真理を求めることはない その5

一昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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聖者は、罪について夢見続ける。
聖者は、自分が抑圧したあらゆる悪事を夢に見続ける。
奇妙な現象だが、
聖者の夢の中を覗きこめば、常に罪人のように見えるだろう。

そして罪人の夢を覗きこめば、常に聖者のように見えることになる。
罪人は、 いつも聖者になる夢を見る。
そして聖者は常に罪人になる夢を見る。
抑圧されたものが夢に現われ、無意識が夢で自らを顕すからだ。

だが、分裂はそのままだ。
そして分裂している限り、決して源まで落ちることはできない。
それはちょうどこんなふうだ。

一本の樹があるとしよう。
無数の枝を出した大きな樹で、枝はそれぞれに分かれている。
その枝に執着したら、どうやって根元まで行くことなどできるだろう。
根に向かえば向かうほど、枝は少なくなる。
下へ行けば 行くほど「多」は 消え、分かれていない一本の幹に到達する。
すべての枝がその中にあり、しかもそれ自体は分かれていない。
あらゆるものはそこから出ている。

「多」は その「一」から出ているのだが、
その「一」は「一」のままなのだ。
人は、その「一」まで落ちなければならない。
それこそが根だ、源だ。

「あらゆる相対性は、
絶対の一から来るとはいえ、
その一にも、囚われてはならない」。

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