真に成熟するとは?

私たちは人間として生まれて、当たり前のように大人の人間へと成長していきますが、実は人が人になるのには条件があるのです。

それは、物理的に人間として生まれて、大人の人間に育てられるということが必要なのです。ただ、人間として生まれても自我を持った人間に育てられなければ、一人前の人間にはなれません。

そのことは、狼に育てられた少年の事例を思い出せば明らかです。私の知っている例では、彼は背骨が曲がってしまっていてしっかりと直立して歩くことすらできない状態で発見されています。

教育を受けさせようとして試行錯誤しますが、彼は単純な言葉を発するようにはなるものの、その年齢の子供のようにはなることができませんでした。

人間として生まれたということは、単に一人の人物への成長する潜在能力を持っているということしか言えないのです。

幼児は、自然に親や周りの大人たちが話している言葉を理解し、自分も話せるようになっていきますが、それと同じようにして自分がここにいるという認識(自我)が芽生えるのです。

人間以外の何かに育てられたなら、自我は育ち様がないわけです。つまり、私たちは周囲に教わりながら、あるいは洗脳させられることで、一人の人間となっていくのです。

生まれながらに、人間であるわけでは本当はありません。つまり、作られたものだということに気づくことです。立派な人間になるための代償はあまりにも大きいものでした。

そうであるなら、作られる前の本来の自己、ただあるがままの自己に気づくことも可能なのではないでしょうか?オリジナルはそのままに在るからです。

その本質に気づくことこそ、一度人間として生きて苦しみぬいた我々が真に成熟することなのだろうと思うのです。

対立のない世界

恥ずかしい話しなのですが、中学一年生くらいまで、自分は朝起きて顔も洗わず歯も磨かず、髪は寝起きのままで学校へ行っていました。

着るものを気にするということもほとんどなかったのです。それが、年頃になって色気づいてきたと同時に、生活が変わりました。

週一回くらいしか洗わなかった髪は毎日シャンプーするようになり、ズボンプレッサーなるものを買ってもらって、毎晩寝てる間に制服のズボンに折り目をつけるようになったのです。

異性からどうみられるのかということが、急激に気になり出したというわけですね。それ以降、他人の視線が気になるということがなくなることはありませんでした。

ただ、一度だけ中学三年生のときに、理由は忘れたのですが髪をスポーツ刈りにしたことがあったのですが、そのときはものすごく楽でした。髪型を気にせずにいられたからでしょうね。

大学生になって自由を謳歌し出したころには、長髪になってポニーテールにできるくらいまで伸ばしていたこともあります。

また、人の視線を避けるために、一番濃い色の度付きサングラスを作って、それで生活していたこともあります。これは、電車に乗ったときなど非常に心地よかったのです。

相手からは自分の目が見えないために、当時感じていた軽い視線恐怖を感じずにいられたからです。これも、人からどうみられるかを気にすることから起きるものですね。

誰だって他人からどう見られているのかということが大なり小なり気になるものです。けれども、これは単に精神的自己防衛の結果なのです。

これを克服しようとするのではなく、感じる恐れをしっかりと見てあげることで、視線恐怖は激減してしまいます。

さらに、視線を内側に向けることで自分の本顔である、「何もなさ」に気づくことができれば、もっと他人からの視線に対する恐れが小さくなっていくのです。

相手の視線の先にあるものは、本当の自己ではないと分かるからですね。それは対立のない世界へと誘ってくれるのです。

正直に自分と向き合う

癒しを進めていくためには、ご本人が真剣に取り組むという姿勢がやはりどうしても必要です。したがって、ご家族の誰かが問題を抱えていても、ご本人が乗る気でなければセッションにいらしてもほとんど効果は期待できません。

特に、10代前半から半ばくらいのお子さんの場合には、まだまだ自分を癒していくという発想を持つことが難しいのです。私の経験では、10代後半でもまだ難しい場合が多いです。

ご家族が心配するのも無理はないのですが、焦ったところでいい方向に進むことには決してならないばかりか、ブレーキになりやすいのです。

お子さんの側が、問題が解決してしまえばそれでいいと思っている親の本音に気づいてしまうからです。

その問題は、本当の問題に気づかせるための単なる仕掛けであって、その奥にある目には見えない本人の心の叫びに気づいてあげなければならないのです。

そこに気づくためには、家族の方こそが見てみぬふりをしてきた自分自身の問題に目を向けることしかありません。

子供は、自分が犠牲となって家族というシステムの問題を映し出してくれているという観点を持つことが大切なのです。

そこに直面するのを拒絶するために、子供の癒しを進められずに終わってしまう親を何度も見てきました。

真に愛する家族のために、そして本当は自分自身の癒しのために、もう逃げることをやめて、一人ひとりが正直に自分と向き合うことなんですね。

至福の時間

昨年の12月にオフィスを引越ししたことで、いろいろなことが一度にドッと押し寄せてきて、それらが一応収束するまでに結構な時間がかかりました。

それでも今月に入ると、そうした煩わしい事柄がなくなってしまい、また今までどおりのごく平凡な毎日がやってきています。

その毎日とは、ほとんどやらなければならないことがないという、忙しく身体を動かしていなければ気がすまない人にとってはほとんど拷問のようなものに感じるかもしれません。

本当に毎日何も特別しなければいけないことがないのです。ただ、仕事の予約が入ったらそれに従ってセッションをこなしていくのみです。

そして時間のあるときには、スポーツクラブへ行って水泳少々と大好きなサウナに入るという毎日になりました。

今は、セミナーもやらなくなったし、講座もやってないですし、何一つイベント事がなくなってしまっているというのも、一役買っているのでしょうね。

まとまった時間を取って、瞑想に当てるということもなくなりました。その代わり、日々のあらゆる瞬間に、自分の本質に注意を向けることができるのです。

何も生産的なこともないのですが、私にはやはりこうした日々が合っているのかもしれません。サウナでの自己への注意は殊更意義深いものがあります。

いつしか、自分が身体であるなどという思い込みは、どこかへ行ってしまったようです。彼方に在る真の自己に憩うことが、至福の瞬間ですね。

自分の正しさなんて その2

いつのことだったか、アメリカの有名なフットボールの選手が、死ぬ間際のベッドの中で、「あれは、絶対タッチダウンだった!」と言って亡くなっていったということを聞いたことがあります。

つまり、本人にとっては大事な試合で得点を入れた瞬間だったのに、審判からは別の判定がくだってしまったために、諦め切れないでいたということですね。

その試合から亡くなるまでにどれくらいの年月が経ったのかは知りませんが、いつまでも悔しい思いを捨てられずにいたということです。

それと比べたらはるかに小さな思い出なのですが、小学生のころに鬼ごっこをしていて、自分が鬼のときに必死になってある友達を追いかけた末に、背中にほんの少しだけ触れることができたのです。

その指先の感触を今でも覚えているくらいです。けれども、相手にはそれを伝えてもそれをまったく認めてもらえず、それ以外のどの友達からも同じ反応しかもらえなかったのです。

彼の背中の部分の服の一部に明確に手が触れたのですが、それは誰にも認めてもらえなかったというわけで、しばらくは悔しい気持ちが残っていたのを覚えています。

自分は間違ったことを主張しているわけではない、自分は絶対に正しいと思ったのですが、でも今思えば自分の正しさが大事だったのではなくて、聞き入れてもらえなかったことが悔しかったのだろうと分かります。

人は、正しかろうと正しくなかろうと、そんなことよりも自分のことを受け入れて欲しいという思いが強いということです。

それなら、そのことをしっかり認めてしまえばいいのです。そこをあやふやにしておいて、自分の正しさばかりを前面に押し出していても、不満はつのるばかりになってしまうでしょうね。

自分の正しさなんて

このブログにも以前書いたことがあるのですが、ある女性が入院している病棟でそれはひどい理不尽な待遇を受け続けるという映画を観たことがありました。

看護士も医者も堂々と意地悪をして、不必要な注射は打ってくるし、とにかくこんな病院からは一刻も早く抜け出したい一心で、見舞いにやってくる父親に必死でそのことを話すのですが、一向に伝わらない。

観てるこちらもイライラしてしまうのですが、そのうち何かのきっかけから急に周りの人たちが親切になったと思ったら、見舞いに来ていたのは父親ではなくて彼女のご主人だったとわかるのです。

つまり、そこは精神病院の病棟だったわけで、彼女の「攻撃されてる」妄想がそのまま映像になっている映画だったというわけです。

彼女の目には、本当にひどいことをされているように映っていたのですから、彼女の反応も当然のものだったのです。

昨日観た映画でも似たようなことが描かれていました。長いこと孤独だったある老人がいて、彼は隣に引っ越してきた婦人に好意を寄せられ、二人は急激に親しくなるという内容です。

彼は彼女のことを大好きになるのですが、突然連絡が取れなくなったりしてひどく気持ちを荒げてしまうのですが、実はその女性は長年連れ添った奥さんだったのです。

働いているスーパーの若いちょっと生意気そうな経営者も、実は彼の息子で、家族みんなで彼の病気を心配していたのです。

人は誰でも自分の理性を信じて生きています。自分は、物事を正常に判断できる正しさを備えているとして生活しているのです。

それが自分のワールドですね。その正しさを過信してしまうと、自分のワールドの外にも世界があるということが分からなくなってしまうのです。

正しさには意味がありません。正しさは正しくない人が周りにいて、初めて自己防衛のために役立つものだからです。そんなものにしがみついていては、相手やこの世界をあるがままに見ることができなくなってしまいます。

正しさに価値を見出さなくて済むようになれば、それだけ心は平安になるでしょうね。なぜなら、自分の周りに正しくない人がいなくなるのですから。

自分へ伝えたいこと

幼稚園に入った頃の自分へ伝えたいこと:

あれほど何でも言うことを聞いてくれていた母親が、突然君の願いを受け入れずに幼稚園に行かそうとしてきたのには、ホント参ったし悲しかったね。

でも君は膝が痛くて歩けない病気になって、長い間幼稚園に行かずに済んだじゃない。膝のことは心配いらないよ、半年もすると元気になって、幼稚園も好きになるのだから。

小学生の頃の自分へ伝えたいこと:

気がついたら君は、正義の味方のような男の子になってたね。あれはちょいと辛かったよな。夜一人で反省会するんだったしね。

でも大丈夫だよ、5年生くらいから徐々に要領よくなって、適当に人生を楽しめるようにもなるから。それと、中学生になったら勉強しなくても成績よくなるぜ~。

社会人になった自分へ伝えたいこと:

今いる会社にずっといるわけじゃないから安心して。それとね、これは超極秘事項だけど、意外に早く会社員生活は終わりを迎えることになるよ。

そして、君は一人で好きな仕事をするようにもなる。そのときにね、概ね欲しいと思っていたものや体験が手に入ってしまうから、驚くなよ!

10年後の自分へ伝えたいこと:

過去の自分のことを思い出すと、それなりに懐かしいのだけれど、最近過去も未来もものすごく遠くに薄ボンヤリとあるような気がして…。

だから、君にとったら今の自分なんかもっともっと希薄な記憶の断片になってしまうんだろうね。それとね、10年後の君が今の自分と少しも変わってないということも知ってるよ。

なぜなら、自分は生まれてから一度も変わったことなどないのだから。いつもこの自分がいて、1ミリも変わらないし、変わるようなナニモノもないのだから。

思考中毒から抜け出すには

思考を見るというただそれだけで、心の騒がしさが一瞬にして静まるという事実を、時々みなさんにお伝えしています。

「心が騒がしくなってしまったら、自分の心の中にどんな思考があるのかを見てください。」といつものように説明したら、あるクライアントさんに「思考って何ですか?」と聞かれてしまいました。

そう聞かれて、一体思考って何なのだろうか?と問い詰めていくと、何だか分からないという結果になるのも事実です。

思考が何かを説明できないとしても、思考は一種麻薬のようなものだと言えるかもしれません。一度その魅力にとり付かれてしまうと、なかなかそこから抜け出すことが難しいからです。

一度麻薬に手を出してしまったら、いざやめようと思ってもやめられなくなってしまうということは、誰もが知っていることですね。

思考も同じかもしれません。思考の中でも特異なものである、自己と身体を同一視するという思考を一度作ってしまうと、気がついたときにはもうそこから抜け出せなくなってしまっているのです。

そればかりではありません。その同一視した思考は、次から次へと別の思考を作り出すものですから、思考そのものを止めるということすら難しくなるのです。

そうやって、子供から大人になるにしたがって、もうにっちもさっちもいかない、完全なる薬物中毒のような思考中毒状態になってしまうのです。

この思考中毒状態は、ほとんどが自己破壊的な防衛のために費やされるのですから、多くの先達が何とかして思考を止めようと四苦八苦してきた歴史があるのも頷けます。

でも本当に簡単なのです。ただ、一瞬立ち止まって、いったいどんな思考が今あるんだろうかと見ようとするだけで、思考は静かになってくれます。

嘘だと思ったら、試してみてください。そして、それを日々実践することができたら、煩わしい心の状態から短時間に抜け出すことができるようになります。

セラピーは気づきへのほんの入り口に過ぎない

いつか、それもそれほど遠くない将来に、もしかしたらセラピーをやめてしまうかもしれないという予感がします。

セラピストを生業としてやってきている立場で、こんなことを書くのは本当にどうかと思うのですが、何度も言うようにセラピー(心理療法)で人が本質的に変わることはないからです。

何の効果もないということでは決してないのですが、いたずらに最も大切なことに気づくチャンスを奪ってしまう可能性もあるのです。

癒しの初期の段階が、精神的自己防衛の中で始まるのは仕方のないことですし、それは悪いことでもありません。

自分のここが改善された、この困った症状が緩和されたといっては喜ぶのですが、それが次はもっとここをよくしたいという具合に、果てしなく続くのです。

なぜそうなるかといえば、それを続けることこそが自己防衛システムの目的だからです。そのことにどこかの時点で明確に気づかなければなりません。

一度体験した喜ばしい過去を思い出しては、それを次も繰り返そうとするのですが、それこそが物語のど真ん中を突き進むことになるのです。

そのことが問題なのではなくて、それだけで人生を終えてしまうのは勿体無いと感じるのです。生きている間に、自分の本質に気づくこと。

それに気づきつつ、同時に人生という物語を楽しむことこそが、奥行きのある毎日の過ごし方になるのではないかと思うのです。

セラピーは、そのほんの初期の入り口の役割しか果たすことはできません。お会いすることのできた多くのみなさんと、このことを分かち合いたいと思っています。

コントロールを手放す

自我が発生すると、すぐにここには自分がいて、その自分は周りにいる親や大人たちに支配されているということを悟ることになります。

支配されるということは、相手の意のままにコントロールされるということです。そのコントロールが、自分が望むことと違えば違うほど苦しむことになるのです。

可能性はゼロに近いですが、もしもコントロールが自分の好み通りであったなら、わざわざ自分が努力してコントロール権を勝ち取ろうとする必要はありません。

実際には、自分の思ったとおりのコントロールなどというのは決してないのですから、子供はどうにかしてコントロールを勝ち取ろうと努力することになるのです。

自分がコントロールしたい、コントロールできるはず、コントロールできたらいいのに、そういう強烈な願望を持って毎日を生き延びようとするのです。

それがある程度成功することもあるでしょうし、その一方でそううまくことが運ぶわけではないということも知るようになるのです。

それでも成功事例があることで、それをもう一度実現しようとして奮闘努力するのですが、それが本人を苦しめる結果となるのです。

この、できるだけ多くのコントロールを握っていたいという願望は、大人になっても色濃く残ることになるのです。それは、力を抜いて起きたことに委ねるという生き方とは正反対なものです。

いきなり、「すべては神の思し召し」というところに行けないとしても、少なくともコントロールを手放す気などないということに気づくことです。まずはそれを受け止めることです。

コントロールこそが、これまであなたを支えてきたとされる自己防衛システムの中枢にあるからです。残念ながら、コントロールしようとすればするほどあなたは傷つくことになってしまいます。

したがって最も大切なことは、究極的には自分には一切のコントロール能力など初めからないのだということに気づくことです。それが明け渡すという無防備な心の状態へとあなたを連れて行ってくれるのです。