みんな<全体>の一部

osho の次の言葉を繰り返し味わってみると、じわりじわりと見えてくるものがありますね。

“こうしたすべてを自分がやっていると思うのは自由だが、そうしたらあなたは無知の中で生きることになる。

もし、<全体>がすべてをなしていること、自分は<全体>に支配されそれによって息を吹き込まれていること。

生全体がそこから来ることに気づいたら、そのとき、あなたは悟りの生を生きる。”

このブログでも繰り返しお伝えしていることですが、私たち人間には自由意志はないという驚きの事実。

もう20年前くらいから、このことは脳神経科学の世界では常識となっているのですが、決して世間には広まらないですね。

その理由は、あまりにも馬鹿げて聞こえるし、私たち自我にとってはこれ以上都合の悪い情報はないからです。

けれども、落ち着いてよく見れば、私たちが全体から分離した一つの個として生きているという発想こそが、バカバカしいものだと気づくのです。

そう考えることは可能ですが、それはあくまでも思考の中でのこと。真実は、osho の言葉通り、全ては全体が起こしているのです。

ということは、あなたには間違えるということは不可能だし、どんな罪深さもありません。もちろんどんな手柄もないのですけどね。

全体の一部であることにこの上ない安堵を感じて、どんな境遇であれ楽しく生きることができるといいですね。

分からないを認める

私たちは、他人のことをよく分かっていると思い込んでいるふしがあるのです。きっとこうに違いないとか、間違いなくこうだというように。

けれどもそれは本当でしょうか?ただ分かっているということにしたいだけなのではないかと考えてみませんか?

私はよく、どうやってそれを証明するの?と思ってしまうのですが、そんな時に、証明なんかしなくても分かっているので…、と言われてしまいます。

自我というのは、分からないということが苦手なのかも知れないです。分からないでいることが怖いので、分かったことにしたいのです。

分かってしまえば何かと安心するのです。まずは、しっかりと分かっていることと分からないことを見極める必要があるのです。

例えば、他人の幸不幸など決して分かるはずがないのに、あの人はきっと幸せだろうとか、あの人は可哀想に不幸に違いないとやるのです。

類推するのは自由ですが、類推するということは分かっていないということを意味します。分かっていることは類推できないですから。

そう考えてみると、まずは前提として他人のことは決して分からないということからスタートする必要があります。

分からないからこそ、少しでも分かろうとして受け止めるという大切なマインドの働きに辿り着くのです。

更には、分からない他人のことと自分を比較することの無意味さに気づくことができます。分からないものをどう比較対象にできるのか?それは不可能ですから。

分からないことをそのままに分からないと受け止める練習をするのです。きっと分からないことだらけで生きてきたことにびっくりするはずですね。

目を閉じてみると…

非常に素直に注意深く生きた人々の言葉ですが、「私たちは在る物をあるがままに見ずに、考えたものを見る」というのがあります。

まさかと思うかも知れませんが、私たちがいかに思考の中で生きているかを理解できれば、確かにその通りだと分かるのです。

例えば、部屋で一人でいるときに静かな気持ちになろうとして少しの時間目を閉じてみるのです。

目を閉じた瞬間から、何も見えなくなって自分の身体がどんな体勢でいるのかを知る手立てはなくなるのですが、目を閉じる前の体勢を維持しているとイメージしています。

ソファに腰掛けている状態で、身体全体としてはこんな姿勢になっていて、頭は当然天井の方に向いていて、足の裏が床に着いている等々。

これは全てイメージの産物だということが分かるでしょうか?これは事実ではありません。そうなっていることを証明するどんな方法もないからです。

あなたが身体を持っているということも証明できなくなっているのです。この時さらに思考から解放されるために、記憶を使わないように心がけてみるのです。

そうすると、自分が何者かが一気に不明になります。なぜなら、自分とは◯◯だという情報の全てが記憶からやってくるものだからです。

ここで初めて見えないものは「ない」のであって、逆に言えばいつも思考と記憶が作り出す世界を見ていたことに気づけるのです。

さあもうすでに、ここまで思考と記憶が落ちた状態であれば、立派な瞑想状態になっていると言えると思います。

目を閉じていても、何やらやってくるあらゆる感覚がありますが、あなたとはそうした全てが起きる土壌であり、空間であるということ。

それは目を開いた後でも決して消えることがありません。そのことに気づいていられるように、注意深く生活できるといいですね。

惨めさから解放される唯一の方法

幼い頃に、自分は惨めだなあという体験をしたことがない人など、どこにもいないはずですね。

なぜなら、子供の頃というのは無力だし、経験もないし、一人では社会の中で生きていくこともままならないのですから。

もちろん大人になったとしても、惨め体験というのはいくらでもやってきます。このブログで何度もお伝えしていることですが、惨めの原理は次のようなものです。

初めに想定される期待値というものがあって、それに対して現実が起きるのですが、その両者の落差がそのまま惨めさになるのです。

自分は優しくしてもらえると期待していたのに、実際には冷たくされてしまったとしたら、その落差が惨めさを作り出すわけです。

そうなると、多くの人はもう二度と惨めな自分を経験したくないので、何とかして自分は惨めではないということを証明しようとし出すのです。

そうやって頑張ることで人生は過ぎ去っていくのです。けれども、これは本当にバカバカしい限りの生き方だと言わざるを得ません。

惨めになりたくなければ、方法はたった一つ。それは、これから起きることに対してできるだけ期待をしないようにすることです。

期待値がなければ、どんな結果が起きようとも惨めになることはできないからです。これが惨めさから完全に解放される唯一の方法だということを忘れないことですね。

自然の摂理

オミクロン株が世界的に広がりつつあるというニュースを観ました。日本でも、すでに数例が報告されているようです。

頑張って水際対策をしているのですが、完全な防御をするのは不可能なことのようですね。

ウイルスというのは、変異すればするほど感染力が増すということが知られていますが、同時に毒性は弱まるというのも定説らしいですね。

つまり変異を繰り返していくうちに、ようやく人類と同居するいいバランスを見つけるということです。

ウイルス自体は細胞を持っていないので、人類のような宿主が滅びてしまえば、それ自体も滅びることになるわけです。

だから、いつかは必ずインフルエンザのような状態に落ち着くのです。絶妙な変異の仕方を自らするということ。

ウイルスには意志などないのに、よくそんな芸当ができるなと思うかも知れませんが、それが自然の摂理なのですね。

私たちは、自我のことしか分からないので、自分達だけが意志を持って方向を決めると思いがちですが、本当は自然の摂理がやっていることなのです。

それを不思議と感じるのは自我の傲慢さかも知れません。本当のところ、自我に意志があるように見えますが、自由意志はないというのが脳神経科学では常識です。

繰り返しますが、意志の存在は見掛け倒しで、実際には自然の摂理が働いているだけだということですね。

なので、毎日もっと肩の力を抜いてゆったりと生きることにした方がいいですね。

瞑想は非常にシンプル

私たちは、時としてイライラしたり、心配したり、焦ったり、ソワソワしたりすることがありますね。

そしてそういう場合、何とかして落ち着こうと自分に言ったりするのです。落ち着きを取り戻した方が、全てにおいてことがうまくいくことを知っているからです。

この「落ち着く」というのは一体どういう状態なのでしょうか?落ちて着く、落ちて着地するということ。

それ以上もう落ちることがないところまで落ちるのですから、もうどんな心配も必要ないということです。

もうどこへも連れて行かれることがなくなるということ。ただそこに定置していられるということですね。

これは瞑想と全く同じことなのです。瞑想って何だか難しそうと感じている人がいるかも知れませんが、しっかり落ちて着地している状態。

つまりどこへも行かずに、ただあなたのいるところに在ること。他の場所なんかないのです。ただあなたのいるそこにいるということ。

今あなたがいるその空間を占めること。ただそれだけなのです。思考にまみれた自我にとっては、少し難しいことかも知れませんが。

けれども、複雑で難解なことではないということだけは、充分に理解しておいて損はないと思います。

洗脳をはずすのは並大抵じゃない

かつて地下鉄サリン事件などで大変な話題となった、オーム真理教という宗教団体がありましたね。

そこに入信してしまった家族などを奪回しようとして、大変なご苦労をされた方々が多数いらっしゃいました。

入信した張本人は、教団を信じきっているため何を言ったところで聞く耳を全く持たないのです。

それでも、しぶとく説得して何とか現実に目を向けられるようになって、ようやく脱退することができたという話を何度も聞いたわけです。

そのご苦労というのは、ひとえに洗脳の深さに起因するものなのですね。洗脳の方法はいろいろあるらしいことを聞いたことがあります。

例えば修行と称して一週間くらいの断食をさせて、フラフラになっているところに催眠術をかけて、依存状態を作って繰り返し教団の教えが正しいと刷り込むのです。

そういう一種の危機的な状態においては、マインドは素直に信じ込みやすくなるのですね。そうやって信心深い信者の一丁あがり。

洗脳は何も新興宗教の専売特許ではなく、一般家庭の中でも当たり前のように行われていることです。

親があらゆる手段を講じて、その子供を洗脳してしまうのです。洗脳の最も一般的なものは、「親は正しい」というものです。

この刷り込みが実は子供の人生のその後の数十年を乗っ取ることになるのです。その結果は、どれほど生きづらい人生がやってくるのか、想像にかたくありません。

もしも、心のどこかに「親は正しい」というものがあるという自覚があるなら、その信念としっかり向き合って、何としてもそこから解放されるように努力することです。

ご自身一人でできない時には、セラピーを受けられることをお勧めします。どんな洗脳も、あなたを不自然にさせてしまう恐ろしいものだと理解することですね。

真理と正しさの違い

学校の先生というのは、教え子たちに少しでも真っ当な人間になって貰いたくて、正しさを教えてしまうものですね。

勿論親も同じかも知れません。ただ正しさというのは、人間のマインドが生み出した概念なので、人の数だけ正しさの種類があるのです。

それを一方的に教えられたら、それは押し付けられたと感じるでしょうね。もしも自由に考える子供がいたら、その大人を卑下するはずです。

子供たちに対して、大人ができることがあるとすると、正しさは自分で考えて答えを出すべきものと教えるはずなのです。

それを理解させてあげるのが大人の役割でしょうね。さらに言えば、正しさに執着するのは危険です。

なぜなら、正しさをまとうことで防衛することになるからです。そうなると、自分の正しさと相容れない人を裁くようになるはずです。

それよりももっと大切なのは真理です。真理は教えることも伝えることもできません。

真理はマインドとは無関係に存在するので、一人ひとりがその内奥に入って行くことで見い出すものです。

先生からも親からも、他の誰からも教えてはもらえません。だからこそ唯一無二の価値あるものなのですね。

自我は横取り上手

異性であれ同性であれ、好きな人ができるって嬉しいことですよね。一緒にいるだけで楽しいし、今日も会えるなと思うだけでもワクワクするものです。

そのエネルギーは愛と呼んでもいいかも知れません。好き同士の関係が始まったばかりは、間違いなくそのシンプルさの中で居心地がいいのです。

ところが、しばらくすると相手が自分以外の誰かと仲良くしている姿を見ると、嫉妬心が湧いてきたりするのです。

もしも恋人同士だったなら、相手が別の人とデートしていると分かったら、もうそれは激怒するか、別れてしまうかも知れません。

なぜそういうネガティブな感情が湧いてくるのかというと、初めのうちは愛だったものが、知らず知らずのうちに執着へと変化してしまったからなのです。

愛のうちは、相手の自由を当たり前のように認めることができたのに、執着に変わったために、相手を不自由にしなければならなくなったのです。

このようにして、自我が愛を横取りして防衛へとすり替えてしまったのです。こうしたことは、他にも沢山あるのです。

初めのうちはただ喜んでやっていたボランティア活動も、しばらくするうちにこうした活動をしている自分はいい奴だ、役に立っているということで、防衛へと変化させるのです。

そうなると、面倒に思えてきてもそのボランティア活動を止めることができなくなり、結局自己犠牲の虜になっていくのです。

あるいは、幼い子供が大好きな両親のために、何かと助けようと必死になることがあるのですが、その愛がいつしか防衛へと変化してしまい、助ける活動が自分の居場所だと感じるようになるのです。

こうしたことは全て、自我が元々の純粋な愛のエネルギーを横取りして、恐怖のエネルギーへと変換して防衛へとすり替えてしまった結果なのです。

やっていること自体はあまり変化していないので、本人は横取りされたことに気付けないでいるので、何でこんなに辛いことになったのかが分からないのです。

自我の横取りに気をつけてください。横取りされないためには、日々自我の行動によく気づいていてあげることですね。

それには、いつものように意識的であることが重要です。

自我の誕生日はいつ?

年齢を重ねてくると、自分の誕生日というのが正直どうでもいいと思えるようになったのですが、これは私だけでしょうか。

もっと本音を言えば、若い頃から自分の誕生日にはこれといった思い入れがなかったのです。ただ美味しい食事ができるかもという程度。

誕生日というのは、肉体が母体から生まれ出た日のことですが、もう一つ誕生日があるのです。

それは自我の誕生日。実際のところ、自分というのは肉体ではないので、この「私」という自我こそが自分なのです。

だから、自我の誕生日の方が本来の自分の誕生日としては適切なのではないかと思うのですが。

ただ、あの日に自我が誕生したという決定的な日付が不明であるため、自我の誕生日を祝うことができないのでしょうね。

私の勝手な想像では、ゆっくりとしたグラデーションのように、次第次第に自我が機能し出すのではないかと思っています。

ただ、もしかしたら人によっては自分は自我が芽生えた瞬間を記憶しているという場合もあるかも知れません。

もしも赤ちゃんが産まれて、その子を毎日身近で見守っていられる環境があれば、自我が産声をあげるその瞬間を見てみたい気がしますね。