私の興味が向かう先は…

会社員を辞めて今の仕事をするようになってから、休日としての日曜日というのがなくなってしまいました。

逆に言えば、毎日が日曜日みたいなものなので、とり立てて休日を作る必要がなくなってしまったということもあります。

だから日曜日も平日と全く同じ生活を続けているのですが、それなのに日曜日はやっぱり平日とは違う雰囲気があるのです。

なんだかいつもより幾分穏やかな気持ちになりがちだったり、少し時が遅く動いているような感覚もあったりします。

きっとお休みを堪能している人々がたくさんいるので、世の中全体が休日のエネルギーに包まれてしまうからなのかなといつも思っているのです。

それくらい私たちの空間を満たしているエネルギーというのは、人々の精神状態の影響を強く受けるものなのでしょうね。

だから誰もが、戦わず争わず、もっともっと気楽に生きることができたら、より過ごしやすい世の中になるのだろうと思っています。

そんなことから、どうしたら人がより気楽に、気持ちよく、悠々と生きて行くことができるようになるのかと、私の興味はいつもそこに向かうのです。

そしてそんなことを考えている時が好きな時間だし、何か思いついたことがあればセッションやブログでもお伝えするようにしています。

これはと思ったことがあれば、しみじみとそれを味わってみたり、なるべく実践してみてその効果を確かめるようにしています。

みなさんもご自身で、ゆったりとした穏やかな気持ちでいられるように、できるだけの工夫ができるといいですね。

遺伝子こそ主役

あらゆる生物のそれぞれの個体に与えられた役割というのは、ひとえに種の保存であるわけです。

それぞれに特有の遺伝子を受け継いで生まれてきて、その遺伝子を次の個体へと伝搬するのが役割なのです。

ということは、過去から未来へと伝搬される遺伝子こそが、主役なのかも知れないと。主役だと思われていた個体は、実は遺伝子の乗り物だとも言えるのです。

このことは我々人間についても言えることです。人間だけが特別ということはないわけですから。

そうなってくると、この私という存在をどう捉えたらいいのか、ちょっと分からなくなってきますね。

この人生という長いドラマの主役だと思い込んでいた私は、単なる遺伝子の乗り物としての役割を担っているということです。

場合によっては、生物と呼ぶことを憚られるウイルスの乗り物ということも言えるのです。そうなると、ウイルスに感染することは間違ったことではないことにもなります。

何だか、「私」の立場が危うくなってきてしまいましたが、これが本当のことなのです。事実はといえば、人間の一人ひとりは確かに遺伝子の乗り物です。

そして、「私」はどこにも存在しないもの。これが事実です。残念ですが、これが本当のことです。

けれども、そういう見方がしっかりできると、とても気持ちが楽になって悠々と生きていける感じがしませんか?

2歳児に自我はある?

YouTube のチャンネルで、2歳の男の子の家族との日常をただただ撮影し続けているものがあるのですが、その子が1歳の頃からずっと見ています。

優しいジイジとバアバに囲まれて、さらにはもっと優しいパパが時々出てきて、撮影するママがやっぱり1番の理解者なのです。

普段は、ジイジとその男の子の食事シーンなのですが、2歳とは思えないくらいのボキャブラリーを駆使してしゃべりまくるのです。

ご家族の対応が本当に素晴らしくて、彼のどんな言動に対しても決して否定をしないで温かく見守っている風景が、なんとも心地いいのです。

彼が将来どんな大人へと成長していくのか、是非見てみたいと思っているのは、きっと私だけではないはず。

一丁前に会話ができる2歳の男の子を見ていると、さも自我がもうすでに出来上がっているのではないかと感じてしまうのです。

けれども、よ〜く観察してみると分かるのですが、まだ彼の中にははっきりとした自我は造られていない感じがするのです。

無邪気さと無防備さの塊のようにしている彼の姿を見ていて、ああこのままの全体性を忘れずにいてくれたらいいのになと思ってしまいます。

きっと近いうちに、自我の芽生えがやってくるのでしょうけれど、その時を見逃さずに見続けていたいなと思っています。

映画の内容に「癒し」を見る

先日観た映画の内容が、見方によっては心の癒しと関連するなと思ったので、そのことについて書いてみたいと思います。

その映画の内容は、アメリカの高校生の女の子が主役なのですが、ある1日を何度も繰り返すようになってしまい、決して明日がやって来なくなってしまったというストーリーです。

初めのうちは、なんとかしてこの悪夢のような現実から抜け出そうとして、自分の行動を様々に変えてみるのですが、結局決まった時間がやってくると、気がつくとまたいつもの朝になっているのです。

そのうち、どうせいつもの1日がやってくるだけなのであれば、もう自由に自分の好き放題に生きてやろうと思い立つのです。

そして、先生にもはっきりとした態度をとってみたり、親友たち三人に対しても今までずっと気づかずに我慢していたことをぶちまけてみたりするのです。

そして孤立するようになるのですが、それでも自由に生きることができるようになったおかげで、自分の本当の気持ちに気づけるようになっていくのです。

これまで友人たちの言葉に影響を受けて、誰かを差別してみたり、ある女の子をいじめてしまっていたりしたことの全てが間違いだったと気づくのです。

両親や妹への自然な愛情にも気づいて、ものすごく癒されていくのですね。結局、毎日何が起きるかが分かっているので、防衛が小さくなっていったのです。

そのためにより自然体で生きることができるようになって、無防備になり愛が発動するようになったというわけです。

私たちの日常は、毎日何が降り掛かってくるのかを心配して、いつも安心したくてあらゆる手段を講じて防衛しているのですね。

だから、不自然な生き方になってしまい、心に歪みが生じてきてしまうのです。この映画は、同じ毎日を繰り返すという設定によって、防衛が緩むことで本来の自分を取り戻すことができたことを表現したかったのでしょうね。

自分がその立場になったとしたら、どうなっていくのかなと考えると、なかなか興味深かったですね。とても参考になる映画でした。

思い出に耽っていると…

長く生きていると、色々な思い出がたくさん溜まって来てしまっているので、それらを懐かしく思い返しているだけで時間が過ぎていきます。

こうしたことは、私たち人間にだけ与えられた特権であり、楽しみでもありますね。セッションをしていると、クライアントさんからも似たようなことをお聴きすることがあります。

ひとりあれこれと思い出すことが楽しみなんだと。ただし、記憶を遡って過去のイメージの中に入って没頭してしまうと、間違いなく無意識になってしまいます。

そのとき、そこに意識を向けていることができなくなってしまうからですね。特に歳を重ねて、やるべきことがなくなっていけばいくほど、そうした傾向が強くなるのです。

無意識でいることが多くなればなるほど楽にはなれるのですが、それは動物への逆戻りをしてしまうようなものです。

せっかく人間として生まれたからには、意識を覚醒しておくことを忘れないことです。思い出に耽ったとしても、またすぐにそこに意識を向けるように訓練することです。

無意識と言っても意識が消えてしまうわけではないのです。意識が眠ってしまう状態になっているだけなので、いつでも覚醒状態に戻せるのです。

そのことを忘れずに、日々意識的であり続けられるように練習するのみですね。

意識は記憶を使わない

先日テレビで、7秒しか記憶がもたないという人の特集をやっているのを見ました。原因は分からないですが、まだ若い人なのにインタビューする人との会話中ずっとメモを取り続けているのです。

もうその生活を何十年も続けているそうで、メモがなければ会話が成立しなくなってしまうのでしょうね。7秒かどうかは定かではないですが、母親も似たような感じです。

記憶というのは思考にとっては必須のものであり、記憶が使えないと思考は空回りするだけでいずれはパニックになるか諦めることになってしまいます。

ところで意識というのは記憶とは無縁だということをご存知でしょうか?瞑想状態では記憶と共に思考が落ちて意識だけになるので、意識が記憶を使わないのは明らかですね。

人生という物語の中を生きて行くためには、思考も記憶も必須なのですが、それを観照し続ける側になるのであれば覚醒した意識があればいいのです。

その場合には、何らかの理由で短期記憶に障害が起きても、何ら支障はないということになりますね。自我として生きてる限り、それを想像するのは難しいですが。

とはいえ記憶障害があろうがなかろうが、日頃から思考よりも意識の方に重点を置いた生き方、つまりは意識的であることがとても大切な事だと再認識させられますね。

自我とは願望達成プロセス

プロセスというのは、過程とか経過、進行、方法、手順などの意味がありますが、それそのものには実体がありません。

それはそうですよね、例えば自動車を作るときの製造過程というのを考えてみれば明らかですが、一連の流れ全体を指すわけですから。

家を建てる時にも、土地を計測して土台を作って、その上に柱を組み立ててなどの手順があるわけで、それもプロセスと呼べます。

要するにプロセスという存在はないのですが、川の流れのように時間の流れに沿って活動するものの全体がプロセスと呼ばれるわけです。

自我というのはそういうものだと言っているのです。私たちが生まれ変わるのではなく、願望が生まれ変わるのです。

自分は惨めではないということを達成するためのプロセスが、人生を超えて継続するということですね。

だから個人というものはイメージの産物であり、それが願望、あるいは欲望を達成するためのプロセスとして必要なのだということ。

ということは、私たちが欲望や願望から遠ざかることができたなら、そのプロセスは終わることになるのです。

つまりは、もう二度と生まれ変わる必要がなくなるわけです。自分が存在しないということがどれだけショックであろうと、それが真実であり、あなたはプロセスだということですね。

「顔パンツ」って…

コロナ禍でマスク着用が長期化することで、素顔を見せるのに抵抗がある人々が増えているらしいですね。きっと10代とか若い人に多いのかも知れませんが。

「顔パンツ」という表現方法があるらしいのですが、彼らによるとノーマスクだと下着なしで外出しているような感覚になって、恥ずかしいのだとか。

分かるっちゃあ分かるのですが、まだ寒い冬などはいいですが、夏場などのマスクは不快ですから私は外したい側にいます。

マスクをして目だけが露出している状態って、なんとなく女性が綺麗に見える感じがするのですが、私だけでしょうか?

自我というのは、いつもこのブログでも書いているように「見たいものを見ている」ということです。

だから、マスクによって隠された部分は自分がいいようにイメージを作ってしまうということがあるのだと思います。

だから、マスクを外した時にオヤッと思うことがあるのでしょうね。どれほど身勝手なことをしているのか、よくわかります。

所詮は自我の為せる技です。人の目を気にすることのバカバカしさが、こんなところでも透けて見えてくるようですね。

ただ在ることを見る

私たちが日々暮らしているこの世界は、言ってみれば思考の世界なのです。思考はただ在るものを分断して二手に分けるのです。

これを二元性などと呼んだりします。言葉はどうでもいいのですが、具体的には次のようなことだと思えばいいのです。

例えば、信じるものは救われる、という言葉がありますが、信じない人よりも信じる人の方が心が素直だと言うわけです。

けれども、信じたり信じなかったりはどちらも同じであり、どちらでもないただ在る心の状態こそが真実なのです。

価値があるものの方が価値のないものよりも、好ましいと感じるのが私たちの感性だし感覚なのです。

けれども、価値の有無のない、ただ在る状態こそが真実なのです。心が混乱しているよりも、理路整然としていた方が好ましい。

でも真実は、そのどちらでもないのです。ただ在るというのはそういうことを言うのですね。

このただ在るという感覚をいつも忘れずに携えていられたら、マインド(思考)による分離、分断が外れて、非二元のフレーバーの中で生きることができるのです。

他人へのどんな責任もない

もうすでに10年以上が経ったと記憶しているのですが、かつてこの人はいわゆるボーダーだなと思われるクライアントさんのセッションを続けていたことがありました。

セッションにおいては、癒しの効果が出てきたかなと思われると、そのすぐ後にそれは間違いだったと気付かされるということが続いたのです。

それでも、その当時の私の気持ちは、何としてもこれは自分の愛を最大限使うことができれば、いずれは癒しが進むはずだと信じて続けていたのです。

けれども、結局は希望を持たされては裏切られ、というのを繰り返すばかりで自分のセッションなど通用しないということを思い知らされたのです。

この体験をさせてもらえたことで、セラピストとしての驕りの部分や、考えの甘さを真正面から見ることになったのです。

そういう意味では、ものすごく有難い経験をさせてもらったのです。クライアントさんの協力なしには、どんな癒しも不可能だということです。

そしてもう一つの大切な理解は、自分以外の誰の人生も幸せにすることなどできないということ。

それが分かって、肩の力がスーッと抜けたのですね。その代わり、私たちは自分の人生を満ち足りたものへと変えていく努力はする必要があるのですね。