想念と想念の隙間

私たちの想念の中には、思考や感情が散りばめられていますが、そうした想念はやってきては去っていくものです。ある想念が去る前にはすでに次の想念がやってきます。

そうやって、いつまでも鎖のように想念が続いていくのですが、心を静かにしてじっと待っていると、一つの想念と次の想念の間に隙間を見つけることができるようになります。

その隙間こそがチャンスなのです。あらゆる想念とは、過去に印象に残してきた記憶から立ち上ってきて、現在の自分を巻き込もうとするため、その隙間にいる間だけは今を意識していられるからです。

想念と想念の間、つまり深い谷の部分には、その谷の底と接触することが可能となります。そこには一体何があるのでしょうか。

そこにこそ、私たちの本質が隠されているのです。私が見たところでは、そこには何も見つけることができません。

地球上であれば、山と山の間の谷底には、土があったり草木が生えていたり、あるいは川が流れているかもしれません。しかし、想念と想念の間の谷底には何も見い出せないのです。

もしも、想念が自分の心から立ち上ってくると感じているなら、想念と想念の間には心の底が見えると予想するかもしれません。

しかし、本当には心という想念の入れ物、あるいは想念を生み出す装置などないということです。だからこそ、想念と想念の間には何も発見することができないのです。

その何もない隙間をしばらく体験していると、個人である自分は薄れていき、その代わりに全体としての自分を感じるようになります。

この全体というのは、「ただ在る」というものの名前みたいなものと考えればいいのです。それは、どこへも行くところはなく、さりとてどこか一点に留まっているというのでもありません。

全体の外側に出て行くこともできなければ、全体の一部になることもできないのです。ただただ不動であるとしか言いようのない純粋な気づきです。

それこそが、私たちの本当の本質であるモノです。全体であることは、何もないものであるので無とも言えるし、また空(くう)であるとも言えるのです。

いずれにしても、言葉を用いた瞬間に概念や観念になってしまうため、これはただ直接体験することでしか知ることはできないものです。

起きてくる想念が何も悪いわけではなく、それに捕まってしまうことにこそ問題があるのです。どんな瞬間でも、ただ在る全体としての意識に気づけているようになれるといいですね。