結果に意味はない その2

結果に意味はないなどと言われてしまったら、頑張って成果を出そう、結果を残そうと思っている人にとっては困ってしまうかもしれません。

なぜならこの世界は、すべての人同士が深くかかわることなど到底あり得ないですから、目に見える結果によってのみ自分のことを評価してもらえると思っているからです。

全く知らない人や少ししか自分のことを知らない大勢の人たちに、自分を高く評価してもらうためには成果を上げる以外に手立てがないのは確かです。

だから結果に意味は充分にあるし、やり遂げた成果こそが自分を正当に評価してもらう唯一の尺度になると考えるわけです。

プロのスポーツ選手であれば、残した結果が次の年棒に大きく影響してくるわけです。金メダルを獲得するのと、敗退してしまうのとではその後の人生での周りの評価は大きく違ってきます。

しかし、やはりここでも大切なことは自分がより幸せになれるかどうかということに尽きます。食べていけないくらいに収入が低ければ、少しでも多く報酬をもらえるようにと頑張るでしょう。

でも、もう充分に稼いでいると思われるような選手でも、頑張って結果を出そうとするのはどうしてでしょうか?

結果にこだわるのは実はお金の問題だけではないからです。人からの評価をできるだけ高くしたいという気持ちが強いからです。

その心の奥にはやはり見捨てられたくないという恐れの気持ちが隠されていると思います。評価を上げて、自分の価値を高めることで安心しようとするのです。

しかし、優秀な成績を残した選手や人物がみんなそうだと言うつもりはありません。ただ大好きな競技や研究を続けた結果、評価されるような成果が出たという人もいるでしょう。

そういう人は高い評価をいただけばそれなりに嬉しいはずですが、それはただそれだけのことだということを知っているはずです。

大切なことは心が継続的に満たされているかどうかという一点なのです。人からの評価は一過性のものに過ぎません。結果よりも過程であり、心の在りようがすべてということです。

結果に意味はない

冬季オリンピックの開催中ですね。テレビのニュースなどで時折結果を見る程度なのですが、オリンピックは参加することにこそ意味があると言われた時代もありました。

しかし、報道のされ方などを見ていると結果がすべてだと明らかに言っているように思えます。金メダルを獲った選手と30位の選手では確かに扱いが違うのは仕方のないことですね。

その選手との人間的な係わりが少なければ少ないほど、結果がすべてという方向に行ってしまいます。なぜなら、結果以外に評価するような情報が少ないからです。

それがもしも、選手が身内であれば結果よりも本人の努力や練習の過程などを評価できますし、場合によっては怪我をせずに競技を終えてくれたらそれで嬉しいと思うかもしれません。

このように、応援の仕方、つまり結果重視かそうでないかというのは、応援する側と選手との係わり具合によって違ってくるということです。

これは何もオリンピックなどの競技に限ったことではありません。この社会における他人の評価というものも全く同じなのです。

例えば、ノーベル賞を受賞した人は当然高い評価をされて当然なのですが、もしかしたら身近で一緒に研究をしている人たちからは敬遠されているかもしれません。

私達は人を愛の目で見るときに、その人が成し遂げた成果や結果に捉われなくなります。幼い子供が何もできなくても愛しいのはそういうことです。

我が子を愛しいと感じるときに、100点を取ることができたからという理由ではないはずですね。かけっこでビリであろうと、愛しいのです。

自分が誰かのことを見るときに、その人のことをほとんど知らなければ成果を基に評価するしかありません。だから結果が大事というように短絡的になってしまうだけです。

そのことを否定的に思う必要はありませんが、そこには愛はないということを覚えておくべきです。そうすれば、パートナーを見つけるときに間違うことはなくなるはずです。

結果には本質的な意味は一つもありません。愛は結果に特別な意味を見出さないという事です。愛の対象は相手の存在であり、相手の中にある愛そのものだけなのです。

被害者のメリット その3

昨日のつづきです。

被害者の立場でいることや、被害者に加担して正当に加害者を攻撃できる立場というのは、どちらも訴え続けることができるというメリットなわけです。

昔、お笑いのダチョウ倶楽部の決まり文句で、「訴えてやる!」というのがありました。こうした言葉をお笑いとして笑って済ませられると問題はありません。

ところが、アメリカの訴訟社会のようにすぐに訴えを起こすようなことがまかり通ってしまう世の中というのは病んでいるとしか言いようがありません。

しかし冷静に考えて、相手に文句を言ったり訴えたりすることがどうしてメリットになるのでしょうか?その答えを見つけるには、人生の幼い頃に目を向ける必要があります。

人は誰でも加害者になれば、相手から否定的な目で見られ、嫌われ、見捨てられてしまうという思いを持っています。

そのために、その真逆な立場を手に入れて安心しようとするのです。被害者でいれば、そのために見捨てられるという心配は通常しなくてもいいわけです。

これは見捨てられる恐怖を持っている心にとっては最大のメリットであるといってもいいかもしれません。

ですから、私達は無意識的に自分の周りの人に罪があると思いたい心を持っているのです。罪深い人は責められて当然ですし、その相手から被害を被った自分は絶対に見捨てられないですむからです。

幼いころのこうした思いが大人になってもずっと続いてしまうと、いつまでも被害者でいたいと思ってしまうのです。

勿論、被害者である限り本当の幸せなど到底手に入れられるはずもありません。自分の心の中を見つめて、人に文句を言いたいと思っている意識があるならそれが被害者のメリットを求めている意識です。

人生をより幸せなものにしたいと望むのであれば、そのメリットを求める気持ちをしっかり受け止めてあげることで、そのパワーから開放されるようになって幸せを妨害していた被害者の人生からも開放されることになります。

被害者のメリット その2

昨日のつづきです。

昔、成田空港建設のときに地元住民が大反対をして政府と戦っている時に、いち早くかけつけてその反対運動を支援した人たちがいました。

○○派というように言われていたその人たちは、ヘルメットをかぶってタオルで顔を隠した格好をして地元住民に混じって闘争していました。

彼らは空港が完成して地元住民の方々が闘争から手を引いた後でも、現地に残って戦っていたように記憶しています。

彼らのこのような支援活動は、住民である被害者に加担することで、自分も一緒になって加害者を攻撃し続けられる立場を獲得した行為だったわけです。

これを書いていて思い出したのですが、私が大学生のときに授業料値上げなどの理由で、試験をボイコットして立てこもり、デモをしたことがありました。

今思い出すとこれも被害者のメリットなのですが、このときも成田と同じようにヘルメットとタオルで覆面した人たちがどこからともなくやってきたことがありました。

勿論ヘルメットも顔隠しも必要ないとして追い出したのですが、そういう人たちは正当に誰かを攻撃する機会を探してるんだなと思ったものです。

最近では、日本の捕鯨船に攻撃をしかけてくるオーストラリアの反捕鯨団体のことが頭に浮かびました。クジラを被害者と捕らえて、加害者である日本の捕鯨船に攻撃して、被害者のメリットを享受しているわけです。

私は幼いときに正義の味方という自覚もあったし、実際にそうした行動もとっていたのですが、あれも被害者のメリットだったのかもしれません。

つづく

被害者のメリット

世の中には被害者意識の強い人というのがいますね。みなさんの周りにもいるのではないでしょうか?ああ、あの人のことだと思い当たる人が必ずいるはずです。

そう言う人は周りからあまり好ましく思われてはいないはずです。なぜなら、大抵は自分がいやな目に遭ったとか、理不尽な思いをしたという話しばかりするからです。

自分が被害に遭ったことばかりを立て続けに訴えるわけですから、聞いていて気持ちのいいもののはずがありません。

しかし、本人は本当にひどい目に遭ったのだから仕方ないだろうと思っているはずです。また、そうした出来事を公言しない人の場合でも、心のなかでは被害者の意識が強いという場合もあります。

いずれの場合にも、被害に遭って自分はとても苦しんでいるという自覚があるわけです。その人の身に起きていることそのものを見ると確かに被害を受けているわけですから同情もできるかもしれません。

ところが心の奥では、本人が気づいていようがいまいが、被害者であることの捨てがたいメリットを享受しているのです。

被害に遭うということは、自動的に相手を加害者の立場にすることができるわけで、そうするといつまでも相手を非難し続けることができるのです。

自分は決して悪くない、逆に相手は罪深いという絶好の立場を手に入れるわけです。この有利な立場こそが被害者のメリットです。

大した被害に遭うことができない場合であっても、無理やり自分を被害者の立ち場にしてしまう人もいます。クレーマーと言われる人はそれに当たります。

ほんのちょっとしたことでもすべて文句を付けるネタにしてしまうわけです。そうやって、とことん相手を責め続けるのです。

つづく

お金への怒り

幼い頃に親が辛い思いをして仕事をしている姿を見たり聞いたりしていると、お金への怒りを持つようになっていきます。

お金を手に入れるために、大切な両親があれだけ苦労している、その姿がかわいそうに思う分だけお金のことが憎たらしくなってくるのです。

お父さんが仕事から帰ってくるといつも不機嫌だったとか、お金を手に入れるためには大変な我慢と努力が必要だということを徐々に親から学ぶのです。

そうやって、お金を稼ぐということは厳しいことなのだという決め付けをしてしまいます。だからこそ、楽にお金を稼いでいる人に対して怒りを感じるようにもなるのです。

お金に対する恨みつらみといった感覚は、大抵の場合自覚することはできません。ただ、お金に対する漠然とした違和感のようなものとして自覚することはできるかもしれません。

そうなると、大抵は次の二つの傾向が強くなるのです。一つは、お金への執着が強くなって人よりも沢山金儲けしたくなったり、お金を稼ぐということにエネルギーを費やすようになるのです。

そして沢山稼いだお金はかたきのようにして浪費にまわされてしまうのです。無駄とも思えるようなものを次から次へと買い求めることになります。

そしてもう一つは、お金への拒絶感によって、常にお金から離れようとする人生になってしまいます。それは、お金が足りなかったり、お金を沢山手に入れることに罪悪感を感じるようになったりするのです。

この二つは端から見ると両極端であって全く相容れない考え方のように見られがちですが、実は同じ一つのお金への怒り、執着から発生するものなのです。

本来お金そのものには何の意味もありません。ただ私達が少なからずお金への執着を持っているということです。

お金は敵ではないし、忌み嫌うべきものでもないはずですね。そのことを充分に分かってあげることで、お金との相性がよくなり、お金はほかのものと同じように必要なだけ入ってくるものなのだと分かるようになるはずです。

リーダーシップ

この日本では民主主義の原理が基本となって社会全体が成り立っていますね。民主主義とは、「個々人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。」ということだそうです。

それぞれの人びとが自由に発言して、最終的には多数決を持って物事を決めていくというものです。それが平等というものを意味しているわけです。

それに対して一党独裁のような、あるいは君主制とも表現されますが、ある特定の人や考え方によって物事が決められてしまう世界もあります。

確かに悪行を重ねる君主の言いなりにならねばならないような社会よりも、みんなで投票によって代表者を決めるほうがいいに決まっています。

しかし、人の心の中はどうでしょうか?私達の心の中には沢山の考え方や思いの違う意識が存在しており、それぞれが互いの存在に気付いていないような状態なのです。

ですから、必ずリーダーシップを発揮するリーダーの役目をする存在が必要です。もしも、そのリーダーが不在であったり、役目を充分に果たさないでいると、その時に一番力のある意識に心がのっとられることになります。

もしも、そののっとった意識が悪行を重ねる君主のようであると、心は全体として悲惨なことになってしまいます。

リーダーは心の中のすべての意志や思いに対して受け止めてあげるという大切な役目があります。リーダーが民意を受け止めるということです。

しかし、ここからが民主主義と心の中との大きな違いがあるのですが、実は心が安定するためには民主主義のような多数決で物事を決める方法ではうまく行きません。

リーダーの役割は心の中の民意を汲み取ることと、もう一つは独断で意思決定をすることなのです。ただし、独断のベースとなるものは愛である必要があります。

つまり、全員の気持ちを汲み取るところまでは民主主義と心は同じですが、最後の結論を出すところは君主的に決定するということです。

そういうリーダーを心の中に育てていくことこそが、いつも心が安らかで愛を選択できる人物になる方法なのです。

謝ること

もう随分前の事ですが、ある有名な芸能人の男性に道で出くわしたことがありました。その人は私よりも20歳くらい年上ですから、今は70代半ばになっているはずです。

その頃からワインが好きでその人が素敵なワインバーのようなお店を出したという話しをどこかで聞いていつか行って見たいなと思っていたのです。

ですが、今のようにネットですぐに検索して調べられるような時代ではありませんでしたから、本屋さんに行くたびに情報が載ってないかなと探したりしていたときでした。

その人と出くわしたときに、そのことを思い出してお店がどこにあるのか聞こうと思い、「あの~、ワインのお店行きたいと思っていろいろ探したんですけど、なかなか見つけられなくて…」のようなことを言ったと思います。

すると、その人は頭をペコリと下げて、「ごめんなさい!」と言ったのです。私は思わず笑ってしまいました。まさか、謝られるとは思ってもいませんでしたので。

元々気さくでやさしそうな感じがにじみ出ている方でしたので、私も気軽に話しかけられたのだと思いますが、その時ある番組でその人が言っていた言葉を思い出したのです。

「私はすぐ謝っちゃうんです。謝っちゃえばいいんですよ。」この言葉は本当だったんだなあと。そして、この「ごめんなさい」をごく普通に見ず知らずの私に言えるのはすごいなと思いました。

これはシンプルな言葉ですし、簡単そうに思えるのですが、いざとなるとなかなか言えないものです。それだけ、「ごめんなさい」という言葉を言うことに何がしかの抵抗があるということですね。

きっと白旗を揚げることをよしとしていないということです。何か勝負に負けるような気持ちになるからでしょうか。そんなくだらない自己防衛を手放して、気軽に「ごめんなさい」を口に出せるようになりたいものです。

もしも、この「ごめんなさい」を久しく言ってないなあという自覚があるのでしたら、今日から率先して言ってみてはいかがでしょうか?きっと気持ちが楽になってすがすがしい感じがしてくると思います。

苦難が大好き

我々はみんな苦しいことは嫌いですし、苦しみから逃れようとこそすれ、苦痛を望むなどということはないと思っていますね。

それなら、なぜゆっくりと柔らかなソファで寝転んでるばかりではなく、厳しい雪山に登山しに行く人がいるのでしょうか?

そこに山があるからだというのは有名な言葉ですが、それでは本当の理由を説明してはいないことは明らかです。

頑張って諦めずに登った末に頂上に立ったときの何とも言えないあの気持ちを味わいたいから苦痛に耐えて登山をするのだと言う人もいます。

確かにそういうことはあるでしょうね。私も頑張って長距離を連続で泳いだり、そのあと100℃のサウナで汗を流すのは、その後のビールがおいしく飲めるからというのがありました。

しかし本当にそれだけでしょうか?登山の過程がどれほど苦しくても頂上に着いたときのやり遂げた感や征服感を味わうことだけが本当の目的でしょうか?

私はそうではないと思っています。目的を達成するまでの過程における頑張りや苦悩、そこにこそ麻薬のような魅力があると思うのです。

それは言って見れば、自分は『何か意味のあることをしている』という充実感であったりするわけです。ただ安楽にのんびりしているだけでは不安があるということです。

過程における苦しみや辛さが半端じゃないものであればあるほど、そこに価値を見出すことができるのです。それが麻薬なのです。

それが社会的にも意味のあるもの、例えばオリンピックで金メダルを獲得するとか、ノーベル賞を受賞するとかの結果を出せば、その麻薬的な魅力は社会的な成果を生むものとして認められるのです。

しかし社会的にも何にしてもその意味を認めてもらえないようなもの、例えばただのやせ我慢だったり、ただ本人の心の中で苦悩しているような場合には、ただひたすら苦しい人生を送っているということになってしまいます。

なんだか人生が辛い、苦しい重荷を背負っているような気がするというのでしたら、苦難に耐え続けることに意味があると思っている心の部分があることを疑ってみて下さい。

その意識の存在に気付いてあげて、もういいよと丸ごと認めてあげることができたら、本当に重かった巨大な荷物を降ろして軽やかな人生に変えることができるのです。

幼い頃の決意

私達は日々、小さな決意や決断を沢山しながら生活していますね。時には大きな決断をすることも勿論あります。

毎年元旦にその年の決意を新たにするということを恒例にしている人もいるかもしれませんし、この人と結婚をするという場合でも大きな決断をしているわけです。

しかし、私達は何も大人になってからそうした決意や決断をするようになったわけではなく、意外にも幼い子供の頃であっても、さまざまな決意をしているものです。

親にこうしなさいと躾けられた事などは、それを守ろうと小さな決意をするかもしれません。男の子は泣くものではないと言われたり、実際に泣いたらもっと怒られたりという経験をしたら、もう絶対になくもんかという決意をしてしまうかもしれません。

そして実は、そうした子供の頃にした決意というのは非常に強力なのです。通常、大人になってからした決意は何かの理由でそれが続かなくなってしまったりすることはよくあることですね。

しかし、子供の時にした決意は余程のことがない限り、あるいは相当なことがあったとしても死守しようとするのです。

それは大人になっても続いている可能性がとても高いです。絶対に泣くなと言われた子供がそれを決意してしまうと、普通の子供が泣いて当たり前のようなことが起きても我慢してしまうのです。

言って見れば、幼い頃の決意は命がけであると思ってもいいくらいです。命がけですから、臨機応変に対応するということができません。

それは硬直した生き方を作ってしまう危険性があります。融通が利かなくなるというか、誰かに助言されたとしても頑なに態度を変えないということにもなるわけです。

自分の心の中をゆっくりと探ってみて、小さい頃に何か決意した守りごとはないかどうか調べてみて下さい。そしてもしも、未だにそれを守っている自分がいると気づいたなら、それを守らねばならない理由を考えることです。

幼いころの理由は考えてみればきっとすぐに見つかるはずです。そこには、必ず恐れや不安といったものが絡み付いているはずです。

大人の自分はもうすでにそうした決意を守らねばならないような理由はないはずです。いくら泣いても親に怒られるような心配もありません。

何か自分の人生は融通が利かなくて生きづらいと感じているとしたら、このことを試してみることをお勧めします。小さな頃に自分にした約束をもういいよと言ってあげられると、心が緩んできて楽になってくるはずです。