動機が不純でも構わない

私たちは何かを思い立ってやり始めるときには、必ずしもそれが後で考えてすばらしい目的のためではなかったと思うことがよくあります。

たとえば、好きな異性にギターを弾けるところを見せたくて、一生懸命に練習するということがあるかもしれません。

かっこいいところを見てもらいたくて、異性にもてたくてスポーツを頑張るとか勉強をするなどはその典型ですね。

もう少し本質的な例をあげると、私たちは誰もが自分の価値が高いと思えれば思うほど嬉しいものですが、その自分の価値、存在意義を求めて頑張るのです。

若いときからボランティアに目が向く人もいるでしょうし、何かと人に親切にしてあげたいと思っている人もいます。

そうしたことが愛から出た発想であるとは限りません。自分の存在意義を高めてそれを確認したくて、そうした貢献をしようとする場合が少なくありません。

つまり動機が愛からではなくて、自分を何とかしたいというエゴから出た思いであったとしても、それをきっかけとしてギターが弾けるようにもなるし、スポーツが大好きになるかもしれません。

やりだした勉強が面白く感じてそれを仕事にするようになるかもしれませんし、ボランティア活動を通して体験したことで愛を学ぶかもしれないのです。

元々の動機や発端が何であれ、その体験を通して何かを学んでいけるということの方がとても大切なことなのです。

自分が何かをこれからしていきたいと思っている場合、あまりその目的を詳細に検討しなくてもいいのです。とにかく始めることです。

もしもそれがあまりにもエゴの色が強いと、結果はすぐに出てくることになります。つまり自己犠牲が強くなってしまい、苦しくて続けることができなくなってしまうのです。

途中から愛の要素が入りだすと、最初は気付かなかった面白みを発見したりして、当初とは違う喜びを見出すこともできるようになるのです。

何かを始めるときには、とにかくあまり迷わずにやり始めることが重要ですね。始めなければ失敗するという体験すらできないのですから。

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