自閉という自己防衛の方法

以前にも何度か書いたことがあるのですが、小学生の頃にある時突然自分は今まで人の話しをまともに聞いたことがなかったと気づいたのです。

それは本当に驚きの体験でした。それはごく普通の毎日の授業中のことだったと思います。先生がいつものように何かを話していて、それが心の中にガ~ンと入ってきたのです。

自分としては、それまでも真面目に先生の話を聞いていたつもりだったのですが、そうではなかったと気づいてしまったのですね。

今から思うに、それまではある意味自閉していたのだと思うのです。勿論耳には声が届いているし、ごく正常な子供として生活してはいたのです。

けれども、きっと興味の湧かない先生の話に対して、本当に耳を傾けるということをしてこなかったということなのでしょう。

つまり、心を閉じて授業を受けていたということです。先生の言葉の本意がそのまま丸ごと心に飛び込んできたことで、それまで閉ざしていたと理解できたのです。

自閉は誰でも多少は無自覚にやってしまう自己防衛の一手段なのです。そして、自分の都合に合わせて適宜開いたり閉じたりさせているのです。

恐怖などの強さによって、幼いころに強烈に自閉してしまうとそう簡単には開けなくなってしまうということが起きてきます。

そうなると、大人になってもその傾向が色濃く残ってしまい、物事に対して否定的で深刻な印象を与える人物になる可能性が高くなります。

そうした人が仮に親だったとすると、子供はとても苦しむことになってしまいます。自分に対して心を開いてくれない親が、どれだけ子供を孤独にさせてしまうのか、想像に難くありません。

もしも、自分は親に受け止めてもらえた経験が少ないかもしれないと感じるなら、このような環境で育ったのだと思って間違いありません。

そのことは、大きな不満となって心の中に蓄積されてしまっているはずです。人生に対しての何らかの不満の根本原因はそこに見出されるのです。

そこをしっかり見据えて、そこにある悲しみや怒りなどの感情から逃げないようにすることで、傷ついた心は少しずつ癒されていくのです。

分離という単なる思考

人は誰でも正常に成長すれば、必ず2,3歳くらいのときに分離という幻想に取り憑かれることになります。

取り憑かれるというと、ちょっとオーバーに聞こえてしまうかもしれませんが、そういう思い、思考を固く信じるようになってしまうのです。

それは普通突然やってくるというよりは、気がついたら言葉をしゃべるようになっているのと同じくらい自然にやってくるのです。

だから多くの人が、自分は個人であり、この世界とは分離した存在だということ(考え)が、まるで事実であるかのように感じてしまうのです。

けれども、これは事実ではなく、紛れもない作り話なのです。自律した個人という存在が在るというのはでっち上げに違いありません。

それは思考による単なる説明に過ぎないということです。私たちが、モノに名前をつけるのと同じようなものと考えればいいのです。

名前をつけた本人が、その対象物には名前があると勝手に決め込んでいるだけで、その対象物自体が名前を持っているのではありません。

あるがままの事実というのは、それ自体には説明というものはないのですが、思考がそれを把握しようとしたときに、説明を付与してしまうのです。

そして、その後思考はそれを事実と見なすようになってしまうということです。したがって、私たちが暮らしているこの世界は、各人の思考の産物だということです。

この世界がないということではありません。それはただ在るのです。思考そのものもただ在るのであって、本当はこの現象界の中の一つとして思考が在るだけなのです。

夢の中のあなた その2

昨日の続きです。

その夢の中のあなたが、この世界という現実の中で人生を送っているあなた自身だと分かればいいのです。

ちょうど夢の中のあなたが、眠りの中でその夢を見ているあなた自身を見つけることができないのと同じように、この世界の中にあなたの本質を見つけることはできないのです。

私たちは、自分という一人称について、うわべだけの見方をしています。二人称や三人称などとの比較においてのみ、一人称を理解しているのです。

けれども、真の一人称は何の比較もできません。なぜなら、それだけが真の実在だからですね。一人称だけの一人称とはどんなものでしょうか?

それは、私が何かを知るとか、私が何かを持つ、私が気づく、私が思うという意味での私というものではありません。

真の一人称とは、私が知ることであり、私が持つことであり、私自身が気づきであり etc、ということなのです。

それを一言で表すとすれば、「ただ、私は在る」ということです。英語で言えば、「I am」です。I am の後ろには、何も付属しないのです。

繰り返しになりますが、この世界のどこか特定の場所に本当のあなたを見出すことはできません。それこそが、真の一人称であり、全体性ということです。

夢の中のあなた

あなたが夜眠っている間に夢を見たとしましょう。その夢の中で、あなたはある部屋の中に閉じ込められているとします。

あなたは、その部屋のことが嫌いで、とにかく何とかして出て行く方法はないものかと考えあぐねているという設定の夢です。

あれこれ試してみたものの、疲れたり怪我をして痛い目にあったりするだけで、思うようにその部屋から出て行くことができずにいます。

人からいい方法があると聞けば、それを試してみるのですがやっぱりうまくいきません。もうあきらめようかとも思ったりするのですが、しばらくするとまた気を取り直して試行錯誤が続くのです。

そんなときにふと、あれ、これって夢かもしれないと気づくのです。ということは、本当の自分はこの部屋の外側にいるということになります。

部屋の外というよりも、この部屋を作った張本人が自分だったと気づいたわけですから、ちょっとした驚きですね。

なあ~んだ、じゃあこの部屋から出ようが出まいが、どちらでもいいじゃないかあ、と思ってみたものの、やっぱり夢の中のあなたはその部屋から出たいという気持ちは変わらないと知るのです。

けれども、夢だと気づいた瞬間から、その部屋から出たいという気持ちに表現できない変化がやってきているのも事実なのです。

それは、部屋から出たいという思いの切実さだったり、深刻さというものが薄れてしまうということかもしれません。

もしかしたら、他の人からは気づかれないような変化かもしれません。それでも夢の中のあなたはとても大きなゆるぎない安心感を手に入れたことは間違いないでしょうね。

苦行なんていらない!

今から約2600年前に、お釈迦様は王子の身を捨てて一人こっそりと城を抜け出して、苦行の旅に出たのです。

その苦行は17年間にも及んだらしいのですが、結局真実を見出すことができずに、あきらめて菩提樹の下で10日間くらい瞑想したすえに、覚醒したということです。

彼は、あの難行苦行はまったく必要なかったと言ったらしいのですが、誰もその言葉をそのとおりには受け止めなかったのですね。

そうした苦行を経験したからこそ、短い瞑想の末に覚醒できたのだろうと思うわけですね。偉業をなすためには、それなりの努力が当然必要なのだという信念があるのです。

けれども、彼は本当の意味で苦行はいらないと言ったのです。なぜか、私たちの誰もが努力の末にこそ報われることがあると信じているのです。

だからなのかどうか知りませんが、私の周りにも見ようによっては苦行僧のように生きている人が何人もいらっしゃいます。

自分を痛めつけるのが好きというのか、そうやって自分の罪悪感を相殺できると思っているのか、本当のところはよくわかりません。

でもはっきりしていることは、どんな練習をしてもしなくても、獲得した金メダルは金メダルには違いないのです。

毎日を楽しみながら生きている人が、苦しみ抜いて何かを勝ち得た人の人生よりも価値が無いなどということはありません。

真実を探求するにしても、苦行が必要というのは間違った思い込みに過ぎません。実際、自分の本質を観るためには、何の努力もいりません。時間のかかる瞑想もいらないのです。

真実はいつだってもっとも身近なところにあり、手に入れるようなものでもないからです。私たち自身がすでにそれだからですね。

思考の外にある視点

今までもこのブログで何度となくお伝えしていることですが、セラピストの私が言うのも気が引けるのですが、人は変わりません。

もう少し詳しく言えば、本人が思っているようには変わらないということです。本人の望むように、あるいは本人の努力や強い意志によって変化はしないということです。

心の癒しは向こうからやってくるのです。しかも、その癒しのレベルは、それほど深いものではありません。つまり、人物としてのご本人が根底から変わってしまうということはないのです。

人は、どんなに羨ましいと思う人がいたとしても、その人になりたいとは思わないのです。やっぱり自分でいたいのです。

自分でいながらにして、自分を望むように変えられたらいいのにと願っているのですから、そうそう変わらないのは当然かもしれません。

真の癒しとは、人物としての自分の変化を指すものではないのです。このことは、何度言っても言い過ぎということはないと思っています。

なぜなら、このことがそのまま伝わったと実感できたことが少ないからです。本質的な癒しとは、人物としての自分が生きている人生を見る視点へ注意を向け続けることです。

それは、人物でありながら同時に可能ですし、これほどシンプルなこともありません。だからこそ、何だか分かったような分からないような感じがしてしまうのです。

その視点とは、思考の外に在るものだからですね。

人生観は変わる

子供のころに、「自分は誰かに生かされているような気がする」ということを父親に話したことがあります。その誰かというのが神様のことだったのかどうかは分かりませんが。

ただ、何となく漠然とそのような感覚を持っていたというのは確かでした。でも口に出したのはそのとき一回だけでした。

そんな説明できないようなことをいくら訴えたところで、予想通り誰にも伝わらないと思ってしまっていたからですね。

その後、輪廻転生について何度も考えが変わりました。ある時期には、きっと自分の魂は今までにも何度も生まれ変わって様々な人生を生きたに違いないと思っていました。

またあるときには、いやいや死んでしまったら一切合財が無になるはずだと。死んだ後までも何かが残るなんて、想像しただけでぞっとすると。

信念がないというのか、気持ちが変わりやすいというのは、どう表現していいか分かりませんが、とにかく変わらないカチッとした考えというのがなかったのです。

今は、そうしたこうに違いないということそのものが消えていってしまいました。つまり、信念そのものの重要性が薄れてしまったわけです。

このように、私の人生観は見事にその時々で変化してきました。だからこそ、今私が思っていることも明日になったら変わってしまう可能性があるということです。

それは正しさに興味を持てなくなってきたということでもあるのだと思います。何年か前に、人物としての自分は思考の産物だということが分かったときには、根本が覆ったような感覚になりました。

そんなわけで、これからも人生観は変化するのでしょうね。というよりも、人生観を持っている自分をただ見る視点が色濃くなってきたということかもしれません。

理由のないところに本質がある

私たちは、毎日沢山の感情を感じながら生きています。何か願っていることが起きたらすごく嬉しくなるでしょうし、大切なものを失ったら悲しくなります。

どんな感情でも、それが発生する正当な理由がありますね。お天気がいいというただそれだけでも、ウキウキした気持ちになることもあります。

もしも、何も理由がないのに、電車に乗っていたら急に涙が出てきて困ってしまったということがあったなら、それは過去に理由があるのです。

そのように、たとえ今目の前に理由らしきものが見当たらないとしても、どこかにかならず感情が出てくる理由はあるのです。

お世話になったり、助けてもらったりして、感謝の気持ちが湧いてくることもあるはずです。献身的な相手の態度に、愛が芽生えることもあるかもしれません。

こうした理由(原因)があって、起きてくる感情というのは、そこに思考が介入しているのです。なぜなら、理由は思考の産物だからです。

けれども、まったく思考が入り込まない状態においても、感情が発生することがあるのです。それは、もっと正確に言うと元々そうした感情が存在し続けていたということです。

心が無防備の状態になればなるほど、何の理由もなく愛や感謝の気持ちがやってくるのです。その経験はまさに驚きと言ってもいいかもしれません。

そうした感情は、理由があってやってくる感情とは違い、本来ずっと私たちの根っこにあり続けているものなのでしょう。

あるいは、愛や感謝、平安さなどは、感情というよりも本当の私たちの本質であると言えるのです。だからこそ、そこには何の理由も必要ないのですね。

自己防衛を見極める

子供の頃に、辛いことがあって元気が無いようなときや、悲しみや寂しさなどで気持ちが落ち込んでいるときに、飼っている犬や猫が寄り添ってくれて救われたという経験がある人は意外に多いのです。

私自身はそうした経験がないのですが、この仕事を通してそんな体験談をこれまで数多く聞かせていただいてきました。

心が通じ合った動物というのは、人の気持ちに敏感なのですね。自然と身体を寄せてきたり、心配そうに覗き込むような動作をしてきたりするということです。

実はそうしたことは、動物ばかりではなくて、まだ自我が芽生えていないような幼子でも、似たようなことをしてくれたりするものです。

幼い子は大好きな親が笑顔でいて欲しいと無自覚にも望んでいるのです。たとえば、お母さんの心が晴れない状態であると察知すれば、何とか気持ちを和らげてあげたいと思うのでしょう。

それは、無邪気さからくる愛の行為に違いありません。だから、精神的に辛い親の元で育った子供は、親の心理状態がいつも気になってしまうのです。

けれども、自我が芽生えてしばらくするうちに、そうした行為は変わらないままに、心の中で恐怖という防衛システムが愛に取って代わってしまうのです。

そうなると、子供本人はそれまでと変わらずに親を心配して、たとえば親の愚痴を聞き続けたりするのですが、それはもう防衛と化してしまっているのです。

可愛そうな親を見ているのが辛いので、その辛さから逃れるために自己犠牲を強いてまで、愚痴を聞き続けるといったようなことになるのです。

その結果は、莫大な自己犠牲が巨大な怒りへと化けて心の中に蓄積することになってしまいます。本人は無自覚とはいえ、その怒りは現在身近にいる人へと向かうことになりがちです。

自分の言動を注意深く見て、それが真に相手のためなのか、それとも自己防衛によるものなのか、はっきりと見極めることが大切な第一歩となるのですね。

自分は動いていない、あの感覚

今年の2月から以前のようにほぼ毎日スポーツクラブへ行くようになりました。一番の目的は、勿論おじさんにとっては、かけがえのないサウナなのですが、一応水泳もするようにしています。

ところが、一ヶ月経っても二ヶ月経ってもなかなか、以前のようにスムーズに泳ぐことができずにいました。ちょっと泳ぐと、すぐにゼイゼイ息があがってしまうのです。

やっぱり3年半のブランクは大きかったのか、それに年齢のことも考えると、もう元には戻れないのではないかと半分諦めていたのです。

けれども、ある日突然、本当に急に自分が楽に泳いでいることに気がついたのです。体力も少しずつ回復しつつあったし、泳ぐときの力みが緩んだのかもしれません。

理由ははっきりしないまま、とにかく劇的にラク~に泳げるようになったのです。休み休み500メートルだったのが、休まずに1000メートル泳いでも平気になりました。

あらゆる泳ぎの要因が同時にカチッと揃った感じといえばいいのでしょうか?それで気づいたことがあります。

それは、楽になって余裕ができたら、自分が前へ進もうと頑張っていないということが分かったのです。それと同時に、自分は動いていない、あの感覚を取り戻したのです。

思い出そうとしたわけではなくて、楽になったら自然と思い出すことができたということです。自分が一ミリも動いていないというあの感覚は、本当に心地いいのです。それを思い出せたおかげで、さらに楽になれたのも事実です。

歩いているときや、クルマを運転しているときには、思い出すようにはしていたのですが、水泳のときは苦しくて忘れてしまっていたのですね。

みなさんにもお勧めします。透明で大きさも形もない自己は、移動することは不可能です。その視点で周りを見ると、過去も未来もなくなります。