何も起きていない

私たちは、毎日たくさんのことが「起きている」と思っています。朝起きる。顔を洗う。仕事をする。誰かと話す。嬉しいことがある。嫌なことがある。

そして、その一つひとつを「私の人生に起きている出来事」として受け取っています。でも、ちょっとだけ立ち止まって見てみると、面白いことに気づきます。

たとえば、今この文章を読んでいるとき。文字が見えている。意味が理解されている。何かを感じているかもしれない。そこには、確かに「読む」という出来事があります。

けれど、その「読む」という出来事の中に、読んでいる誰かを見つけることができるでしょうか。「私が読んでいる」そう思うことはできます。でも、その「私」はどこにいるのでしょう。

探してみると、見つかるのは文字だったり、思考だったり、身体感覚だったりします。「私はここにいる」という感覚も、やはり現れているものの一つです。つまり、「私が経験している」という構造そのものが、経験の中に現れている。

そうだとすると、「何かが起きている」ということと、「誰かに何かが起きている」ということは、同じではありません。音は聞こえている。色は見えている。思考は現れている。感情も現れている。

しかし、それらを経験している独立した誰かが、別に存在しているとは限らない。そして、ここからさらに奇妙なところへ行くことができます。そもそも「起きている」と言えるものさえ、本当に起きているのでしょうか。

「出来事」というものは、あとから思考によって切り分けられたものなのかもしれません。今、音が聞こえた。それを「音が鳴った」と呼ぶ。身体が動いた。それを「私が動いた」と呼ぶ。

思考が現れた。それを「私が考えた」と呼ぶ。けれど、実際にあるのは、そのつど現れている見かけだけです。「誰かが経験している」ということも、「何かが起きている」ということも、あとから付け加えられた説明なのかもしれません。

そう考えると、人生というものも少し違って見えてきます。何かを成し遂げなければならない「私」がいて、その私の人生に次々と出来事が起こっている。

そんな物語ではなく、ただ、見えるものが見え、聞こえるものが聞こえ、思考が現れ、身体が動き、感情が現れている。それだけ。そして、それさえも「起きている」と呼んでいるだけ。

何も足さずに、ただ見てみる。すると、思っていたほど「人生」は存在していないのかもしれません。そして不思議なことに、「何も起きていない」ということは、何もないという意味ではありません。

むしろ、あまりにもすべてがそのままなので、「起きている」という言葉すら必要なくなる。今、これがある。それだけです。 by Claris

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