隣の騒音

私たちは一般的に騒音と聞くと、あまり好ましくない、どちらかというと悩みの種であると感じていると思います。場合によっては適度な騒音があった方が安心するということもあるかもしれませんが。

心穏やかに大好きな本を静かに読んでいるときに、隣の部屋あるいは家から騒音がしてきたら、きっといやだなと思うはずですね。夜寝ようとしているときにだって、騒音が聞こえてきたら困ったなと思います。

しかし、気が付いたら騒音のことを忘れて本を読み続けていたということや、うるさいなあと思いながらも寝入ってしまったということがあるはずです。

また逆に、どうしてもその騒音が気になって読んでいた本を置いて、この騒音を何とかやめさせたいと思ったり、とても寝れなくなってしまい、怒りが湧いてきてしまうという場合もあるはずです。

このように、気にしないでいられる場合と、そうでない場合の違いは何なのでしょうか?一つはその時の自分の精神状態がとてもいい場合、心が寛大になっていてこの程度の騒音なら受け流せるということがありますね。

この場合は、自分の心の中のエゴの活動が小さくなっている状態であるために、ネガティブな反応があまり出ないということなのでしょう。

そして、もう一つには騒音のレベルというものが影響するでしょう。どんなに心がいい状態であっても、あまりにも大きな騒音であればやはり拒絶的な反応をしてしまうのも当然と言えます。

この隣からの騒音を仮に自分の心の中のエゴだと思ってみて下さい。そして、エゴが激しく活動するというのは、この騒音の音のレベルが大きくなるということを意味します。勿論これは比喩ですが。

騒音が激しくなるに従い、私たちは冷静さを失っていくことになりますね。これを解決する方法は二つです。一つは、騒音の元となるところに出向いて行って、それを静かにさせるというやり方。もう一つは、何とかして自分を平静な状態に保つように心がけて、騒音の誘いに乗らないようにする。

前者の方法が、通常のセラピーのやり方です。後者が「奇跡のコース」の教えの方法なのです。前者の方法は、騒音つまり問題の箇所を真っ直ぐに見据えて、それと対峙することによって、解決しようとするやり方です。

心の中に過去の怒りなどの感情が渦巻いていたら、そこから逃げずに対峙してその感情を開放していくわけです。そうすることによって、騒音のレベルが下がっていくということを期待することができます。

ただ、人間である以上感情がなくなるということはありませんので、騒音は少しずつ小さくはなりますが決して騒音自体が聴こえなくなるということはないのです。

一方、後者の方法は騒音は錯覚だとして赦していくということです。この方法は一見突拍子もないやり方のように感じますが、訓練していくうちに次第に身についていくようです。

聴こえるものはどう考えたって聴こえるじゃないかと思うのは当然ですね。ですが、その騒音も実は自分の投影なのだということです。自分の投影だと思えば赦しやすくなりますね。

また本当に集中すると、かなりの騒音でも聴こえなくなるという経験をしたことはありませんか?

以前サラリーマンをしていた頃、仕事に集中しているときに誰かに声をかけられてビクッとしたことが何度もありました。誰かが自分のところに近づいてくる気配や音が聞こえない状態になっていたのだろうと思います。

騒音を気にしなくする上記の二つの方法のどちらが自分に合っているのか考えてみて下さい。私は個人的に、それぞれの方法を併用してみるのが効果的ではないかと思っています。

ただ、前者の方法をいつまでも繰り返すことはお勧めできません。それは、実は騒音はあるということを前提としているからです。これはエゴの作戦に乗ってしまっているということになりますね。

最終的には、投影だとして赦すことが完全に騒音から自由になる唯一の方法だということを覚えておいて欲しいと思います。