お為(ため)ごかし

「お為ごかし」という言葉をご存知でしょうか?実は私自身はうろ覚えのレベルだったのですが、割とよく頭に浮かんではきていたのです。

辞書で調べてみると、ああなるほど…。表面的には親切に見せかけながら、本心では自分の利益を優先する、そんな意味なのです。

これ、実は多くの人が無意識的にやっていることと言っても過言ではありません。たとえば、こんな口癖を言う親がいます。

「これはお前のことを思って言っているんだぞ!」こんな怪しい言葉を、皆さんもきっとどこかで聞いたことがあると思います。

たとえば、娘が大学生になっても厳しい門限を設定する親がいます。お前のことを心配するからこそ門限を与えるんだぞ!

これ、完全にお為ごかしです。なぜなら、この門限というのは親自身が安心したくて子供に課するものなのだからです。

親はそんなことは自覚がありません。とにかく子供の身の安全を願ってのことだから正しいのだと思い込んでいるのです。

ロシア側がウクライナ側との停戦協議で人道回廊を作ると約束しておいて、現実にはその道はロシアへ続く道だったなんて、あまりにも馬鹿げています。

この場合は、無意識ではなく明確な意図を持った提案だったわけで、お為ごかしも甚だしいというしかありません。

自分の言動も、お為ごかしになっていないかどうか、よくよくチェックしておくことが必要だと思いますね。

否定的な疑いを養わない

「疑い」には二種類あると思っています。一つ目は、子供が純粋に持つ問いかけるものであり、ここには否定が含まれません。

そしてもう一つは、最初から否定的なニュアンスを含んだ疑いです。違うんじゃないの?とか、嘘じゃないの?と言ったような疑問です。

前者の方はとても大切なものであり、それは自然なものでもあるのですが、後者の疑問に対してはその取り扱い次第で、結果に大きな違いが出てきます。

後者の疑いに対しては、飲み込まれてしまえばそれまでですが、それと戦わないこと、それから逃げようとしないこと。単にそれに対して無関心であればいいのです。

かつて私の内側が理由のない感謝で満たされたときに、耳元でさまざまな否定的な疑いの言葉が囁かれるのを聞きました。

偽善者だとか、感謝で満たされているふりなどするなとか、くだらない等々、とにかくそう言ったニュアンスの言葉がやってきていたのです。

その時にその言葉に対してずっと無関心を通したのを覚えています。もしも、その言葉に注目してしまったら、それに食糧を供することになってしまうのです。

逆に無関心であり続けることができれば、それへの協力は崩れることになるのです。そしていずれは静かになってしまうはずです。

自分がこれだと思ったものがやってきたなら、それに対してできる限りの信頼を寄せることであり、疑うマインドには無関心を貫いていればいいのですね。

過去に囚われるマインド

私たちのマインドというのは、自分に都合のいいように勝手に物事を解釈してしまう習性を持っていると言えます。

たとえば、イジメられた方はその事を決して忘れないのですが、イジメた側はすっかり忘れてしまっていたりするものです。

つまり加害者としての記憶は都合が悪いので忘れてしまい、被害者としての記憶は決して忘れないのです。

ロシアの歴史を垣間見るだけでも、周囲の国々から侵略された血生臭い、そして惨め極まりない無数の悲惨な出来事があるのです。

それは国民的なトラウマとなって残っていても不思議ではありません。特に、過去に囚われてしまうマインドを持っていれば尚更です。

旧ソ連が崩壊して、西側諸国に歩み寄った旧ソ連の人々は割と過去は過去として、前を向いて生きていくタイプだったのでしょう。

けれども、ロシアに残った人々は忌まわしい過去のトラウマがしっかり残っている傾向が強いのだと思います。

トラウマは大きな恐怖を生み出すのです。それは外部から見たら理不尽に思えるのですが、本人からしたら当然の戦闘態勢となってしまうのです。

ロシアに詳しいある人物が、プーチンはタイムトラベラーだと言っていました。要はトラウマを提げたまま過去に戻って、今度はやり返すぞという現在を自作するのです。

こうなってしまうと、普通の心理療法で癒しを進めようとしても、なかなか歯が立たないように思いますね。

マインドとは欲望するプロセス

昨日のブログでは、選択することこそが心(マインド)の働きであるから、選択しないでいられたら、すぐに悟ることができるということを書きました。

この一つひとつの選択というのは、それぞれは小さいことかもしれませんが、それは欲望からやってくるのです。

あれは欲しいけれど、これはいらないという選択、どう考えても欲望がベースにあることは間違いありませんね。

つまり、心(マインド)というのは欲望することを指すのです。マインドは実体があるわけではないのです。

私たちは自分の中に一つの心(マインド)を持っているように感じていますが、そんなものは存在してはいないのです。

マインドというのは、欲望して選択するというプロセスに過ぎないと osho は伝えてくれています。

あなたが欲望すればそこにはマインドというプロセスが生み出されるということです。逆に欲望しなければ、マインドはないのです。

そしてマインドというプロセスがなければ、そこに悟りがあるということになるのですね。

選択肢があるように見えるだけ

osho の言葉で次のようなものがあります。

『悟りは、あなたのすぐ目の前にある。 選り好みをしたら、あなたはそれを逃してしまうだろう。というのも選り好みをするということは、心がはいり込んだということだからだ。選択というのは心なのだ「私はこれを選び、あれは選ばない」と言うときあなたはすでに世界をふたつに分けている。』

なるほど、選択が心(マインド)を活性化してしまうということですね。けれども、一切選択せずに生きていくなど想像もできません。

朝起きたら、今日の朝食は何にしようか、から始まってどの服を着て行こうか、どの仕事を先に済まそうか、誰と何を話すか等々。

考えたら1日のうちのほとんどは選択し続けていることに気づきます。人生とは選択の連続で出来ているとも言えますね。

選択をしないというのはどういうことなのでしょうか?これは私なりに思うことなのですが、人間には自由意志がないということを思い出すのです。

選択することが問題なのではなく、自分が選択していると思い込むことが自我から抜け出せない本当の理由なのだと思うのです。

私のことで言えば、今日のブログは何を書こうか、これにしようと決意するのも一つの選択だと言えますね。

けれども、それは選択ではなくそのように現象が起きているというように見ることもできるのです。

それは決して選択ではありません。無数の選択肢がある中からたった一つが選ばれたと見ることはできますが、そうではないと気付けばいいのです。

この見方をするだけで、人生から選択が消え失せていくはずです。私がまだ覚醒していないのは、私の自我が自分が選択したという手柄を手放せずにいるからでしょうね。

子供時代との接触を取り戻す

子供の頃から自分が進むべき道をはっきり見据えていられる子は幸運ですね。けれどもそれはごく一部で、一般的にはそんな事はありません。

まだ社会というものを知らないし、自分がどんな大人になって行くのかと言ったイメージも明確には持っていないのが普通です。

それでも時間は待ってくれないので、何とか社会に順応すべく仕事が決まって行くのです。絶対にこれをやって行くという、明らかな夢もなしに。

それとは別に、子供時代に興味を持って見ていた事柄というのはあるはずです。それが社会で役立つかどうか、あるいはそれで生計を立てられるかも考えないままに。

だからこそ大人になって行く途中でそんな事は忘れてしまうのですね。でもそういった子供時代の純粋な興味は決してなくなる事はなく、あなたの奥深くに残っているのです。

もしも人生に不満があるなら、子供時代のそれを思い出すことです。そしてもう一度それとの接触を取り戻し、勇気を持って人生の中で展開できないかを検討することです。

私は子供時代、目に見えないもの、この宇宙の果てに想いを馳せると、不意にそれが自分自身に返ってくるという感覚があり、それに興味があったのです。

その感覚の意味が今では分かるようになって、それが現在の仕事と深く結びついているのです。そういう意味では、子供時代の自分が毎日興味津々で生きていると感じます。

子供時代があまりにも辛く苦しいと、そことの接触を絶ってしまうのが普通です。そうなると、当時の純粋な興味を思い出す事が難しくなってしまいます。

子供時代との接触を取り戻して、どんな純粋な興味があったのかを見いだすためにも、しっかりと癒しを進めて行く必要がありますね。 

戦争は惨めさの克服が原因

osho によると、人類の過去何世紀にも及ぶ歴史を見ると、二つの時期しか生きたことがないとのこと。

戦争、つまり実際の戦時と戦争のための準備期間。この二つが全てだということ。大雑把に見ればそれが歴史の真実だと納得できますね。

ということは、人類は相当に問題を抱え込んで生きているということを物語っているのです。

どれほど世界平和を声高に叫んだところで、一人ひとりのマインドの闇が深ければどうしようもないことだと気づくことです。

戦争はいつもこのブログでお伝えしているマインドの自己防衛が原因であることは明白です。

領土争いにしても、宗教争いにしても、あるいはエネルギー争いにしても、どれもこれも防衛をやめられない人類のマインドが根本にあるのです。

幼い頃の耐え難い己の惨めさを封印して、自分は決して惨めなんかじゃないということを証明しようとするのが人生です。

そのためにはあらゆる防衛力を駆使するのです。それが個人のレベルを超えて国家のレベルになれば戦争が起きるのです。

もうそろそろこんな簡単なカラクリに気づいて、愚かなことを繰り返さないようにしたいですね。

トラウマから目を逸らす防衛

世界で唯一の被爆国である日本、その教訓を生かして非核三原則というものをかつて作ったわけですね。

核を持たない、作らない、持ち込まない、なるほどとは思うのですが、この原則について議論してはいけないというのが今までの日本の大勢でした。

けれども、議論もしてはいけないというのは、私に言わせれば思考停止状態ということですね。

被爆者やそのご家族のことを考えたら、どんな理由があろうと核爆弾を話題にするのも失礼だと感じるのでしょう。

たとえば、あなたの大切な人がナイフで刺殺されたとしたら、そのトラウマからナイフそのものの存在を否定したくなるのは理解できます。

けれども、もしもあなたの愛する人たちが現実にナイフで殺されそうになっていたとしたら、それでもナイフのことを忘れていられるかを考える必要があります。

もしもあなたが忌み嫌っているナイフを持っていることを犯人に分からせることができたら、愛する人をその殺人犯から守ってあげられるかもしれません。

つまり武器というのは抑止力になるということを忘れてはいけないのです。残念ながら、この辺りが今の人類のレベルなのです。

ナイフを持っている人を説得できれば一番いいのですが、それができなければトラウマを超えてあなたがナイフを持つ勇気が必要なのです。

現在の人類のレベルは、国家間の話し合いが有効になるためには、バックに武力の均衡が保たれている必要があるということです。

タブーというのは議論すら否定する傾向にあるのですが、それはトラウマから目を逸らす防衛だと理解することですね。

正しさの末路

ウクライナへの侵攻を前にして、プーチン大統領はロシアの国民に向けて、1時間もの長い演説をしました。

その演説を日本語に翻訳してくれた人がいて、まだ途中なのですが、その文章から彼の内面を読み取ることができるかなと思って読んでみたのです。

それでわかったことが二つあります。一つは、まず根底にあるのが自分の側は正しくて相手は間違っているという妄想です。

これは多くの人々が知らず知らずのうちにやっていることで、それほど珍しいことではありません。

ただし、何となくそれに気づくこともできるはずなのですが、一向に気づいている感じがしないのが恐ろしいです。

そしてもう一つ分かったことは、彼が完全に過去の出来事に激しい執着をしているということです。

そのエネルギーは半端ではないのでしょう。読んでいて、こっちの頭がクラクラして途中で嫌になるほどでした。

強大な権力を持っている人物が、自分は間違ってはいないという思いで、大義を持ってしでかすのですから大変なことになりますね。

親が子供を育てるときに、自分の正しさを振りかざして子供の心を認めないでいる様子に類似していると思うのは私だけでしょうか。

観照者=意識

最初に観照者だけが在って、そして最後にも観照者だけが残る。その間に宇宙という現象界が生まれて消えていくのです。

その現象界をずっと観照者が見守り続けているのですが、その観照者こそが私たちの意識なのですね。

現象界においてはあらゆる体験が起きるのですが、そこにはどんな体験者もいないのです。

私たちの思い違いは多岐に渡っているのですが、体験者が不在では体験はないと思っているのも間違いです。体験はただ起きるものです。

また、観照者である意識がこの現象界の中に存在すると思い込んでいるのですが、実は違うのです。

私たちの意識はこの世界をただ見守っているだけです。当事者として生きているという錯覚が、そうした間違いを引き起こすのです。

この世界に住んでいると思い込んでいるのは自我であり、あなたの本質である意識は全く異なる次元において、ただ見守っているだけなのですね。