自分本位はビューティフル

もし世界中の誰もが自分本位だったら
世界はビューティフルだろう
ちょっと考えてみてごらん
誰もが幸せでいようとしている
誰もが祝おうとしている
誰もが静かで、瞑想的で
祈りに満ち、愛にあふれていようとしている
そういうものこそ幸福のもとだからだ
世界は幸せになるに違いない

by osho

自分本位という言葉には、何かエゴイスティックで嫌なニュアンスを感じてしまう人も多いでしょうね。

けれども、誰もがそうなったら世界はビューティフルだろうと osho は言っています。その違いはどこから来るのでしょうか?

実は、誰もが幸せになろうと思っているということに異論はないでしょうけれど、それがそもそも違うのです。

私たちは、ただ安心していたいのです。それを幸せとか満たされるということと勘違いしているだけなのです。

祝おうとする気持ち、祈りに満ちて、瞑想的で愛にあふれていようとすることは、安心しようとすることとは正反対。

安心したいのは不安だからであって、そこには愛のかけらもありません。ただ恐怖に飲み込まれているのです。

自分本位とは、自分を安心させようとする生き方とは真反対であって、自分のあるがままで在ること。だからそこにどんな闘いもないのです。

そうなったら当然、瞑想的で愛に溢れることになるのでしょうね。

ハートを開くために、マインドを見守る

頭というのは、社会があなたにしかけたトリックにほかならない
頭というのは
社会があなたに取りつけた機械
社会があなたに押しつけた機械のようなものなのだ
ハートは生まれつきあなたについてくる
が、頭はついてはこない
それは社会によって条件づけられ、訓練されたものなのだ

by osho

↑この社会によって生後条件づけられた「頭」とは、脳みそという意味ではもちろんなく、「マインド」と言い換えればいいのです。

生まれたばかりの時には、マインドはなく、ハートの原型しかありませんでした。まず初めに、人間として感じるためにハートが開かれるのです。

ハートによって、人はこの世界とつながるようになるのです。だから幼児はハートで生きているようなもの。

ところがその後になって、親や社会から社会的な存在になれるようにとマインドを作らされてしまうのです。

これは間違いなく避けることのできないものです。誰もがマインドを持つようになるのは、当然の成り行きなのです。

問題は、ハートとマインドのバランスが崩れてしまうことです。マインドが優勢になって、ハートが閉じてしまうと頭でっかちでつまらない人間になるのです。

そうなると生きているとは言えない生き方を強いられるようになるのです。言いたいことが言えない、感情を味わうこともできずに、ロボットのようにその日を過ごすのみ。

マインドこそが自分自身なのだという思い込みに気づくこともなく、死んだような目をして生きることになるのです。

マインドの仕事とは、自己防衛に励んで社会の中でなんとか生き延びようとすることなのです。

マインドの生い立ちや仕組みなどに対する深い理解ができるようになれば、それだけでマインドから離れて、ハートを優先する生き方へと自然と変わっていくはずなのです。

そのためには、マインドをいつも見続けること。そしてリアルタイムでマインドの反応に気づいていられるようにするのです。

マインドとの距離ができるようになれば、あとは自然とハートが幼い頃のように再び開き出してくれるはずなのです。

受け身の存在として…

あなたのまわりで起こっていることすべてに
ただ受け身に敏感でありなさい。
水に映る光
河の流れ
騒音–
子供たちの遊ぶ声、笑い声、クスクス笑い–
ただそこにいなさい、受け身の存在として
自分をひらいて
耳を澄ましながら
ただ見ている
何も考えることなく–

by osho

歳を重ねてくると、身体のあちこちがギクシャクしてきて、ときには痛みが出てきたり、動きが緩慢になったりするものです。

けれども、そうした不都合なことばかりではなく、若い頃には決して感じることのなかった穏やかなマインドでいられることも増えてくるのです。

私は、どちらかというと若い頃から何事にも積極的になれなくて、いつも向こうからやってきた人生の中でどうにか生きてきたという感覚なのです。

自分の力で、自分の人生の道を切り開いてきたという思いがまったくないのです。だから社会の一般的な教え通りには行かない自分を歯がゆく思ってもいました。

能動的で活動的な人を見ると、間違いなく妬む気持ちもありました。そんな消極的な自分でも、それはそれで仕方ないなという思いがあったのです。

ところが、この年齢になってくると、どうやら消極的というよりも受け身である自分の性分が、無理なく自分にマッチしていることに気づくようになったのです。

若い頃には否定的なニュアンスしかなかったのに、今では受け身であることの清々しさを少しずつ感じられるようになってきたのです。

受け身であるとは、受け入れるということであり、さらに言えば受け入れることすらも意識しない状態もあるのですね。

ハートが開くとはそういうことなのですね…。

生はここにある

持つに値する唯一の欲望は
なんの欲望も持たないということだ
あらゆる欲望は悲劇をつくり出すものだから
欲望というのは
あなたが明日へ動いてしまったことを意味する
生はここにある
欲望はいつでもどこかほかにある
生きるというのはこの瞬間の中にある
欲望はつねにどこか未来にある

by osho

生はここにあると言われても、私たちは今ここにはじっとしていられないのです。そんなの退屈だし、何も面白味がないと感じてしまうからです。

実際、希望があるからこそマインドは生き続けていられるのです。希望はもちろん欲望と同じもの。ただちょっと肯定的なニュアンスを持っているだけ。

確かに欲望は悲劇を作り出すのでしょうけれど、それでも悲劇が終わったら喜劇がやってきて、たまには幸福が顔を出すこともあります。

そうやって、いつも悲喜こもごもで人生は推移していくのです。だから欲望を持ってもいいのですが、ただいつかは終わるときがくるのです。

何万年かかろうが、いずれは誰もがマインドの真実に気づいて、そこから旅立っていくのです。それがこの瞬間の中だと言っているのですね。

過去にも未来にも出向くことなく、なるべく静かに今ここを満喫していることができるなら、時間と時間の間に横たわる永遠の深みの中へと入ることができる気がします。

このようなことを書いていると、自分のマインド(エゴ)が困っているのを感じますね。きっといやなのでしょう。

まだまだこの人生で何か楽しいことを探したいと思っているのが分かります。本当は絶望も持っているのに…。

伝統を重んじるって?

社会一般的には、概ね伝統を重んじることは良しとされていますので、これに異を唱えると大抵は否定されてしまいます。

私自身は、ずっと以前から伝統とか格式、しきたりのようなものには、どういうわけかまったく興味がなかったのです。

いにしえの人々の知恵が詰まった大切な教えなのだろうとは思うのですが、どうもそうした原初の意味も知らずに、やみくもに昔ながらの決まりごととして守ってきた感があるからです。

実はルールを作ってそれを守ることは、マインドにとっての自己防衛の一つなのです。だから、伝統を重んじればそれだけで正しいとされて安心できるのです。

もう少し話しを一般化すると、マインドにはいわゆる「思い入れ」というものがあるのですが、それがクセものなのです。

何かに対する思い入れが強いと、マインドは融通が効かなくなる傾向があるし、それが結局は執着をも生み出す原因となるのですから。

私はどちらかというと、安心よりも「なんでもあり」の方が生きていて楽しい気がするので、自分が作った決め事みたいなものもかなり適当です。

大相撲の土俵上への女人禁制という伝統が、時代の中で消えて行かざるを得ない事態が起きたということでしょうね。

エゴは特別な自分でありたい

東京ではソメイヨシノの桜が散ってしまいましたが、その後を継いで八重桜が今満開の時期を迎えているようですね。

子供の頃に住んでいた家が川のほとりにあって、その川の両側がずっと桜並木だったので、家の二階から花見ができたのです。

たまたま家の正面に一本だけ八重桜があったので、長い間桜を楽しむことができたのです。八重桜は単独でも十分に存在が目立つのが特徴ですね。

あのふっくらとした花の形と、満開の時期が他とずれているということで、存在が際立つわけです。

私たちのエゴも同じように、自分は特別な存在でありたいといつも願っているのです。だから幼いときには、いつも親に目を向けていてほしいのです。

自分だけを見ていてほしいと願っているのですが、現実はそうはいかないのですね。兄弟がいたり、親自身が忙しかったりして…。

エゴは自分が特別であることに命を懸けているので、それが肯定的なことであれ否定的なことであれ、なんでも使うのです。

人よりも何かが抜きん出ていることがあれば嬉しいし、場合によってはその逆であっても特別であることを優先するのです。

エゴにとっては特別さがなくなって、全体の中に混じって存在がわからなくなってしまうことが一番怖いことなのです。

その理由はただ一つ、エゴは実在するものではないので、それがバレることが死ぬより怖いからなのですね。

「見ること」の恩恵

毎年感じているものですが、どうも日本の四季というものが崩壊しつつあるのではないかと思うのです。

春夏秋冬とは名ばかりで、長い冬が終わってようやく春になってきたかと思いきや、すぐに夏日がやってくるのですから。

夏が終わってようやくうだるような暑さから解放されて、過ごしやすい秋が来ると思った矢先に、突然寒い冬が待っていると言った具合です。

要するに過ごしやすい春と秋がどんどん短くなってきているのでしょうね。この2極化はどこまで進んでいくんでしょう?

こんな感じで季節の変わり目がこれまで以上に激しくなると、変わり目で体調が悪化させられる人にとっては、益々辛い目に遭わされることになりそうで。

今まさに、私の体には腰痛と微熱感が同時にやってきていて、仕方なく普段はなかなか行かない病院にいって、死にそうに痛い注射をブスブス腰に刺されてきました。

そんなときに自分にできることは、こうした身体の不具合をただ見ている練習をすることですね。

以前よりは痛みや不愉快さをジッと見ていられるようになってきました。見るチャンスを貰っているくらいの気持ちになれるようにもなってきたのかな。

若い頃から、この微熱感はよく経験していたのですが、その頃はただ早く抜け出せないかということばかり考えていたのでしょうね。

もちろん今もそれはあるのですが、見る側にいることで随分と感触は薄くなっているなと思うのです。

見ることはとても大きな助けになっていると実感しています。

人間はマッチポンプ

「マッチポンプ」とは、”自らマッチで火をつけ(火事を起こし)、自らがポンプで消火をすること”…、のようにネット上では説明がありますね。

すなわち、”自ら騒動を起こしたり、些細なことを大騒ぎをし、その結果として何らかの利益を得ること”といったネガティブな意味があるのです。

私たちのマインドは、このマッチポンプ作戦オンパレードだと言っても過言ではないくらいなのです。

生きていれば、次から次へとさまざまな問題がやってきます。それはある程度仕方のないことだと誰もが思っているのです。

けれども、実は大なり小なりそうした問題は自分のマインドが引き付けているとも言えるのです。

私なりの表現をすれば、「エネルギーは友を呼ぶ」となり、自分の身に起こることはその時の自分のマインドのエネルギーに見合ったものだということ。

実際起きたことを詳細に調べてみれば、こうした原理に誰もが気づくはずだし、誰にも教わらずとも薄々は気づいていたりするのです。

ただし都合が悪いために、周りで起きたことは全部自分のせいではないとして生きている場合が多いので、分からずにいるのです。

そもそもマインドというのは問題が絶対的に必要不可欠なのです。だから自ら問題を引きつけるし、問題を起こしもするのです。

そうしておいて、それをなんらかの方法によって対処し、解決することこそがマインドの生きる唯一の道なのですね。

このマッチポンプ状態から抜け出すためには、決して周囲のせいにしないということと、問題をただ見てあげるだけにして対処しないようにすること。

こうすることで問題ー対処のループが切れていくのですね。

頭なしになる

ひとたび見まもることを知ったら
あなたは頭なしになる
そのときにあなたは、頭をもたずに地上を歩くのだ
頭がそこにないときには
どれほどの静寂があなたの上に降り来ることか
あなたにはきっと想像できまい
あなたの肉体上の頭はそこに残る
が、内側に巻きこまれていることや執着はそこにない

by osho

自分は頭の中のちょうど目の後ろあたりにいて、体全体をコントロールしているみたいな感覚があるのですが、みなさんはどうですか?

七年前にダグラスハーディングの本を読んでいて、彼が発案した実験を素直にやっているとき、↑この頭なしになる感覚になったのです。

そのときに、頭の中に隠れているつもりの自分が、隠れる場所を失ってしまったために、この世界の中に転げ落ちるんじゃないかと感じたのです。

もちろんそう感じただけで、怖かったり本当にそうなるんじゃないかと思ったわけではありませんので、落ち着いていられたのですが。

そのとき以来、ちょいちょい思い出したときにその実験をやっては、その転げ落ちる感を楽しむことにしています。

ただし、転げ落ちる感がまだあるということは、常に頭の中にいるという頑固な思い込みがあり続けているということですね。

しかし冷静に考えてみれば、頭の中をかち割ってみたところで脳みそがあるだけで、そんなところに自分が隠れているわけではないと分かってはいるのです。

頭があるのは向こうの世界の中であって、完全なるこちら側では頭はないのです。その頭の部分にこそ、この世界全体が収まっているのですから。

培ったものを一度白紙に戻す

私たちは育っていく中で、家族や友人、先生そして社会などから様々なことを学習することで、大人になっていくのです。

そのときに、何が正しいことで何が正しくないことか、あるいは何が価値があって何が価値がないかといった感覚も身につけていくのです。

理屈で教わったことよりも、こうした感覚で身につけたことは、相当にがっしりとマインドの奥深くへ入ってしまうため、それを覆すのは骨の折れることです。

けれども、外側から入ってきたものをそのままに信じてしまうのではなく、一度は冷静に見つめ直して、気に入ったものだけを再度自分のものにすればいいのです。

さもなければ、誰かの受け売りのままに人生を終えてしまうことになってしまいます。それでは自分の人生を生きたことにはならないのです。

たとえば、何もせずにブラブラしていたら時間がもったいないし、何かの役に立つこともできずにいることになり、それは価値のない生き方だという感覚。

こうした感覚は誰にでもあるのですが、これだってなぜそうなのかを洗い直す必要があるのです。

時間がもったいないという考えは、瞑想状態に入って思考が止まる体験の中で時間というものがそもそも思考の作り物だと気づいてしまえば、あっという間に消えてしまうでしょう。

そして何もせずにいることに罪悪感を覚えることも減っていくはずです。自分のマインドが持っているこうした傾向に気づいて、一度それをバラしてみることです。

きっと気持ちいいと思いますよ。そして必ずや自分を責めることも激減してしまうはずですね。