生の残酷さを見る

憲法には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されています。

つまり私たちの生活は、大自然の中でシンプルに生きる野生動物のようなものから最も離れているように感じますね。

自然というのは厳しいものです。弱いものは強いものの餌食にされるし、寒さや飢えをしのげなければ、息絶えるしかありません。

足の骨を一本骨折しただけでも死を覚悟しなければなりません。人間のように病院に行けば、治してもらえるなどということもありません。

そういう意味からすると、私たち人間は特別に恵まれていると考えることができます。けれども少し深く見てみると、大切なことには野生性がそのまま残っているのです。

他の誰かに依存したまま、自分の人生を満たされたものにすることはできません。どんな泣き言もここには通用しない厳しさがあります。

逆に考えれば、誰かの人生を救いたいと強く願ったところで、自分以外の誰の人生も救うことなどできません。この事実も過酷ですね。

あるいは誰もがいつかは死ぬ運命にあり、そのことを知っていながらどれほど拒否しようともそこから逃れる術はないのです。

そういった野生性の部分から目を逸らさずに生きることができれば、ある種の覚悟が据わるのです。

そして健康で文化的な生活のベースにある生の残酷さが、愛の残酷さにも通ずるものがあると分かりますね。

悪夢でも醒めれば消える

人生に目的があるとしたら、何かになることではないと感じます。できないことができるようになったり、自我が成長するといったことではないのです。

それは成し遂げる系ではなく、単に気づくということです。あなたが理想とする誰かになることではないということ。

あなたは元々、あなたが究極に目指しているところの何かであったということに気付くだけでいいということです。

だから私たちは最初の最初から完全に救われているのです。残念ながら自我を救うことはできません。

実在しないものを救うことは不可能だからです。あなたの本質が、思考で作られた自我などではないと気付くこと。

あらゆる一切合切が幻のように感じられたことが、誰でも一度くらいはあるのではないかと思います。

量子力学における量子の絡み合いなどは、時間と空間が幻想であるということを示唆しているように感じます。

夢から醒めたら、自我として生きていた人生が悪夢であったとしても何の問題もないはずです。これが信頼に繋がるのですね。

信頼がすべてを救う

自分が年齢を重ねて来て、何が一番変化したのかなと思っていろいろ見つめてみたのですが、一言で言えば信頼が増えたということです。

何かが上達したとか、知識が増えたなどというのは自分の中でまったくもって変化とは呼べない感じがするのです。

寛容になったかというとそんなこともないし、穏やかになってもいないし、人格者になったわけでも決してないのです。

そういう諸々のことは本当にどうでも良くて、というのもそうしたものが自分を助けてくれるようになったかというとそんなことがないからです。

子供の頃というのは、一大事というのがありました。10代のころも相変わらず一大事はたまに起きていました。

そのころは今ほどの信頼がなかったせいで、起きる事象のインパクトがとても大きく感じたのでしょうね。

会社員のころも今ほどの信頼はありませんでしたので、大病した時も深刻さがあったし、何より人生を疑い続けていたと思うのです。

それがこの仕事をするようになった頃から、少しずつですが信頼が増えていったように感じています。

信頼は一大事を一大事とは感じずに済むようにしてくれます。信頼というのはターゲットがないのです。敢えて言えば、生を信頼するということ。

あなたがすごく惨めだったり、ひどく心がすさんでいるなら、解決策はありません。ただ信頼をマスターすることです。

自我を見守る

自我を強めるには何か目標を持つことが一番理に叶っています。目標に向かってチャレンジしていれば、自我はその食欲を満たせるからです。

自我にとって最も辛いのは、その空腹を満たす食べ物をもらえないときです。それを私たちは退屈とか手持ち無沙汰なんていうわけです。

目的や目標がなければ、自我は徐々に衰退してしまうのです。それは覚醒への道を考えると都合がいいのですが、正直しんどいのです。

それで私は自分の自我にちょっとした目標という餌を与えています。それが少しばかり難しい身体的な技の習得です。

すぐには実現できないようなレベルのもので、もしかしたら数年かかるかもしれないし、達成できずに終わってしまう可能性もあります。

そのくらいがちょうど良くて、日々本当に少しずつまるでカメの歩みのように1mm ずつの前進なのです。

ところが私の自我は、ある日唐突に目標に向かって進むことを放棄することがあるのです。その理由は不明ですが、急に興味がなくなってしまうのです。

そのときには軽く人生に絶望してしまうのですが、自我のくせに自我の餌を自ら放棄してるみたいで、どうも厄介なやつなのです。

最近はそれが起きたら困るなと思いつつ、毎日の地道な進歩を確認しつつ目標を失わないように注意している自我を見守っている状態です。

皆さんもご自分の自我の特徴をしっかり掴んで、それを利用するなりして見守ってあげれるといいですね。

正しさは防衛のツール

子供に正しさを教える親というのは、どこか権威的ですね。ルールは教えられるべきものですし、社会の中で生きていく上ではルールというのはある程度必要なものです。

それに対して、正しさというのは安易に人に教えられるものではないのです。なぜなら、正しさは画一的なものではないからです。

ルールというのは人工的なものなので、それを分かち合うのは容易ですが、正しさというのは人の数だけあります。

国によっても違うし、性別や年齢によっても正しさは変化します。ところが正しさを絶対的なものだと勘違いしている人が沢山います。

そういう人の多くは正しさを防衛として利用するのです。その結果周りに正しくない人を必要とするようになるのです。

幼い子供を自分の正しさで叱りつける親もそうですし、子供帰りしてしまった老人を正しさで裁いて怒る人も同類です。

ほんの少しでも瞑想状態になれば、正しさは思考とともに消えていくことに気づけるはずです。

もしもあなたが正しさは大切なものだと思っているなら、防衛のツールとして使っていると思って間違いありません。

正しいかどうかよりも、好みかどうかを優先している人生の方が、圧倒的にシンプルなものになるはずですね。

自立と依存の混在

一般的に良く知られたことですが、マインドはその成長段階の初期には依存状態にありますね。

だから子供は自分で自分のことも上手くできないわけで、親や周りの大人たちから世話をされないと生きていけません。

そこから次第に成長するにつれ、自立が始まるのです。依存状態から全方位満遍なく徐々に自立していければ問題ないのですが、往々にしていびつになるのです。

どこか一部だけが自立していって、他の部分で依存ががっちり残ってしまったりといったことがあるわけです。

そうなると、大人になっても依存の部分が残ってしまい、そこで他人との癒着が起きるのです。

癒着が引き起こすことは多岐に渡りますが、要するに他人との境界の分からない人、人の中にズケズケと入っていってしまう人になったりします。

極端な例がわかりやすいので、ストーカーを挙げてみると、自分が相手のことを好きなので一方的にプレゼントを送っておいて、相手が喜ぶと思い込んでいるのです。

仮に断られたとしても一向に響かない。だって自分は好きなんだから、一緒に過ごしたら相手も幸せになれると信じているのです。

このように自立できないままにあるマインドの部分、依存が残っている部分は相手と癒着していて、別の人格がそこにあることを認めることができないのです。

この依存が親のマインドの中にある場合、子供はペットのように扱われることになるかもしれません。

もしもあなたのマインドに強い依存部分が残っているとしても、それは決してあなたのせいなんかではありません。

親のマインドから引き継がれたものです。人との関わりに生きにくさを感じているなら、この依存を疑ってみた方がいいかもしれません。

しっかりと癒しを進めていくことで、そこをゆっくりと自立へと向かわすことができるようになれば、人生はもっとシンプルなものへと変化するはずです。

受容が物語を終わらせる

私たちは苦難に打ち勝って乗り越えるということを良しとしています。誰も負け犬などと呼ばれたくはないのです。

それが自我の典型的な生き方ですね。それに対して、打ち勝つことなく乗り越える、乗り越えずに乗り越える?方法があるのです。

それこそが受容するということです。どれほどの苦難であろうとも、それを受け入れることができたら、乗り越えずして終えられるのです。

受容こそが最強だということを覚えておくことです。ところが残念なことに、自我にとって最も苦手なこと、それが受容なのです。

受け入れて仕舞えば、戦うこともできなくなるし、苦難を強いられるあらゆる物語の住処もなくなってしまいます。

受容は物語を終わらせる魔法のようなものです。あらゆる戦の歴史が連綿と続けられてきたのは、人々が受容しなかったからです。

自分の生に起きるありとあらゆる事象を受け入れるなら、生が全く違ったものに変貌してしまうことは明らかです。

とはいうものの、それって自分の人生から「ノー」が消えてしまうことなので、それをイメージすると途方に暮れてしまいますね。

改善よりも受容

私たちは、あらゆる点でより良くなりたいと願っていますね。より多くの収入、より良い暮らし、より良い人格、よりよい人間関係等々。

つまりはすべてを改善したいという欲望を持っているわけです。けれども改善しても改善しても真に大切なことは改善できません。

なぜなら改善したいという欲望そのものが自我を強化してしまうからです。自我が強くなれば、自己防衛も強くなって真実から離れていくのです。

大切なことは改善しようとすることではなく、その代わりに受容することです。受容することによってのみ、真の改善がやってきてくれるのです。

まず初めに、受容できないでいることを受容するのです。そして改善病にかかっていることも受容するのです。

そうやって次第しだいに受容することが当たり前のこととなって、同時に自我の力を使うことが減ってくるのです。

全く取引のない真の受容は自我のものではないからです。自我自体も、深く受容されると溶けていってしまいます。

その感覚をきっと誰もが経験的に知っているはずですよ。

うっすらとした閉塞感

先日ちょっと小さめの衝立を作ってみたというのをお知らせしましたが、それに飽き足らず今回ちょっと大きめの衝立を作りました。

どうでしょうか?前回のものと比べて相当に大きいです。厚さ3mmのアクリル板を使ったのですが、思いのほか高価でした。

高さが110cmあるので腰掛けると丁度いい高さですが、やや強度に欠けるので両サイドを金属の枠で補強してみました。

ちなみにクライアントさんとセラピストの定位置どうしで距離を測ってみたところ、ちょうど2メートルだったので一応衝立なしでも安全かなと。

ここ最近の私の個人的な感覚の変化なのですが、街を歩いていて行き交う人々がマスクをしているのを見て、ああマスクしなくちゃと教えられていたのが数週間前のこと。

ここ二週間くらいは、ふと気づくと街中の人々がみなマスクをしていて、何だか不思議な光景を見ている感じがしたのです。SF 映画?

そしてつい最近は、マスクをしていない人を見て若干違和感を感じ出した自分自身に猛烈に違和感を感じたのです。

それにしてもどの道をクルマで走っても、ゴリゴリに空いていて何と走りやすいんだろうか。人も少なくて気持ちがいい。

だったら、道がいつも空いていて人口が少ない場所に移住すれば良いだけかもしれないと思ったりして。

相変わらず私の自我はこれまでと違う何か変な感じがしています。行き場がないというのか、閉塞感のようなものがいつも付いて回る感じです。

沢山の人のエネルギーを感じ取っているのか、それともまったくもって個人的な自我の具合なのか…。

二元性の特徴

今日事務所から帰宅してすぐに気づいたのですが、ケータイを置いてきてしまったのです。クルマの中でもないし、途中落としたわけでもない。

間違いなく事務所に置いてきてしまった。でもすぐに取りに戻るには疲れていたので、シャワーを浴びて夕食を終えてから取りに戻りました。

その間、何となく心もとないというのか不安な感じがしてるのです。普段使っているモノが便利であればあるほど、それが手元にないときには非常に落ち着かなくなるのですね。

スマホなんてなかった時代には無くても何でもなかったのに、いざそれに慣れてしまうと紛失した時のダメージが半端ない。

これが二元性の世界の特徴なのです。誰も好きな人がいなかったときにはそれなりに生活していたのです。

ところが一度大好きな人との楽しい生活を知ってしまうと、その人が離れていった後の苦しみや寂しさは一際大きいものです。

快楽を貪ればむさぼるほど、苦痛がやってきます。こうした二元性の特徴を深く理解することです。

そして二元性を飽きるほど満喫した後は、非二元の世界への憧れがやってくるのです。快不快、正不正、幸不幸、善悪のない中道を生きること。

二元性が大好きな自我にとっては退屈で堪らない非二元の世界、そこにこそ永遠の至福があるのですね。