私たちが持っている個別の意識、正確には個別の思考と言ったほうがいいのですが、それは、純粋な意識の片鱗を示してくれています。
というのも、純粋な意識としての全体性というのは、究極の個であるとも言えるからです。つまり二つ目のない唯一の個ということです。
だからこそ、私たちは誰も自分を二人だとは感じないのです。自分の心が一枚岩ではなく、多くの部分に分離していると分かったとしても、それを認識している自己はやはり一つなのです。
このことは、個としての自己と、個別性としての自分というものを混同しないようにする必要があるということに気づかせてくれます。
私は人生の初期のころから、何となく自分がすべてだという感覚を持っていました。それは、自分としてはとても自然なものだったのです。
けれども、それは特別でありたいという、つまり個別性に執着するエゴの欲望だと解釈したために、その自然な感覚を否定してしまった時期がありました。
それこそが、個としての全体性と個別性の混同であったと今なら分かるのです。そうして初めて、正々堂々と自分がすべてだと再び言えるようになったのです。
勿論その場合の自分とは、個人(個別性)としての自分のことではなく、自分とは何だろう?と追求していく過程で突如広がる意識のことです。
自分をどこまでも探求するのは、答えを出すためではありません。その探求の過程が大切なのです。そのときに、自己という個が無限大の意識だということに気づかされます。
この感覚を得るには、わざわざ長い時間を取って瞑想する必要もありません。ただ、思考の手の届かない内奥の静寂さに触れるだけでいいのです。
その静寂さは、この騒がしい現象界がそれとして顕われ起きるための、舞台のようなものだと思えばいいのです。
.