知覚は非対称 その2

一昨日、知覚は非対称だということについて書きました。知覚が起きると、その主体は消えてなくなってしまうということでした。

このことについて、もう少し違う表現で書いてみようと思います。例えば、部屋で一人カーテンを眺めているとします。そのときに、「見る」という行為が起きているという事実があります。

ところが、そこに「私」が「カーテン」を「見ている」というように、主体と客体(対象)を追加してしまいます。そうなると、見るという単なる行為があるだけではなくなってしまいます。

あくまでも、「私」という主体が主体性を持ってカーテンを見ているということになり、これはまさしく観念として作られたものなのです。

観念がいいとか悪いとかということではなくて、それは事実ではなくて、ただそう思っているということだということに気づく必要があるということです。

私たちはその観念を強く信じる習慣が出来てしまっているために、それを事実として何の疑いもなく受け入れてしまうのです。

これを暴くのは大変なことかもしれませんが、一度分かってしまえばどうということはありません。直接体験として、カーテンを見ている私をどこにも見い出すことができないと気づくことができます。

私は確かに消えています。鏡に映して見た時のあの自分の顔や頭はありません。その代わり、顔や頭があると想定していたところに、目一杯のカーテンや部屋の景色が詰まっていることに気づきます。

それはまるで、自分の頭がすっかり部屋の景色と入れ替わってしまったかのようです。いいえ、これはそう感じるのではなくて、これこそが直接体験なのですね。

結局、見るという行為が起きるとは、主体が消えてその代わりに見られる対象をまとうと表現してもいいかもしれません。

もしも、目の前に誰かがいたとしたら、私は自分を消滅させてその人をまとう、その人になるということです。つまりこれこそが、「私はあなた!」という直接体験に他なりません。

もっと正確に言えば、「ここに在るそれはあなただ。」ということで、個人としての「私」があなたになると言う意味ではありません。

この非対称性を常に意識し続けることができたら、きっと私たちはもっと自由に伸び伸びとした気楽な毎日を生きることができるはずです。

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