能力について

私たちは自分の能力について、人の能力と比べてそれより優れているとか劣っているというように、幼い時からずっと気にし続けてきました。親も大抵はそういった見方で子供を判断してしまいますね。

その理由はいたって簡単です。それは、能力や才能に恵まれたら、そうでない場合に比べて幸せになる確率が高くなると信じているからです。

運動能力に優れていれば、オリンピックの選手になって金メダルを狙えるかもしれないし、音楽の才能があれば一流のミュージシャンや音楽家になれると思うわけです。

知能指数が高ければ、レベルの高い学校に行って、いい仕事に就き、いい結婚をして、いい子供を授かって、豊かな生活をすることができると期待します。

コツコツと努力をすることが出来るのも一つの才能だなどと言う人もいますね。そのようにして、あらゆる個性や特徴などについても、その人の能力や才能としてみるクセがついてしまっています。

特に10代、20代の若者の場合には、自分の人生をこれから切り開いていくに当たって、もっとも頼りになるのは自分の能力だと思っているわけです。そのために、能力や才能を人と比べて劣っていると見ると、それだけで自己否定的になってしまったりするものですね。

しかし、どんなにすばらしい能力や才能を持っていたとしても、そういったものが比べられるようなものであったなら、それが自分を幸せにすることはできません。なぜなら、比較するのは愛ではなく、エゴの世界であるからです。

昔、ある有名なギタリストがインタビューの中で、「あなたよりも腕のいいギタリストは誰かいますか?」と聞かれて、「誰が一番かと比べても仕方ないよ。またすぐにもっとうまい奴が現れてくるのだから。」と答えていました。

愛は比較するということができません。能力や才能は自分を幸せにするためのツールではないと思えるようになったときに、愛が発動するかもしれません。

私たちには実は幸せになるための能力が、すべての人に平等に与えられているのです。その能力だけは比較することができません。なぜなら、それは能力というか我々自身でもあるからです。

本当の幸せである永続的な心の平安を得るために必要なことは、自分たちが本当は何者なのかということを思い出すことだからです。そして、それを思い出す能力はすべての人が生まれながらに持っているのです。

自分が何者かを知りたければ、過去のブログ「自分の本当の姿」を読み返してみて下さい。私たちが日頃能力だと思っているものは全く使わずに、自分を思い出すことができるはずなのです。

勝ち組、負け組

会社を退職して、今の仕事を始めてすぐの頃に、ある人にあなたは負け犬だよと言われたことがあります。企業の中での激しい戦いに負けて、尻尾を振って逃げ出した負け犬なんだと。

自分では全くそういった気持ちはなかったのですが、言われたらなるほどそういう見方もあって当然なのだろうと新たな発見をしたのを覚えています。

そして最近では、負け犬よりももっと一般的に使われる言葉として、勝ち組、負け組という表現をすることが増えているようですね。

基準はよく分かりませんが、人生の成功者とそうでない者とに分けるということなのでしょうか。人生というと大げさかもしれませんが、例えば女性の場合ですと誰もが羨むような男性と結婚をすれば、きっと勝ち組と言われるのでしょうね。

このような言葉は軽薄なものだと知りつつ、面白がって使っているのが今の日本の文化なのかもしれません。でももし、この言葉で自分を表現するとしたら、あなたなら一体どちらになると思いますか?

大切なのは、人が自分をどう評価するかではなく、自分が自分をどう評価しているかということです。それともう一つ、一番大切なことはその評価の基準ですね。

私のコラムやこのブログを読んで下さっている方であれば、もうお分かりだと思いますが、人生で価値のあるのは唯一つ、心が満たされていて平安であるということ、つまり真の幸福感なのです。

ですから、敢えて勝ち組か負け組かの評価をするとしたら、この幸せかどうかでしか判断することはできないのです。そして、それを評価できるのは唯一自分だけということになります。なぜなら、本当に幸福かどうかは決して他人には判断できないからです。

会社員時代、私は自分のことをそこそこいけてるんじゃないかと思っていました。それは、他人から見た一般的な評価基準で自分を見ていたからでした。でも今はそういった物差しでは全く自分を見なくなってしまいました。

世間の評価では、きっと今の私は負け組になるはずです。そして、実際にそう言われたとしても全く気にもなりません。それは、自分を内側から見つめて自分のことが分かっているからです。

そして、真の幸せを評価基準にした途端、もう他の誰のことも勝ち組か負け組か言えなくなってしまいます。そうなったときに、初めて自分はまっとうな判断基準を手に入れたのだなと思って下さい。そして、その目で自分を内側から見てあげて下さい。

今の本当のあなたの姿が見えてくるはずです。

期待を手放す その2

昨日の続きです。

期待しないということが人生を平安な気持ちで送るために是非とも必要なことだということをお話ししました。

しかし、期待しないということをイメージすると、何だか夢も希望も何にもないつまらない人生になってしまうのではないかという印象を持った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実はそのように感じるのは、日頃私たちが今この瞬間に満足できてないことを解決するために、未来に希望を託して生きているからなのです。

今はお金がなくて貧しいけれど、いつか仕事が順調になったあかつきには、欲しいものを沢山買ってやる、というように未来に期待することで今を何とか乗り切ろうとするのですね。

今までは自分は臆病で人間関係もうまく行かなかったけど、あの能力開発セミナーを受けて、きっと積極的な自分に変わってみせる。そうして、今までとはまるで違う人生にしようと思うのです。

期待するというのは、実は足りない何かを手に入れようとする行為と同じなのです。ただ、それが今できないので未来に対して手に入れられるという期待をするのです。

手に入れることが今であっても、未来であっても、そのことで幸せな人生になるということはありません。このブログではいつも書いていますが、幸せとは永続的な心の平安なのです。

それは、何かを入手したからといって実現するわけではありません。どんなものを手に入れることができたとしても、満たされるのはほんの一瞬であって、しばらくするとまた何かが足りないという不満足感がやってきます。

勝負は今なのです。未来の何かに期待している生き方をしている限り、明日になっても来年になっても、その時になったらやはり「今」を満足することはできないはずなのです。

手に入れることを期待する代わりに、与える側になることです。今与えることにエネルギーを注いでいると、期待することから意識が離れていくのです。

期待を手放す

どこの親も愛する我が子には、いろいろな期待をするものですね。幸せになって欲しいという当たり前の期待から、立派になって欲しい、豊かになって欲しい、病気や怪我をせずに元気でいて欲しいと思うものです。

それは愛していればこその正当な期待だと言っていいでしょうね。また反対に自分勝手とも思えるような子供への期待もあります。例えば、老後の面倒を見て欲しい、親の望む進路を進んで欲しい、ずっとそばにいて欲しい等々。

期待というのは、勿論自分への期待もあります。もしも、なんらかの病気に罹っているのであれば、その病気が治って欲しいと願うものです。もっとこういう自分、理想とする自分に少しでも近づきたいという期待、ダメなところを直したいという期待もあるでしょう。

考えてみるまでもなく、私たちは日々沢山の期待を自分や周囲にし続けています。それが、人を成長させる元になるとも考えられますね。しかし、その期待があまりにも強過ぎると、人生そのものが愛のない殺伐としたものになってしまう可能性があります。

期待するということは、その期待通りの結果を望んでいる心の状態ですから、望む結果が出た場合にはいいですが、出なかった場合には何らかの不満足感が残ってしまいます。

ということは、単純に考えても、期待している場合と期待していない場合で比べたときに、期待していない方が不満が残る可能性が少なくなるということになります。でもこんな事は誰でも知っていることですね。

それならなぜ我々は期待することをやめられないのでしょうか?期待するということは、今の状態を変えたいという思い、今のままではダメだという気持ちが前提としてあるということです。

現状に完璧に満足している人が何かに期待するでしょうか?そういう人が期待するとしたら、結果がどうであれ、それには無頓着でいられるような期待の仕方をするはずですね。

例えば、人間関係がうまく行かないときに、あの人がもう少しこうなってくれたら、もっとうまく行くはずなのにというような期待をしてしまいます。そして、その期待は大抵裏切られることになって、その結果腹が立ったり攻撃的な気持ちになってしまうこともありますね。

このブログでいつも出てくる投影について思い出して下さい。あの人が自分に対してそういう態度をするのは、全部自分の内面の投影による結果だということでした。だから、あの人がもっと分かってくれたらとか、そういった期待をするということに意味はないということになるのです。

つまり、それにもかかわらず相手に期待してしまうということは、投影の結果だということをいつも忘れてしまっているということになりますね。ですから、常に投影のことを思い出すようにする必要があるということです。そうすることで、無駄な期待をしなくなることができます。

また自分の能力についても、自分はやればもっと出来るはずだという自分への期待をしているために、頑張っても結果が出なかったりすると、自己嫌悪や自己否定になって、自分を責めてしまうということがよくあります。

今の自分を徹底的に受け入れることができたら、自分への期待はしなくなるはずです。実は、私たちは元々ある欠乏感や不満足感を自分のせいにして、その辛さを頑張ってなんとか解消しようとしてしまうのです。

でもそれは絶対に実現しないことなのです。なぜなら、人間として生きている限り、欠乏感や不満足感はなくなりはしないからです。何を達成しても必ずまた出てきます。

自分の心をエゴの部分と愛の部分に分けてみて、その愛の部分では期待をするのかどうか探ってみると、どうやらその部分では期待をしていないということが分かります。

エゴは期待ばかりをしますが、愛は全く期待というものをしないのです。愛が出来るのはただただ与えるということだけだからです。エゴは、与えてもその結果を期待してしまいますが、愛は与えることそのものなので、結果については全く期待することはありません。

愛の部分を選択しつつ生活するように心がけることで、今まで無意識にしていた沢山の期待を手放していくことができます。期待しない人生がどれほど心の平安をもたらしてくれるか、是非実践して身をもって体感して欲しいと思います。

気づかない症候群 その2

昨日の続きです。

「見るな、危険!」、「考えるな、危険!」、「触るな、危険!」、「聞くな、危険!」などのエゴのレッテルが貼られることによって、我々は幸せになるための大切な事柄に気づかないようにさせられてしまうということをお話ししました。

こうした自分の力ではなかなか気づけなくさせられたものでも、セラピーなどを受けることによって、気づいていくことは可能です。

セラピーを受ける以外にも、適切な本を読んだり、セミナーなどに参加することでも気づきは得られるはずです。

私は「奇跡のコース」という本を繰り返し読んで行くうちに、自分が今まで気づかなかったエゴのレッテルにいくつか気づくことができました。

例えば、愛はすべては一つという想念ですが、その反対に自分は全体から分離した存在でいたいと強く願っているという事実に気づかされました。

しかも、自分とそれ以外の間の距離を保つために、人が罪深くあって欲しいと願っているということも分かりました。これはちょっとした衝撃でした。

罪を発明することによって、人を責めることができ、そのことで自分との隔たりを確保しようとしてきたということです。

え?と思われるかもしれませんが、どんな人でも、他人の中に罪を探したいという思いを持っているのです。でなければ、一体になってしまいます。一体になるということは人間ではいられなくなることを意味します。

気づいたからと言ってすぐにそれを克服したり、手放したりできるわけではありませんが、しかし気づかなければ現状を変える手立てがなくなってしまいます。

そのほかにも、一般的に親を憎んでいる人の心には本当は親を愛しているという部分があるのですが、これもしっかりと「見るな、危険!」のレッテルが貼られています。

自分は大変な被害に遭ったと思っている人に対して、自分は被害者ではない、という思いにはやはり厳重なレッテルが貼られています。

そして、私が「奇跡のコース」によって気づかされた最大のことは、本当の自分の姿は身体ではなく、スピリットだということです。今でもエゴのレッテルは貼りっぱなしになっていますが、それでもそのレッテルを跳ね除けて中身をみようとし続けるでしょうね。

そして、これもしっかりとレッテルが貼られているスピリットとしての記憶を、いつか取り戻したいと思っています。

気づかない症候群

よく風呂のカビ取り洗浄剤などに「混ぜるな危険」などの言葉が大きく書いてあるものがありますね。違う種類の塩素系の洗浄剤を混ぜると毒性のあるガスが発生したりすることがあるからです。

あれだけ大きく目立つようにその文字が表面に書いてあれば、不用意に混ぜてしまう危険を避けることができるはずですね。

それと同じように、「見るな、危険!」とか、「考えるな、危険!」のようなレッテルが貼ってあるところが私たちの周りには結構あるのです。それは一体誰が貼るのかというと、エゴなのです。

エゴは自分の存続にとって危険だとエゴ自身が判断したものに対して、そのような目立つレッテルを何食わぬ顔で貼っておくのです。それがエゴの防衛システムの機能なのです。

では、エゴはどんなものにそういったレッテルを貼るのでしょうか?それは例えば、思い出したら酷いことになってしまいそうな、過去の出来事の記憶や感情、あるいは、認めることができないような自分の現状や内外面。

そして、そういった自分に都合の悪いことを思い出させられそうな人からの言葉などです。そういった類のものには、ことごとく上記のようなレッテルが貼られてしまうのです。

その目立つレッテルのおかげで、私たちはほとんど無意識的にその部分から目をそらしたり気づかないようにしてしまうということです。

エゴはそうすることで自分を危険に晒さないように保護しているつもりになっているのですが、実はその前提として、自分は攻撃されうる、そして傷つけられる可能性があるという決め付けがあるのです。

それも実はエゴが作った見せ掛けのルールであり、そうやってエゴは自分を守るという大義名分を利用してエゴ自身を存続させようとし続けているのです。

でも実は、そういうところにこそ、幸せになっていく鍵が隠されているのです。つまり、エゴのレッテル貼りによって私たちはせっかく目の前に転がっている幸せに向かうための入り口を封印されてしまっているのです。

にっちもさっちも行かないと苦しんでいるクライアントさんを見ていると、本当に真っ暗な中でどこに出口を見出せばいいのか分からずに右往左往している様に見えるのですが、実はご本人のすぐ目の前に出口はちゃんとあるのです。

でもご本人にはその出口が全く見えないようなのです。その理由がエゴのレッテル貼りなのです。光への出口に「ここは危険」としっかり書かれているために、本人にはその出口があることに気づけなくなってしまっているのです。

セラピストの仕事というのは、ある意味でそういったレッテルが貼られている部分に気づいてもらうことなのですが、そのためのセラピストの言葉そのものにもそのレッテルが貼られてしまうために、効果がでない場合があります。

そうやって言葉が遮られてしまう場合には、催眠療法やヒーリングなどのように言葉に頼らないやり方、体験的手法によって、自然とレッテルが剥がれていってご自身の力でその部分と対峙することができるようになるのです。

そしてそういった場合に一番大切なのは、セラピストの愛なのかもしれません。それがクライアントさんのエゴの活動を弱める効果があるように思うからです。

視点を変える

宇宙飛行士が地球をうんと外側から見ると、暗黒の宇宙空間にポッカリと浮かぶブルーの球体のように見えるらしいですが、それを見ると人類が絶えることなく戦争を続けていることがいつもと違った感じで捉えられるということです。

あの球体の中で60億以上の人々が運命を共にして一生懸命生活しているのだと思ったら、争うことは本当に馬鹿馬鹿しいことだと思えるのでしょうね。

でもその宇宙飛行士が地球に帰還して、普段の生活に戻るとまたつまらないことに腹を立ててしまったりもするわけです。

このように視点が変わると人は同じものを見ていたとしても、全く違った反応をするものですね。このことを普段の生活の中に取り入れることによって、できるだけ心を平安に保つことができます。

視点を変えると、スケールも変わるし見る角度も変わります。例えば、人は肉体の目を使って周囲を見ていると同時に自分のことも見ています。自分の肉体の中にいるという感覚ですね。

その視点を変えて、自分から1~2メートル離れた場所から自分を客観的に眺めてみるのです。そうしたときに、自分という存在をどんな印象を持って見ることができるでしょうか?

きっといつも自分とはこうだと思っている自分像とは何かが違う印象を得ることができると思います。もしかしたら、いつもよりも優しい眼差しで自分を見れるかもしれません。

戦渦に巻き込まれている状態で、心を平安に保つなどということは無理ですね。しかし、自分は絶対に被害に遇わないと思えるまで充分に上空まで視点を移動したうえで、状態を見てみるときっと冷静な見方ができるはずです。

それと同じようにして、自分が誰かと対峙していて、何か辛い反応をしている時、悲しみや怒りにさいなまれているときに、自分と相手を上から見下ろすように視点を変えてみるのです。

そうすると、その巻き込まれている感覚からふっと抜け出せる感じがしてきます。結果として防衛体制がかなり緩んできて、エゴの作戦からはずれて冷静な自分に戻ることができたりするのです。

そこで、いつもの赦しの作戦を実行すればいいのです。このようにいつも自分の視点を工夫して、心の余裕を取り戻すことを心がけてみることはとても大切だと思います。

決心する力

私たちは時々、いろいろなことを決心します。明日からダイエットしてスマートになるぞ!とか、毎日3時間は勉強して志望する学校に合格するぞ!とか、小さくてかわいい決心から、とても大きくて重い決心まで様々です。

何かを決意する、決心するその力というのは、我々の心に備わっている生まれつきの力なのです。私たちは、自分の心が持っているパワーというものを軽く見ている傾向があります。

しかし実は心の力というのはとても強力なのです。投影のことを思い出して見てください。そのパワーがどれだけのことをしでかすのか、本当の自分の心のパワーを恐れているとも言えるのです。

人は小さな子供の頃にも決心することがあるのですが、その頃に決意してしまったことというのは、その後の人生にとても大きく影響するものです。

例えば、泣き虫な自分がいやでたまらくて、ある時にもう自分は絶対に人に泣き顔を見せないぞ!と決心したような場合、その後の人生で大人になっても素直な感情表現ができなくなってしまうということが起きます。

大人の自分はもう涙を見せることはそんなに恥ずかしいことではないと頭では分かっていても、子供の頃の決意が邪魔をしてしまって感情が出せないままになってしまうのです。

子供の頃の決心がなぜそれほど重い決意となってしまうのかというと、その時点での本人がかなり追い込まれた精神状態であったからです。

その理屈で考えると、大人になった我々が決心することでも、どれだけ追い込まれた心の状態で決意するかどうかが、その決心の重さを左右するということが言えますね。

自分の人生にとって、好ましい決心と好ましくない決心とがあるということも容易に分かります。私は大病をしてしばらくした時に、もう自分のしたくないことはしないぞ!という決心をしました。

そのおかげで、サラリーマンを辞めることもできたし、自分が好きな今の仕事に変わることもできました。ですから、追い詰められるということは、とても重大な決心ができる大チャンスでもあるのですね。

今の自分は、『奇跡のコース』のレッスンを毎日続けていく!という決心をしています。それは、自分の人生にとってこの上なく好ましい決意ではないかと思っています。

みなさんも自分の心の力を見くびらないで下さい。あなたが本当に決心したことは、必ず実現することができます。何を決心するべきなのか、心を静かにしてじっと感じて見てください。必ず何かが見えてくるはずです。

『決心する力は自分自身にある』です。

心を鍛える

私たちは毎日のジョギングや水泳、あるいは専門的なトレーニングによって肉体を鍛えることができることは知っています。アスリートと呼ばれる人達はその代表者でもあり、目的別に高度に鍛えられた肉体を持っていますね。

それと同じように、心も鍛えることができるのです。心に必要な栄養を与えながら、毎日のたゆまぬ鍛錬によって、少しずつ心が鍛え上げられていくということです。

身体を鍛える目的というのは、もしかしたら人によって全く違うかもしれませんが、心を鍛える目的はたった一つと言えます。それは幸せになっていくためです。

心を鍛えるといっても、筋肉のようなもので心を固めて頑丈にするということではありません。忍耐強く、我慢強い心を育てて屈強な人物になろうというわけでもありません。そんなことをしたら、エゴの思う壺です。

私は『奇跡のコース』を学んでいく中で、この本の教えというのは、幸せになっていくための心の筋トレなのだということがはっきり分かりました。それも本来の心を取り戻すための訓練なのです。

私たちの心は本来とても柔軟なはずです。大人よりも子供の方が自由な発想ができるとよく言われますね。それは成長して自立していく過程において、エゴが立派に育ってしまうために非常に偏った狭い考え方しかできないように、エゴによって教育されてしまうからです。

幼い子供はエゴがまだ未発達であるために、自由な心をもっているということです。ですが、大人になっても実は私たちの心は本来の柔軟さを完全に失ってしまったわけではありません。心を鍛えるとは、意図的に生活することによって、心が元々持っている心そのものの特質に合った方向へ向かわせてあげるということです。

私たちの心は本来愛のかたまりのようなものであり、それはスピリットである実在とつながっています。『奇跡のコース』では、心の本来の働きというのは、その愛を与え続けることだと教えています。

そして、そのためには、エゴに縛られて身動きできなくなってしまった心を本来の働きができるように開放してあげることが必要です。そして、それを実現するためには、ただボーっと生きているだけでは何も変化は起きません。

そうではなくて、瞬間瞬間に、自分の心が愛を与える方向にむかうように常に調整してあげる必要があるということです。そしてその方向の調整は心の中の愛の部分に任せるのです。

何かを選択する場合には、心の中の愛の部分に判断を委ねるという習慣をつけることです。こうしたことは、トップアスリートたちが、その種目にとても大きな情熱を傾けて鍛錬しているのと全く同じように、心を鍛えて幸せになるということに強い意欲を持つことが必要だと思います。

心の中の愛の部分にいちいち伺わなくてもできることもあります。例えば、なんらかの怒りを感じた時には、どんな怒りにも意味はない、それは単にエゴの策略だとして瞬時に怒りを静めるのです。そして、赦しの作戦を開始します。

こうしたことをいつも忘れずに実行することです。エゴにそそのかされないでいることができると、怒りはふっと消えていくことを実感することができるようになります。

こうしたことを実践していく上でも、はっきりと心のトレーニングなのだとして、それに毎日のエネルギーをつぎ込むだけの並々ならぬ思い入れが必要かもしれません。

でも本当に幸せにしか価値はないし、幸せになりたいという素朴な気持ちさえあれば、心を鍛えていくことはむしろ楽しいことであり、それがうまくできた時には大きな喜びになっていくはずです。

アディクション その2

昨日の続きです。

アディクションはそれに嵌ってしまった自分を赦すことで抜け出せるというお話しをしました。その具体例を少しご紹介します。

女性に多いアディクションの代表的なものとして過食というのがあります。過食は誰にも迷惑がかからずにでき、なおかつ誰にも見つからずに一人で簡単にできてしまうので、とても多くの女性が陥るアディクションの一つです。

友人のある女性が、昔からずっとひどい過食に悩まされ続けていたのですが、なんで自分はこんな子供じみたことを延々やりつづけるのかと、過食するたびに自分を叱ってきたのです。

ところが、ある時にもう酷すぎて完全にお手上げ状態になったときに、もう好きなだけ過食していいよと自分を赦す気持ちになったらしいのです。

そうしたら徐々に過食をしてしまうことが少なくなっていって、今ではほとんどしないでいられるようになったということです。

自分を赦して、過食を許可してしまったら、益々ひどくなってしまうのではないかと思って、怖くて許可するということができなかったらしいのですが、実は赦すということが最大の効果があったということを身をもって経験されたのです。

実は過食をさせているのは、大人の自分ではなくて幼い頃の自分の満たされない思いなのです。だからその行為は子供じみているわけですね。

ですから、赦すということはその幼い子供の行為が不満を訴えたい気持ちから発生しているということをわかってあげて、その子供を丸ごと赦してあげることによって、子供の気持ちが安らかになり、アディクションをする必要がなくなるのです。

赦すということは愛を与えるということと等しいのです。だからこそ、愛が足りないとして訴えていた自分のインナーチャイルドが愛に包まれて穏やかな気持ちになれたときにアディクションを手放してくれるのです。