私たちは、日頃愛とそうでないものとをごっちゃにして認識してしまっている傾向にあります。そのことについて、少し詳しくお話ししたいと思います。
例えば、困っている人に手を差し伸べたいと思うこと、これは間違いなく愛と言えます。もっと正確に言えば、愛からスタートするということです。
ところが、愛を発動しようとしたその直後に、必ずと言っていいほど心の中のエゴがそれを横取りして、その愛を恐れによって包んでしまうのです。
その傾向は、愛が何らかの行動を起こすまでに時間的隔たりが多ければ多いほど、エゴに乗っ取られる可能性が高くなると言えます。
本人はそんなことになっているとは自覚のないまま、自分は愛の行動を起こすことになるのですが、それはもうすでに愛が使えなくなってしまった状態ですので、目的が違ってきてしまうのです。
エゴが愛を横取りしてそれを覆ってしまう目的とは、その愛による元々のパワーを利用して、自分を防衛するために使おうとすることなのです。
したがって、困っている人を助けるつもりで行動したことが、知らず知らずに自分のことを何らかの形で守る結果となったりするということです。
それは例えば、自分はいい行いをしたので自分の価値が上がるとか、人からの評価が高くなるはずといったことかもしれません。
ところがこうしたことが続くと、そこには必ず自己犠牲が起きてくるので次第に辛くなってきてしまいます。そこで初めて、自分の言動は愛ではなかったと気づくことになるのです。
でもそこで自分を悔やむ必要はまったくありません。なぜなら、最初は間違いなく愛から出た行動だったわけですから、この次からはエゴにその機会を与えないように気をつければいいのですから。
こうしたことは、本当に沢山あります。好きな人に会いたい、一緒に過ごしたいという思いを愛だと思っている人が沢山います。
これも、元々は確かにそこに愛があったはずなのですが、それをエゴに利用されて自分を守ることに使われてしまったとてもいい事例です。
なぜ好きな人に会いたい、一緒にいたいという思いが愛ではないと言えるのか、それはとても簡単に説明することができます。
極端に言えば、その人に会いたいという気持ちも、その人に会いたくないという気持ちも、愛かエゴかという範疇で言えば、どちらも同じようにエゴのものなのです。
なぜなら、どちらも自分の思いを実現しようとすることだからです。その思いの中心には自分がいるのです。すべて自分のためだということに気づけばいいのです。
愛以外からの行動は、いずれ自己犠牲が増えて苦しくなるので、愛ではなかったとわかるはずですが、そうならないうちに愛をエゴに隠されていないか、自分をよく監視してあげることです。