T30-1 「決心するための規則」への考察

久しぶりに、奇跡のコースのテキスト、第三十章第一節「決心するための規則」を読む機会がありました。正直、最近この部分を読んでいませんでしたね。

コースを読み始めた頃に感じていた事と比べて、今日は随分と違った印象を受けたのでそれについて書いて見ようと思います。

簡単に言ってしまえば、毎日どんな些細な選択においても、エゴを選ぶ代わりに聖霊の答えを選ぶことを習慣化しなさいという教えですね。

かつては、聖霊に任せておけば、あらゆる場面において最適な答えをいつでも教えてもらえるというような理解をしていたように覚えています。

実際、コースのワークショップなどを開催されている有名な方においても、聖霊は常にあなたにとって最善の答えを授けてくれるとはっきりおっしゃっています。

私は今このことにとても大きな違和感を感じずにいられません。なぜなら、その教えを真に受けた人は、きっとその最善の答えをもらうために聖霊に選択を委ねようとするだろうと思うからです。

もしもそうなってしまったら、この節の本当の意味が損なわれてしまうかもしれないと感じます。自分にとっての最善の答えをもらうために、聖霊の答えを選択するのではないからです。

そうではなく、ここでの大きな目的とは聖霊への明け渡しの練習なのです。したがって、聖霊がどんな答えをくれるのかが問題なのではなくて、エゴの選択を使わないということが大事なのです。

もう一度言うと、聖霊の答えが最善なのではなくて、私(エゴ)の選択を使わないということこそが、最善なのだということの理解が必要なのです。

本当は、明け渡すターゲットは誰でも良くて、目の前にいる人でもいいわけです。勿論、そこには深い信頼が絶対的に必要ではありますが…。

テキストの中に出てくる「あなた」という単語にも違和感を覚えましたが、「あなた」とはこのテキストを読んでそれを実践しようとする私のことであり、それはエゴなのです。

つまり、私の意志というものをなるべく使わないようにして、聖霊に明け渡す訓練をするということがこの節の目標だということです。

「あなた」というのを、エゴか聖霊を選択する意識だと解釈しても問題はないと思いますが、現実的にはそんな都合のいい中立の意識などありません。

もう一つ、思い出したことがあります。私が以前目標としていた、自分の知覚を正していくということについても、大きな誤りがあると感じるようになりました。

以前は、日々のあらゆる選択を聖霊に委ねるということによって、次第に聖霊の知覚の仕方に変えていく、自分の知覚を正していくということに主眼を置いていたと思います。

こうしたことは、自分を改善していこうとする思いがそこにあるため、いつまでたっても私から抜け出すことができなくなります。

私とは間違いなくエゴであり、それを改善しようとすること自体がエゴの策略であることを見抜くことです。私がエゴではなくなるということは決してないと肝に銘じることです。