正しさよりも意識的であれ

結局のところ、究極的には自己想起、自己留意を忘れずにいられるようにすることしかないのです。つまりは、自分を覚えておく、意識的であり続けるということ。

それ以外の方法、これはもっとこうした方がいいとか、もっとこうあるべきだと言ったことは、全部本質的なことではないのです。

たとえば、嫉妬深くて困っている人に、嫉妬してしまう理由をよく見るようにして、その原動力となっている感情を感じてあげましょうという場合があります。

あらゆる感情を抑圧する癖がついていて、それでは生きてる限りロボットのような人生になってしまうので、やってきた感情はできるだけ味わって下さいということもあります。

そんなふうにして、これまではこうだったけど、これからはこのようにしていく努力をしましょうという教えがありますね。

けれども、どれをとっても自我の癒しの方法なのです。それはそれで意味があるのですが、そのように一つひとつの言動を修正するよりも、決定打があるのです。

それは、何をしてもいいし、何をしなくてもいい。どんな戒律も、どんなルールも必要ないのです。

泥棒をしたければ、十分な自己留意のもとでやるということ。無意識の中でどれほど行動修正したところで、所詮は目覚めることはできません。

行動修正、自己改善を諦めて、その代わりに意識的であることを常に練習すること。遠回りのように見えて、実はこれが最も優れた方法なのです。