大切な気づきの一つは、自分の中では事実だと認識していたことを、ただの思い込みに過ぎなかったと見抜くことです。
私たちが日頃事実だと認識していることのほとんどは、思い込みの産物でしかないという発見は、本当の意味で人生を変える力を持っているのです。
たとえば、大きなスケールで言えば、この世界、この宇宙は自分の認識とは関わりなく実在するという常識がありますが、実は量子力学がこの常識を破壊したのです。
私たちが観察することと、存在は一つものだということ。夜太陽は地球の裏側に隠れていて、夜が明けると太陽が現れるという常識は、間違っていたということ。
あなたが認識しなければ、太陽の存在は不定なのです。このことはあまりにも奇想天外なことなので、すぐに理解できなくても当然かもしれませんね。
逆に、もっと身近な例で言えば、幼い頃に蓄積してしまった自己イメージを誰もが持っているのですが、それを疑ってかからないということがあります。
イメージというからには、作り物でしかないはずなのに、きっと自分は価値のない存在なのだということを事実だと認識して変えることができないのです。
自己イメージはその内容のいかんにかかわらず、すべてが刷り込まれた情報でしかありません。事実でも真実でもなく、単なる洗脳のようなものなのです。
そのことを深く理解することで、防衛が減って生き方がよりシンプルなものへと変化していくのです。きっと気分が軽くなっていくはずですね。
「見られているリンゴと見られてないリンゴは違う」と量子力学では言いますね。超微粒子レベルだとそれは厳然たる事実として観測出来たと。
見ている人間の認識が明らかにリンゴの微粒子に影響を与えているという結果です。
正直、ブログの太陽の例は理屈としてはあり得るとは思いますが、そこを疑問視できる自分が無いもので実感はわきませんが…
でも、見られてない自己イメージと見られている自己イメージは違うのだろうということは多少は実感出来ます。
ブログで再三取り上げている「見つめること」で自己イメージに働きかけ微粒子レベルの変化から身に起きる現象も変わるんだろうと何となく思います。現象が変わると言うより、解釈や認識系が変わると言った法が正しいのかな?
先日のブログのイーロン・マスクの「この世はバーチャルリアリティ」ということと合わせて考えると無きにしも非ずです。
ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスでハリケーンを起こすという例えで、ほんのちょっとしたことが大きな変化に繋がる、物事はそれほどカオスであることを端的に表した「バタフライ効果」という言葉がありますけど、幼いころに刷り込まれた自己イメージってカオスの中で特定の方向に仕向けられた「蝶の羽ばたき」なんだと思いますよ。刷り込みの第一歩なんて冷静に見たら本当に何でもないことでしょうし。
それを疑ってかかって、新たな方向の「蝶の羽ばたき」を起こすのが癒しだったり瞑想なんでしょうね。
やっぱり、どうせならシンプルに、楽に、ストレスなく行きたいのが人情でしょうから、それに乗らない手は無いと思います。
と、なんだか太鼓持ちめいたコメントになりましたが、実感を込めてコメントさせて頂きました。
先程のコメントをして思ったんですけど、エゴってなんなんですかね??
自己イメージは刷り込みに過ぎない幻だとそれはもう実感してますけど、エゴはどこからやって来たんだ?エゴとは何だろう?というのが目下の疑問でして…
エゴこそが最大の思い込みの産物ですね。エゴを持った人間に育てられなければ、エゴは発生しないことが分かっているので、エゴの始まりはモノマネのようなものだと考えられます。親のエゴの影響下にある幼児が、エゴを生み出すのです。勿論思い込みによって。
その時には、もうすでにかなりの自己イメージが蓄えられているので、エゴの発生と同時に、エゴはその自己イメージを取り込んでしまうのです。そうなると、○○な自分がいるという思い込み自体が、それを後押しするようにして自ら肥大化して行ってしまうのです。あらゆる体験の主という思い込みによって。そしてまた、防衛することで、エゴは強化されます。だから癒しの本質とは、エゴの根っこを捕まえることです。そのためには、そこをどこまでも深く見に行くことですね。
自己イメージという思い込みを見つめても見つめても、エゴの根は確かにあると思い込んでいるんですよね。
それすらも思い込みと腑に落ちる瞬間がくればいいんですけど…
それも見つめ続けることですかね。
ありがとうございました。