられている世界やそこで起きている事柄というのは、自分自身がそれに意味付けをしているということに気づくということを目的としているのです。

そうやって、毎日様々なワークを与えられて、嬉しくて、感謝しながら気がついたら一年が経っていたという感じでした。

ここでも継続することが大変だとは一度も思ってもみなかったのです。自分が楽しい気持ちであれば、続けることはたやすいし当たり前のことなんですね。

継続すること

自分の人生を顧みたときに、何一つとしてモノになっていることがないというのが正直な気持ちです。その理由は続けることが苦手というのがあるからだと思っています。

楽器を習っても、趣味を見つけて楽しむことができたとしても、これを自分の仕事にしようと決意しても、それが続いたためしがありません。

それどころか、健康のことを考えて朝起きたらコップ一杯の水を飲む、寝る前に柔軟体操をするなど、とても簡単なことであったとしても決して続いたことがありません。

いろいろこうしてみよう、これをやってみようと思いつくことはあるのですが、それを長く続けるということができないのです。

継続は力なりという言葉を知ってはいますが、自分には縁遠い言葉だなとずっと思っていました。続けられる人は一芸に秀でた人だし、何かを成し遂げられる人なのだろうと思ってきました。

ところが、最近その気持ちが少し和らいできたように感じています。このブログを書き出して今日でちょうど一年になります。

書き始めたときにはまさかこれが毎日のように淡々と一年もの間更新し続けられるとは全く思ってなかったのです。

でも実際続けることができてしまった今、続けることはそんなに大したことではないのではないかと感じています。

自分の何かが変わったとも思っていませんし、当然何かを成し遂げたという感覚などありません。ああ、そんなものなんだなと分かりました。

継続は確かに力なのかもしれませんが、でもそれだけのこと。それよりも、人は何かを成し遂げる必要などないということが分かったかもしれません。

それが身をもって分かっただけでも続ける意味はあったのかもしれません。

対等な関係

人と人との関係性あるいは係わり合いにおいて、基本となるものはすべての人は互いに対等であるということだと思います。

家族や職場の中でそれぞれの立場や役割というものが決まっている場合であっても、本質的には人と人とは全く平等であるわけです。

それが人間の尊厳というものかもしれません。その人がどんな生まれや育ちであったとしても、財産や学歴が違ったとしても人一人の価値というものに違いはないからです。

ところが、この当たり前の対等な関係というのを理解できていない場合が多くあるのです。それはやはり幼い頃の親との関係性に根ざしています。

親の心が見捨てられる恐怖を強く抱えていると、自分の子供に対して一人の人間としての見方をすることが難しくなってしまうのです。

そうした親は、子供を自分の一部のように感じてしまったり、場合によっては可愛いペットやお人形であるかのような扱いをしてしまったりするのです。

そのように育てられてしまうと、その子供は自分の人間としての価値や尊厳というものに気づくことができないままに成長せざるを得なくなってしまいます。

そうすると、成長して学校や職場などでの人間関係において、対等な関係性を築くことができなくなってしまう可能性が高くなります。

その傾向は人との結びつきが深くなればなるほど強くなっていきます。そして、自分自身に対して何らかの役割を与えて周囲の人との関係を築くのです。

その場合には勿論相手に対しても何らかの役割というものを無意識的に与えてしまうので、その役割を相手が充分に演じられないと不満が噴出することになります。

人と深くかかわるということはそういったことでしか成しえないと思ってしまっているということです。誰とでも対等でいるということは、何の役割も互いに与えられてない素の状態のままでいるということです。

自分の人間関係は対等な感覚があるかどうか、不思議な上下関係に支配されていないか、チェックしてみることは大切なことです。

そして対等さに欠けると思われることがあるのでしたら、幼い頃の親との関係を洗いなおしてその時の自分の生き方を見つめなおすことが必要です。

過去世の記憶

長い間催眠療法をやっていると、沢山のクライアントさんが様々な内容の過去の記憶を見せてくれます。一般的には今回生まれてからの、特に幼い頃の記憶を再現してもらいます。

しかし、時々知らず知らずのうちに過去世と言われる別の人生の記憶が蘇ってくることもあります。場合によっては、過去世を思い出すことを目的としてセッションを受けてくださるケースもあります。

どちらにしても、過去世とか前世と言われるその人の別の人生の記憶というのは、常識的に考えると何とも不思議なものですね。

いわゆる輪廻という生まれ変わりの有無について、それを否定することもその実在を証明することもできません。

私の個人的な気持ちとしては、この現実が幻想であるというコースの教えのことを思い巡らしたときに、輪廻についても同様のレベルで捉えることにしています。

つまり、私達が通常把握できる事実とか真実というレベルというものは、それを追求していくことには意味がないという考え方です。

言葉を変えて言えば、真偽のほどはどちらでも構わないということになります。これはどちらかに答えを出すことから逃げているということではありません。

所詮幻想の中でのことですので、その中での真偽についての議論そのものに意味がないという考え方です。

個人的には過去世の記憶を使って、本人の心が癒されるのであればそれはすばらしいことだと思うのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

経験上、本人が思い出す過去世の記憶には、その時の本人にとって何らかの気づきを得るための大切なヒントを与えてくれるものではないかと思っています。

それに過去世には何かファンタジーのようなものを感じることもできますね。そして、思い出したことを否定せずにそのままを受け入れるほうが心が豊かにもなるのではないかと思っています。

幼い頃のルール その2

赤ちゃんは産まれたその時には何のルールも持っていません。ただお腹がすいたら泣くし、眠くなったら寝るというだけです。

ところが、2、3歳くらいになるまでに親との関係において、様々なことを学習していきます。そして、こうしたルールを守って生きていれば安全を保てるというルールを作っていきます。

もしもそのルールを守ることができなければ、危険度が増してしまうので怖い思いや不安になってしまうため何とかそれを守ろうとします。

ただ子供の個性と親との関係性によって、その恐怖を感じる強さというものが変わってきます。そして、ルールを守れなかったときの恐怖が強すぎると、当然のことながらそのルールを死守しようとします。

例えば、もしも自分がこんなことをしたら確実に親からそれは死刑に匹敵するぞと言われると固く信じたとしたら、それを絶対にしてはならないというルールを死守しようとするわけです。

通常は、大人になるにつれてそうした幼い頃に作ったルールを守らなくても、自分は安全でいられるということに気づいていくのです。

しかし、恐怖心が強かったり、純粋な心が大きすぎたりすると疑うということを知らないで成長してしまうために、いつまでたってもそのルールに縛られて生きていくことになってしまいます。

そうなってしまうと、大人の自分は自分の言動に不可解なものを意識するようになるはずです。なぜなら、大人の理性ではこうするはずと思っているのに、自分はそれとは全く違う言動をし続けてしまうからです。

その不可解な自分の言動こそ、幼い頃に作った安全を得るためのルールを死守しようとする自分の言動なわけです。

そしてそうした人生が長くなればなるほど、そのルールを破ることが怖くもなってきます。また驚くべきことに、そのルールは今や意味をなさないと気づいてしまうことこそが、本人にとっての最大の恐怖となってしまうのです。

なぜなら、命がけでそのルールを守ってきたその努力がすべて意味をなさなくなってしまうことになるからです。数十年の涙ぐましい努力が全部無駄だったと言われて、はいそうですかと簡単には受け止められないのです。

自分の中にまだまだある様々なルールをよく見つめてみて、いまだにそれに固く縛られているとしたら、こうしたことを疑ってみる必要があると思います。

幼い頃のルール

誰の場合もそうですが、幼いころは一生懸命、精一杯生きています。大人になって怠けているということではないのですが、子供の頃は大人が考えるほど余裕がありません。

沢山のクライアントさんの幼い頃の出来事をご一緒に再体験させてもらっていると、本当にそうしたことを実感することができるのです。

一生懸命というのは、概ね3歳前後くらいから始まって、少しずつ成長するに従って余裕ができてきますが、場合によってはそのまま余裕のない状態で成長する事も充分あります。

例えば、家族の人間関係の微妙な状態をいち早く察して、丸く収まるように取り計ろうとしてみたりするのです。

そうやって自分の気持ちよりも家族の気持ちを優先するクセがついてしまいます。きっと、正直な自分の気持ちを伝えたところでいいことはないだろうと思ってしまうのです。

そうすると、知らぬうちに自己犠牲を強いることが日常的になっていきます。例えば買って欲しいものがあるのに、それを言い出すことができなくなったりするわけです。

当時の幼い本人としては、誰に教わったわけでもないのに、自分はこうするべきというようなルールが早くも出来上がっていて、それに従って毎日必死に生きるようになるのです。

本当は、買って欲しいということを何度も伝えることをすれば、親はもしかしたら買ってくれたのかもしれないのですが、そうしたルール違反をしなくなってしまうのです。

そして、大人になって自分は欲しいものを買ってもらうことができなかったという記憶だけが残ってしまったりするのです。

子供の頃に必死で生きていたときに従っていたそのルールや思い込みをもう一度じっくりと見直してみることはとても大切なことです。

そうして、別の角度から過去を振り返って見てみると、当時は気がつくはずもなかった全く違う生き方があるということが分かってきます。

その新しい生き方を利用して、イメージの中で過去を書き換えることで大人の自分が呪縛のように抱えていた様々なわだかまりなどを手放していくことができるのです。

あるがままを受け入れる その2

あるがままを受け入れると言っても、何でも丸ごと信じるということでもないし、相手の言いなりになるということでもありません。

自分が見たり聞いたりしたこと、つまり知覚したことをそのまま受け取るということです。解釈や判断をすると、そこに必ず拒絶が入り込んできてしまいます。

なぜなら、私達が何かを判断するときには自分の心の中に巣食っている恐怖を基にしてしまう傾向があるからです。

よく誰かの意見に対して賛成か反対かを問われることがありますね。そうした場合、あるがままを受け入れるとすると、正直自分の中では賛成でも反対でもないなということがあります。

どちらでもないなんて、自分というものを持っていないし優柔不断だよと思われてしまうかもしれませんが、判断しないでいるとそんな感じになるのです。

否定をしないという気持ちになりますので、反対ではないのでどちらかというと賛成の方に回るということになるのでしょう。

しかし、この状態はノーを言うことができないイエスマンとも違います。なぜなら、はっきり断ることができない人の場合はその裏には恐れがあるのです。

また、あるがままを受け入れるとは比較するということからも遠のきます。何かと比較してしまうと、必ずそこにはなんらかの評価結果が出てしまうからです。

もともと、比較する目的は解釈や判断するための材料を入手するためなのです。ですから、比較しておいてそのままを受け入れるということは不可能な事ですね。

どんなことでも、そのままを受け入れるということは現実的ではないと考えがちですが、きっとこうしたことも日々練習を積むことで慣れていくはずです。

そうした心の筋トレを是非続けていきたいと思います。きっと、周りで起きることに心がざわついたり、いやな反応を起こすことが激減するはずです。

あるがままを受け入れる

セラピストの仕事をするようになって、メインは催眠療法になるのかなと思いきや、意外にもヒーリングのセッションを数多くすることになったのです。

今でこそクライアントさんの数が減ってしまいましたが、以前は忙しいときは一日に4人のクライアントさんに連続でヒーリングをするということも結構あったのです。

もしかしたら二千回くらいは今までにヒーリングのセッションをしてきたかもしれません。それだけ繰り返してくると、何度も不思議な体験をしてきました。

最もオーソドックスなものは、クライアントさんが今までに体験した記憶が映像としてそのまま私の心に浮かんでくるというものです。

なぜだか分かりませんが、急に目の前にかなりリアルな映像が見えることがあります。それは特に取るに足りないような画像だったり、あるいはちょっとびっくりするような映像だったりと様々です。

残念ながらなぜそれが突然見えてくるのかということまでは分からないのですが、ごくたまに何となく気になる場合にはクライアントさんに聞いてみることもあります。

大抵は思い当たることがあると言っていただけるのですが、それがそのまま癒しにつながるようなことはほとんどありませんでした。

そうした映像は目をつぶっている時に心の目に映るような感覚なのですが、一度肉眼ではっきりと不思議なものを見たことがありました。

うつぶせになっているクライアントさんの背中の真ん中に、ギョロリとした人の目が見えたことがありました。それが何だったかはその後のクライアントさんとのセッションで判明しました。

自分の感覚ではこうした経験が特別なものであるようには思っていません。一般的に、私達は日常的にいろいろな経験をしているにもかかわらず、そのうちで自分が合理的に説明できるものだけを認識しているのです。

つまり、説明しづらい経験を無意識的になかったことにしてしまうような癖があるということです。今の仕事をするようになって、体感することは丸ごと全部受け入れようと明示的に思うようにしたのです。

その後からこうした不思議なことを自覚するようになったのです。自分がどんな経験をしてもそれを頭で解釈せずに全部受け入れると決意することで、今まで以上にいろいろな経験ができるはずです。

そしてそれこそが、すべてをあるがままに受け入れるということに繋がるのではないかと思っています。

躾(しつ)け

今年25歳になる息子と久しぶりに一緒に夕ご飯を食べている時に、話しの流れで彼はとってもびっくりするようなことを言いました。

それは、「自分の辞書には頑張るとか努力するとかというのがない。」というものです。なぜそれを聞いてびっくりしたかというと、自分と全く同じだったからです。

しかし、どう考えてもそんなことを息子に言ったこともないし、何かそういう信条を持つようにと躾けた覚えも全くないのです。

どちらかというと、自分は躾けということをあまり考えたこともありませんでした。ただ、何となくデレデレとした感じで子供と接していたと思います。

それなのに、なんで自分と同じ考えが成長した息子の口から出るんだろうという事が、本当に不思議に思えたのです。

親子と言えども別々の人間であるし、そんなに似るものだろうかと苦笑してしまいました。そういったことまで、実際人というのは遺伝するのでしょうか。

親がとりたてて子供に大切なことを教えようとしなくても、子供は親の心を敏感に感じ取ってしまうのかもしれません。

そしてそれは、伝えたいことであろうとなかろうと。親自身としては、これはまねされたくないなと思っていたとしても。

親の生き様というのは、身近にいる子供には手に取るように分かってしまうものなのでしょうね。いまさらながら、隠せないものなんだなと思い知りました。

子供にとってすべてに優先されるべきこととは、きっと親の心が穏やかないい状態でいるということなのかもしれません。