神の道を歩むのに、何を恐れる必要があるだろうか?というのが、ふとやってきました。まさか声が聞こえたわけでもないですが、何も怖がることなどないという思いと少し繋がったのか。
悠々とその道を進んでいけばいいだけだし、自分は神にすべてを明け渡すことでこれ以上安全な状態になることはないのだから。
こういうものがふとやってくるということは、裏を返せば普段は神(もしくは真の自己)を信頼してはいないということなんだなと思うのです。
というよりも、多いに疑っているといったほうが近いのかもしれません。そんなふうな自覚は勿論ないのですが、本当に信頼していたらそのことを日常のいついかなるときでも忘れるはずはありません。
でも実際はというと、たまにしか思い出すことがないわけで、それはやはり信頼できてない証拠ですね。だからこそ、恐れというものがなくならないのです。
自分の身は自分で守らなければどうにかなってしまうと信じ込んでいて、そこから抜け出すことがとても難しいということです。
これでは到底明け渡すなどということはできません。しかし、そうした明け渡すことなど無理だと思っている自分をも含めて明け渡すということなんだろうと。
明け渡すとは信頼するということ。もうそろそろ、この自分の自己防衛機能ばかりではどうにも立ち行かないということは分かってきているはずです。
追い詰められて、断崖絶壁に立つことになって、ようやく分かることがあるということですね。まだまだ十分に信頼できない自分を受容することにしたいと思います。