平安を求める心

私たちは、自分の心が嵐のように荒れ狂っている状態よりも、穏やかな平安な状態でいることを望んでいるものです。

誰かに酷い言葉をかけられたり、理不尽なことをされたり、身の危険を感じたりすれば、当然心は激しくみだされてしまいます。怒りで身体が震えてしまうかもしれません。

そうしたことは、二度と起きて欲しくないと思うので、できる限り心の平安を願って生活しているわけです。

けれども、この平安というものがなかなかのクセモノなのです。一般的には、平安というよりも安心を求めているといったほうが正確な表現である場合が多いのです。

そうした安心とは、裏を返せば未来に対する不安感を何とかしたいという思いなのです。未来に意識が向いているということは、過去からやってくる思考に巻き込まれているということです。

したがって、思考に目を向けずにいるだけで不安は解消するはずなのですが、それは決してしたくないのです。

つまり、安心したいと思っているといっても、それは単に自分に都合のいい状態を求めているに過ぎないということです。

それは、戦いに勝つこととか、欲しいものが手に入るとか、自分は否定されることはなく、愛されている、認められているということなどです。これは、本当の平安ではありません。

つまり、過去や未来に意識が向いた状態での安心であり、今この瞬間に意識が向くことによる平安ではないということです。

そうした意味で言えば、安心とは一過性のものであるということです。つまり、戦いと戦いの間の休戦状態と同じものです。

一方で、真の平安とは永続的なものであるということです。そこには、時間は入る余地がありません。何も無いということが、時間を排除してしまうのです。

こうした真の平安を求めても、それを求めている間は手に入れることはできません。なぜなら、その求める心が思考から出来上がっているからです。

平安を求める代わりに、ただの存在性と共にくつろぐことによって、それは起きるのだろうと思うのです。

同一視と一つになることの違い

今このブログを読んでいるあなたが何歳であろうと、その年齢分だけ何かと自分を同一視してきたことは間違いありません。

まず初めにやらかした同一視とは、自分とはこの身体であるというものです。実際、そのことによって、「私」という想念が出来上がったのですから。

それからというもの、その「私」が実在しているという証拠を作り続けるために、様々なものと自分を同一視してきたということです。

体験を通して学んでいくことを、「血となり肉となり」という言い方で表現することがありますが、それこそまさしくあらゆる経験を自己と同一視してきたことを物語っているのです。

その記憶の一つひとつが「私」という存在の貴重な肉付けとなっているということですね。そうしてみれば、「私」という人物が全面的に過去から出来上がっているということが分かります。

私たちの歴史とは、自分と何かの同一化の歴史そのものだったのです。それが、「私」という人物の正体です。

けれども、それは自分が何かと一つものになるということとは全く違います。なぜなら、同一視する中心には、主体となる私がいつもそこにいたからです。

こんな経験を乗り越えてきた私、こんな家族を持っている私、年収がこれだけの私、こんな能力がある私、こうしたすべての同一視は自分を肥やして存続させるためのものなのです。

今に耳を澄まして本当の自己の姿と一つになっていくときには、ようやく同一視することをやめて、その自己と一つになっていくことができるのでしょうね。

そのときには、過去を張りくっ付けてでっち上げたこの「私」は、この身体とともに消えていくことになるのです。それを怖いと感じるのか、清々しいと思えるのかはその人の精神状態に左右されることかもしれません。

心理的恐怖を見つめる

心理的恐怖とは何かと言えば、それは自らが作り出した恐怖のことです。自分で恐怖を作り出すなんてあり得ないと思うかもしれませんが、そうでもないのです。

私たちは、実際には在りもしないことを自分ででっちあげて、それに対してまさしく恐怖を抱くということを繰り返しているのです。

その中でも一番単純なのが、予期不安というものです。生物の防衛本能として、一度危険な体験をすると、同様の体験を避けようとする力が働くのです。

そうすると、実際には危険がそこになくても、そこに危険の可能性を検知することで、それを避けようとしてしまうということです。

勿論、それは単なる危険回避の行動ですから、いけないことではないのですが、それが繰り返されてしまうと、過度でしかも不要な自己防衛をし続けることになるのです。

パニック発作などはその典型的なものだと言えます。最初に具合が悪くなったのは、体調不良などが重なったための正当なものだったのが、次からは単なる危険回避による予期不安からの発作が起こるのです。

昔から言われていることですが、暗闇の中でロープを見た時、恐怖の心でそれを見ることで、蛇のように見えてしまうために、その心の通りに恐怖を感じてしまうのです。

動物には、こうした心理的恐怖というのはあまりないのかもしれませんが、人間はこれでもかというくらいに日々の生活の中でありもしない恐怖をでっちあげているのです。

それは本当に大変なエネルギーの浪費です。一度恐れを抱いた対象からは、できるだけ逃れようとしてしまうので、恐怖が自分の中で大きく育ってしまうのです。

逃げれば逃げるほど、恐怖は肥大していき、仕舞いには飽和状態にまで成長した状態で、本人を追いかけてくるのです。

そうなると、その恐怖に向かい合うことは至難の業となってしまいます。それでも方法はあります。つまり、こうした心理的な働きのことを理解した上で、勇気を持ってその恐怖から逃れようとすることをやめるのです。

逃げるのをやめただけで、不思議なことにその恐怖はそれほど大きくはなかったということに気づくことになるのです。

自分で作り上げた恐怖ですから、それに実体などありません。だからこそ、見てしまえばそれは急速に萎んでいってしまうのです。

あなたには、自分が逃げ続けてきた恐怖の本性を見ようとする勇気があるでしょうか?対決姿勢を手放せば、きっと恐怖は影のように消えてしまうはずです。

何があっても楽しむという選択肢

私たちは幼い頃から、例えば幼稚園のかけっこでビリになるよりも一等になるほうがいいと思っていましたし、一等になったら喜ぶのです。

テストで0点取るよりも100点取ったほうが嬉しいし、叱られるよりも褒められたほうがいい気持ちになるし、嫌われるよりも好かれるほうが断然好きなのです。

友達がいなくて孤独であるよりも、仲良しの友達がいたほうが楽しいし、欲しいものが買えないようりも手に入れられたらそれをすごく喜べるのです。

けれども、そうした基本は残るものの、成長するにつれて少しずつ反応が複雑化していきます。子供の頃は決して食べないような珍味を好むようになったりするのです。

腐った雑巾のような匂いのするウォッシュチーズを美味しいと思ったり、見た目は気持ち悪いものでも、それを喜んで食するようになったりします。

あるいは、少し毛色は違いますが、より多くの楽しみを得るために、いやなことでも我慢しつつそれも楽しみに変えてしまうということもできるのです。

例えば、以前毎日スポーツクラブに水泳をしに行っていたときには、必ず100℃のサウナで汗をかくのが楽しみでした。

10分も入っていれば、かなりシンドイ状態になるのですが、それがまた気持ちいいし、そのあとで水風呂に入るのがまた何とも爽快で、それをとても楽しんでいました。

あなたは、たとえどんなことであろうとも、本質的にはそれを楽しむことが可能であるということを認めることができるでしょうか?

何が起ころうとも、それを楽しむという選択肢があるのだということに気づき、それを実践するように仕向けていくことができることを認められるでしょうか?

もしも、人生を何が何でも楽しみたいという意欲があるのであれば、このことをじっくり考えてみることは決して損なことではないはずです。

何でも楽しんでしまいましょう。お金がなくても、楽しむことはできます。どんな経験でも、それを楽しむことができれば、人生は大きく見え方が変わってくると思います。

何も無さを観、静寂を聴く

山や森のような大自然の中に行くと、よくその静けさに耳を澄ましてみる、ということをすると思います。イメージしただけでも、とても気持ちよくなりますね。

しかし、静けさというのは音のないことですから、それに耳を澄ます、あるいは耳を傾けるというのは本来変な話しです。

それでも、私たちはよくそのようなことをするものです。それはきっと、本質的に静寂さというものを求めているからなのかもしれません。

耳で聞けるのは音なのに、その音のない状態である静寂を聴くというのはどういうことでしょうか?勿論、静寂さを自分の耳で聞くことなどできません。

そうではなくて、私たちは静寂さを直接体験しているのです。そしてその静寂さにじっと意識を向け続けていると、ふいにその静寂さこそが自分自身だと気づくのです。

その一瞬の意識の転換をきっと誰もが経験しているはずです。それは決して知覚ではありません。静寂とは、対象ではないからです。

見るということについても同じようなことが言えます。目をつぶるなり、真っ暗な場所にいると、そこには光がないために私たちは何も見えなくなります。

けれども、何も見えないはずなのに、闇を観ているということを知っています。それは暗闇を知覚しているのではありません。

ただ何ものも見えない闇、つまり無を直接体験しているということです。そしてやはり、それは対象ではないので、自己の本質であるという気づきへと移行します。

静寂さであれ、何もなさであれ、どちらもこの世界で起きるすべての現象の土台であり、それこそが自己という純粋な意識なのですね。

それは何とも言いがたい、安らいだ気持ちにさせてくれます。どんな音が聞こえていようと静寂を聴くようにし、何が見えていようとそこに何もなさを観るのです。

そしてそのときに、静寂も無も、今という違う言葉でも言えるということが分かります。今とは、私たちの本質の姿そのものだということです。

落ち着くことのない心

子供の頃、通信簿(今の通知表)の通信欄に、「落ち着きのない子」と書かれていたという話しを時々聞くことがあります。

私自身はそういうことはなかったのですが、でも間違いなく子供の頃というのは大人のようには落ち着いてはいなかったはずですね。

子供は、長い間じっとしていることが苦手なのです。それが徐々に、学校の授業などで鍛えられていくうちに、気づくと1時間くらいは何かに集中することができるようになるものです。

けれども、たとえ大人になったとしても、姿形、立ち振る舞いは落ち着いているようにすることはできても、実際心の中はというと、どうだか怪しくなります。

実は人間というのは、元々が落ち着くということが苦手な存在だと思うのです。心がざわつくことが多ければ、落ち着きたいなと思うものです。

しかし、いつどんなときにも落ち着いていられる人など、一般的にはいないはずです。よほど、深い瞑想状態にでもならない限りは、常に精神活動をし続けています。

「落ち着く」という日本語は、すばらしいですね。落ちて着くのですから。永続的に精神が落ち着くことができるなら、それはもう覚醒しているということでしょう。

徹底的に落ち着いてしまったら、それは心は生き長らえないで消滅してしまうはずです。だから、自己の存続をかけて落ち着かないように心はするのです。

この落ち着かないというのは、スケールを広げて考えてみると、宇宙のシステムそのものなのかもしれないとも感じてきます。

宇宙は広大で深淵なものと考えることもできますが、ビッグバンが発生して以来、その爆発は今も継続していて、決して宇宙は静寂などではありません。

星雲も太陽系も地球も、あらゆる星々は人と同じように生まれては消えていくということを繰り返しているのですから。

宇宙のどこを見ても、落ち着いているところなどないということです。宇宙の本質は活動なのでしょうね。だから、我々が真に落ち着けないのも当然なのだと思うのです。

その宇宙のシステムに逆らって、徹底的に落ち着こうとすることこそが、この宇宙を越えたところの自分の本質に出会うことへと繋がるのかもしれません。

いやなことから逃げないの真意

セラピストになって、セッションでクライアントさんにお伝えしてきた言葉で、最も繰り返し使った言葉は、きっと「いやなことを我慢してやり続けないことです」だったと思います。

我慢しないというのは、元々自分の生き方の基本だったということもあるのですが、多くの方々がそれと正反対の生き方をされていることに気づいてびっくりしたものです。

日本の文化では、特に「人生は忍耐だ」というようなニュアンスのことが普遍的に浸透しているために、誰もが一応に我慢強くなっているのです。

我慢強ければ、それだけ自己犠牲を続けることができてしまうので、「なるべく我慢弱くなって下さい」ということも言ってきたのです。

自己犠牲を強いてしまう根本的理由とは、自己防衛にほかなりません。自分を護りたい一心で我慢を続けてしまうわけです。

自分に辛い思いをさせる代わりに、自分の命を護ろうとするということです。こうした生き方がいつまでも続くわけもなく、いずれは爆発することになります。

我慢をしないということと一見矛盾するように思えるかもしれませんが、私は同時に「いやなことから逃げないで下さい」ともお伝えしています。

我慢をせずに、嫌なことから逃げないとはどういうことかと思われるかもしれませんが、いやなこと、都合の悪いこと、観たくないこと、痛みや苦しみから逃げないことは、決して我慢することにはならないのです。

いやなことから逃げないといっても、だからといっていやなことに向かってそれと闘ったり、打ち負かしたりして乗り越えようともしないということです。

逃げるのも闘うのも形は違えど全く同じことなのです。ただただ嫌なことの中にいるということです。それは、勿論耐えることとも全く異なるものです。

耐えるとか、我慢するというのは、すでにそこには闘争があるのです。だからそれは逃げることと同じなのです。

勇気はいるかもしれませんが、それは立ち向かっていくということよりも、ただそれを見ているだけでいいのです。そこには、何の自己犠牲もありません。

自己の不在という至福

会社員の頃に、とても精神的にきつい時期がありました。仕事上の責任が重くのしかかってきたりして、なかなかしんどいときがありました。

そんな時には、朝起きるのが本当にいやでしたね。ずっとこのまま寝たままになっていたいと思ったこともあったと思います。

また、それほどに現実が辛くなくとも、私たちは概して寝ることが好きです。暖かくて、柔らかな布団の感触とか、安心感などが好きなのだと思います。

しかし、よく考えてみると、寝ている間というのは意識が途絶えているわけで、つまりその間は自分というものを自覚することができないのです。

それなのに、なぜ寝ることが好きなのでしょうか?これはとても奇異な感じがしませんか?熟睡しているときというのは、自覚がないという点で死の状態と何ら違いがないわけです。

そのくせ、一方では私たちは死をものすごく恐れていて、また一方では寝ることが大好きというのですから、おかしな話しではないでしょうか?

死の状態も熟睡もどちらも、自分というものを意識することができない、つまり自分が不在であるということです。

私たちは、実は誰もがその状態が至福であるということを知っているということです。死を恐れてはいるものの、本当は自己不在こそが至福なのだと分かっているのです。

覚醒とは、肉体的な生が残っている間に、自分の不在に気づくことです。だから、その至福感を求めて覚醒しようとする人たちがいるのです。

ところが、私たちは修行を重ねて覚醒などしなくとも、もうすでに毎晩のように睡眠を通して、自己不在による至福を満喫しているとも言えるのです。

自分が不在となる死をこれほどまでに恐れているというのは、何だか怪しい感じがしてきませんか?死こそが至福だと分かってしまったら、人類はどうなるでしょうか?

至福を求めて自ら死を選ぶ人が大勢出てきてしまうのではないか?という可能性を否定することはできないと思います。

ただし、覚醒した人が自ら肉体の死を選択するということはあり得ないでしょうね。なぜなら、彼らにはすでに死を選択する理由すらなくなってしまっているのですから。

退屈を徹底的に追求する

人は何もすることがなくなると、すぐに手持ち無沙汰というか、退屈な感覚に襲われてしまいます。その退屈って一体なんだろうかと考えたことがありますか?

退屈さを感じてみると、そこにはいろいろな思いや感情が混じっていることに気づかされます。例えば、何もしない自分には価値を見出せないという否定感だったり。

あるいは、少しの時間でも何もしないでいると、過去の思い出したくない事柄が頭に浮かんできてしまって都合が悪い感じがしたり。

また、何もしないでいる自分が、周りから取り残されていくような不安を感じるかもしれません。自分だけが生産的なことを何もしていないとか。

全く進歩をしていない自分への駄目出しだったり。ほんの少しでも時間を無駄にしてしまっているという罪悪感だったり。

こうして書いていて分かったのですが、何もしないでいると自己肯定感を感じにくくなると同時に、自己否定感がヒシヒシとやってくるようです。

つまり、人は自己否定感や罪悪感を隠すために、あるいは紛らすために何かをやっていたいと思っているのかもしれませんね。

表面的には、何か自分の好みの刺激を求める傾向があるということも分かります。これは、味のないものを食べるより、好みの味付けがされた食べ物を食べたいということと同じです。

つまり、快楽を求め続ける人間の習性でもあるわけです。最近、私は何もすることがなくなると、すぐに瞑想を始めるクセが出来上がっています。

本来、瞑想とは何もしない、瞑想している主体がなくなることがその目的なのですが、「瞑想している自分」がしっかりいるので、これも退屈から逃れる術として使っているわけです。

肉体的にはともかく、心理的にあるいは精神的にどんなに退屈でも何もしないでいるということの中にいてみると、どうなるのかなという興味があります。

そうした精神活動の徹底的な停止こそが、今まで自分が一度もやったことのないことなのだろうなと思うからです。

ただし、このことに興味を持っている自分がいる限りは、そこに精神活動が存在してしまうのでそれもやめることになるのですね。

観照することで人生は面白くなる

私が初めて映画館で洋画を観たのは、確か「007」というスパイものでした。ショーン・コネリー扮するジェームズ・ボンドという国家諜報部員が悪の権化と闘うというものでした。

子供心に、特別に改造されたアストン・マーチン(イギリスの高級車)を操ったり、すばらしく綺麗なお姉さんたちと仲良くしたりと、観ていてとてもワクワクさせられたものです。

その頃から映画が好きになり、主には高校生になって、しょっちゅう銀座まで映画を観に行くようになりました。お金がないので、ロードショーはたまにしか観れませんでしたが…。

きっと多くの人が映画鑑賞が好きでしょうし、嫌いという人の方が珍しいのかもしれません。テレビにしても、人は物語を観たり聞いたりするのが本当に好きなのですね。

勿論、本で物語を読むこともそれに含まれます。物語というのは、フィクションであろうとノンフィクションであろうと、自分がその物語の中にいないという安心感で観るものです。

だからこそ、大いに泣いたり笑ったり腹を立てたりして、感動したり、喜んでみたり、場合によっては恐怖映画で怖がったりして楽しむことができるのです。

物語を観たり聞いたり読んだりすることが娯楽として成立するのは、自分がその中にはいないということが前提です。

怖くて夜一人でトイレに行かれなくなっても、わざわざホラー映画を見に行くのは自分には実害がないからです。そこが人生と違うところです。

人生だって、物語であることには違いありません。その物語の中に自分がいるということだけが、映画やテレビの中のものと違うだけです。

けれども、人生の中で活躍している自分を観る側に意識を向け続けることができたら、そのときにはノンフィクション映画でも観るように、自分の人生を観照することができるのです。

その場合に限り、悲しい物語であろうと、感動ドラマであろうと、あるいは恐怖のストーリーであろうと、映画を楽しむのと同様にして、自分の人生を楽しむことができるということです。

それこそが、人生を本当に楽しむ唯一のやり方なのではないかと思うのです。みなさん、自分を日々観照してますか?