観念による脚色

奇跡のコースでは、この世界はすべて幻想であると説いていますが、そのことと、今日これから書くことはちょっと違うことです。

そのことを一旦脇に置いておいて、つまり幻想だろうがなかろうが、実際に私たちが見ているこの世界というものは、それをあるがままには見ていないということは明らかです。

なぜなら、私たちは何かを見たときに、それに対する自分の心の反応を作り上げて、それを一緒にその対象物とくっつけて見ているからです。

例をあげれば、私の部屋から富士山の姿が見えるのですが、それはとても雄大であって、きっと近くに行ったらとてつもなく大きいのだろうと思いますね。

そして、この季節になるとあっという間に雪によって白く綺麗に色づけされて、何とも美しい姿として目に映ります。

このように、ただ一つの形を見ただけなのに、そこには富士山という名前から始まって、様々な印象が一緒になったものを見ているのです。

これは決して見えているそのものだけを見ているということにはなりませんね。そのものとしての対象物よりも、何倍もの情報を作り上げて、一緒にして見ているのです。

こうしたことは、ありとあらゆることに当てはまります。それが観念と言われるものです。つまり、私たちは自分の心の中にある観念を見ているとさえ言えるのです。

観念はあくまでも心の中で作った想像上のものであり、実物とは全く異なるものです。もっと無機質で、実在しないものである、例えば数字の「1」についても同じです。

「1」に対する観念が心の中に出来上がっているために、個人個人それを心に描いてもらったときには、それぞれに違うイメージが涌いてくるはずです。

心の中は、観念でいっぱいです。それは、過去の体験に基づく膨大な量の印象を使って作り上げられたものであり、何を見るとしてもその観念によって激しく脚色させられてしまうのです。

だからこそ、この世界は一つだけしかないのに、私たちは一人ひとりが独自の世界を見ているということになるのです。

もしも、何かを見た時にその印象を心の中に残さずに、その対象の付属物だとしてしまうことができれば、いつもあるがままを見ることができるはずです。

私たちの本性である、真の自己はそうしたものの見方をするのだろうと思うのです。それには、観念というものがないのですから。