自分の役に立つ生き方

世の中には人の役に立ちたいと願っている人がたくさんいるのですね。もしかすると、子供の頃からそう思っていたのかもしれません。

もしもあなたが人の役に立ちたいという気持ちがあるなら、まずは自分本位に生きるということを実践している必要があるのです。

自分が少しでも犠牲的精神で生きている部分があるなら、その人は他人の役に立つはずがないからです。

人の役に立つ以前に、充分に自分の役に立つ生き方ができていなければなりません。その先にこそ、余剰したエネルギーを他人のために使うことができるのですから。

自分本位になれずにいて人の役に立とうとすれば、場合によっては押し付けがましく感じられてしまうかもしれません。

そこには余裕がないからです。なぜなら、役に立つことで何らかのリターンを期待しているからです。

押し付けがましい人の言動は、正しいこともあるかもしれませんが、決して優しくないのです。

もう一度言いますが、自分本位になれない人ほど役に立ちたい症候群にかかってしまう可能性が高いのです。

精一杯自分の役に立つ生き方ができているかどうかを、一度じっくり見直してみるといいのかもしれませんね。

快楽主義と瞑想

瞑想と聞くと、何だかストイックな人がはまりそうな感じがしないでもないですが、実際はどうなんでしょう?

私は個人的には、意外と快楽主義の人の方が適しているのではないかと考えていたりします。

もちろん自分の場合がそうなのですが、瞑想をしていると何やらいい気持ちになることができるのです。

その心地よさを味わいたくて瞑想をするということがあるのです。だから、快感を得ることに積極的な快楽主義のひと向きなのではないかと。

よく言われるのが、瞑想状態に入っていくと、セロトニンとかβ−エンドルフィンといった脳内物質が分泌されるのです。

セロトニンは幸福感を作り出し、β−エンドルフィンは脳内麻薬、快感を感じる物質だそうですね。

私の場合は、瞑想しているとある時点で突然そういった脳内物質がドバッと分泌されるのが分かります。

温泉に入ってひとりのんびりしている感じだったり、そういったくつろいた感覚の後に言葉では表現できない感覚になったりします。

ただ瞑想が深くなっていって、身体の感覚や気分が変化しても変わらない部分があることも分かっています。

その変わらない部分こそが自分の本質に近いのかもしれません。いずれにしても、瞑想をもっと身近なものとして気軽に実践してみるのもいいですね。

自我はトンチンカン

人間とは欲深いもので、願いが叶わなければ否定的な気持ちになるし、願いが叶ったところで嬉しいのは一瞬であり、泡のようにその気持ちは消えていってしまうのです。

そしてすぐにでも次の願いが叶うようにと目先を変えて頑張りだすのです。そして心のどこかで、次はそんなことはないはずと思いたいのです。

これが実現した暁には、もうそれ以上を求めるようなことはないだろうと思っているのですが、残念ながらそれも束の間、すぐにまた飽くなき挑戦を始めるのです。

結果として自我が満たされるということはないのです。この繰り返しのうちに、人生という時間が尽き果てていくわけです。

私たちが求めているものとは、永久不変の満足感なのです。それをこの現象界で追い求めていること自体がトンチンカンなことだと気づくことですね。

要するに不可能に挑戦し続けている愚かな行為だと分かればいいのです。ではどうすればいいかと言えば、私たちの本質に気づくことしかないのです。

自我として、悲喜こもごもの人生をまだまだやりたい人はそれもよし、けれどももうそろそろ飽きてきたという人は、自分とはなんなのか、どこにいるのかを検証することです。

そして自分の本性がこの世界のどこにもいない、あるいは全てだということに気づくなら、全く違った人生の風情がやってくることになるでしょうね。

当事者意識はホントに減るの?

今日は昨日の内容の続きのような感じなので、昨日の記事を読んでいない方はまずそちらを読んでからまた来てください。

当事者意識を薄めるためには、一に見る、二に見る、三四がなくて五が見る、というくらいにとにかく見ることを練習する必要があるのです。

この「見る」というのは、外側の世界で何が起きているのかを見るということではなく、その反対に内側を見るということです。

とは言っても、自分の内面を見るとか、内省するということとは全く違うので注意してください。

内側という言い方は、意味を取り違えてしまう悪い表現ですね。内側ではなく、外側に向いていた視線を180度ひっくり返すということです。

向こうではなくこっちを見るということです。すると突然、こちら側には何もなく、ここには捕まえられるどんな自分も発見できないと気づくはずです。

感覚としては、透明で、大きさや形もなく、要するに何もなさをただ見つけることができるのみなのです。

こうした感覚には個人としての当事者感覚などは全くありません。この感覚が新しく追加されるわけです。

その結果、当事者意識が減るような感じがするのでしょうね。それ自体が減るということではないようです。

体のどこかが痛かったり、何かショックな出来事があったりすると、すぐに当事者としての自分が活躍を始めるので、透明な自分は消えてしまいます。

それが当たり前だと割り切って、また新たな気持ちで何もなさを見る練習を再開すればいいのです。とにかくめげないこと。

一つ付け加えると、こちら側に見えているその何もなさの中に、今あなたが見ている外側だと思っていた世界全体がすっぽり収まっていることにも気づくかもしれません。

楽しそうでしょう?是非試してみてください!

全てを楽しむ方法

今日のお話しは、もちろんわたし自身もそのレベルには達していないのですが、楽しみ方を極められたらいいよね、ということです。

通常私たちは、楽しいことが起きたらそれを楽しむことはできるのですが、そうでない場合には楽しむことはできないのです。

当たり前過ぎて、この先読み進めていく気がしなくなってしまうかもしれませんね。でも本当に大切なことなのです。

どんなことでも楽しむ方法を見つけてしまったら、きっと人生は様変わりしてしまうでしょうね。

だって何があっても楽しんでいることができるのですから、自分が楽しくないと思っていることすら楽しめるわけですから。

ドラマの中の登場人物って、なかなか大変なことが起きていたりして、毎日面白おかしく楽しんでばかりということはないはずです。

それなのに、私たちはそうしたドラマを見ることを楽しんでいるのです。これはどうしたことでしょうか?ここに何かヒントがあるように思います。

ドラマの中の人に何が起きても楽しめるのは、ひとえに当事者ではないからです。私たちは当事者として渦中にあれば、それに飲み込まれてしまうのです。

だから辛いことがあれば楽しめないのです。つまりは、あなたがあなたの人生の当事者意識を減らしていけたなら、ただそれを見る側に回れるなら、きっとどんな人生であれそれを楽しむことができるはずなのです。

観照者であれというのは、そうしたことでもあるのですね。さあ今日から、当事者意識を減らす練習をすることにしませんか?

そしてその練習をしている自分のことも楽しんじゃえばいいのですね。

家庭内パワハラを暴く

子供の頃、イジメという言葉は確かあったと思うのですが、パワハラとかセクハラという言葉はなかったと記憶しています。

もしも親が子供に対して、親が稼いだお金で食べていけるのだから、ありがたく思えだとか、親の言うことを聞け、などというなら立派なパワハラですね。

あるいは、親の方が子供のお前よりも世間というものを知っているのだから、親の言いつけを守れ、というのもパワハラです。

さらに、親の家に住まわしてやっているのだから、家を出るまでは親の指示に従って口答えするな、これもパワハラです。

親が我が家のルールだ、親はいつも絶対的に正しいのだから、素直になって良い子でいなさいというのもやっぱりパワハラですね。

パワハラというのは、その内容が正しいかどうかは別として、何らかの危険な感じがして恐怖から従わざるを得なくさせることです。

力技のコントローラーということです。コントローラーには、そのほかに子供の罪悪感を利用する方法などもありますが、いずれにしてもそこに愛はありません。

もしもこうした家庭内でのパワハラを受けた心当たりがあるなら、そこから逃げずにしっかり見つめ直すことです。

そしてその時の被害者としての自分の苦しい感情などを味わってあげることで、人生が生きやすくなるのです。

そのままにしておくと、ほぼ間違いなく実際に職場などでパワハラに遭遇してしまうことになるでしょうね。

自己表現の目的はそれ自身

私たち人間は独りでは生きていけない生き物ですね。だから、他の誰かとコミュニケーションを取る必要があるのです。

そのやり取りにおいて、自分の言いたいことを言うという当たり前のことを自己表現と呼びます。

この当たり前のことができなくなってしまうと、人は心を病んでいくことになるのです。なぜなら、言いたいというエネルギーが溜め込まれていくからです。

トイレに行きたくなったら、トイレで用を足すのと同じで、言いたいことは表現させてあげなければ、糞詰まり状態と同じになるのです。

ところが、さまざまな理由によって自然な自己表現を押さえ込んで生きてきた人は沢山いるのです。

その人たちの多くは、自己表現したところで聞いてはもらえない、分かってももらえない、場合によっては反発されてしまうなどと思っているのです。

どうせ分かって貰えないのなら、黙っていようと思ってしまうのも頷けるのですが、それでも頑張って自己表現はして欲しいのです。

自己表現の目的は、相手に分かってもらうことが大半かもしれませんが、実は自己表現をしたという証が自分自身に対して必要なことも事実なのです。

言いたいことが言えたということだけでも、糞詰まりは解消されるからです。相手に伝わるかどうかは、あなたの責任外のことだと気づくこと。

あなたは自己表現をすることだけが、あなたの自分自身に対する責任だと理解することですね。

その責任を果たしてあげていれば、心が病むということはないからです。分かってもらえなくても、そのことには拘らずにいればいいだけなのですね。

少しの時間坐ってみよう

一日に一回くらいでいいので、できればなるべく静かな空間にいて、少しの時間ゆったりと坐ってみるのです。

そうして、毎日人生物語を生き続けている自分を一旦降ろしてみるのです。自分とはこうだと思っている自分の姿を脇へ置いてください。

過去も未来もなく、そのちょうど真ん中の今この瞬間にだけいるようにするのです。そうすると、自分は誰でもないということに気づくはず。

誰かでいたいという不安がやってくるかもしれませんが、それも脇へ置いてしばらくの間、その誰でもなさを満喫するのです。

そこには幸不幸もないし、快不快も苦楽も何もないのですが、それなのになぜか満たされているということに気づくかもしれません。

それこそが、自我が活動を緩めている状態なのですね。自我(マインド)が鎮まれば、あなたは自分は透明だと感じるかもしれません。

場合によっては、身体から解放されて広がりを感じることもあるでしょうね。それが全体性だと思えばいいのです。

こうした練習を少しずつ繰り返していくことで、見守るという態度、意識的であるということにも馴染んでいくことができるのですね。

傷つくことは悪くない

私たちは誰でも、できることならなるべく傷つきたくないと思っているのです。傷つくことは辛いことだし、悪いことだとも思っているのです。

だから傷つきやすいということも悪いことだと感じるのですね。できることなら少々のことでは傷つかない強い自分になりたいと願っているのです。

けれども、もしも傷つきたくないとして頑丈な鎧を身につけてしまったら、動きが鈍くなるし軽快な気持ちで生きていくことができなくなってしまいます。

分厚い鎧は安全ですが、不自由で生きづらいという面もあるのです。もちろん鎧というのは心の鎧のことで、それが心理的防衛ということです。

危険を察知すると貝は閉じて殻の中に身を隠しますが、人が心を閉ざしてしまえば何も感じないロボットのようになってしまうのです。

生身の人間でいるためには、鎧を脱ぎ捨てて傷ついてもいいやという気持ちで生きることです。

長らく心を閉ざしてきたクライアントさんが、ゆっくりとそれを開いて見せてくれる姿に触れると、とても感動させられます。

なぜなのかなと思うのですが、きっと私たちは無防備で自然な姿を愛しいと感じる習性があるのですね。

私はセラピストの仕事をするようになって、人は傷つきやすい状態で生きる方が遥かに素晴らしいという確信を得ました。

傷つくことを恐れなくなったら、人は自分の本性が愛だったのだと気づくことになると思います。

変化を受け容れる

この現象界では、あらゆるものが常に変化し続けています。このことは、どうしようもない事実ですね。

それなのに私たちは、明日になっても今日と同じものを期待してしまうのです。明日もこの幸せが続いてくれることを願っているのです。

誰かを好きであることは、嫌いであることよりも心地いいものですが、それがいつ変化してしまうのかは誰も知りません。

ずっと好きでいられたらいいのにと、あるいはずっと好きでいてくれたらいいのにと願うのです。

どんな人間関係であれ、必ずや変化していくものなのに、永遠の友情を信じてしまったりするのです。

その結果、やれ裏切られたとか、約束が違うなどと言って相手を否定したり怒りをぶつけてしまったりするわけです。

全てが変化していくことを受容することでしか、あなたのマインドを大人しくしておくことはできないのです。

諸行無常を深く理解することができれば、あなたの不満は消えていってくれるはずなのです。