我に帰る その2

今日朝目が覚めたときにとてもいやな夢を見たなと分かりました。それは、何かとんでもなく恐ろしいケダモノのようなものに追いかけられている夢です。

その夢の中で、どのように逃げたら自分は安全なのかということを真剣に考えながら、逃げ惑っているという夢なのです。

夢から醒めてその内容を思い返しているときに、とにかく冷静さを失っていたなあと言う思いがふつふつと涌いてきたのです。

あの時は、夢の中のこととは言え、1ミリたりとも冷静になることを思い出さなかったなと。我に帰るという精神状態にはなれなかったとはっきり分かるのです。

そして実は、夢の中ではもう100%の確立でそのような状態になるのです。決して、夢のなかで我に帰ることができずにいるのです。

このことがはっきりしているので、自分としては夢の中で何とかしてこの現実のように我に帰るということをさせたいと強く願っているのです。

でも未だにそれを実現できたことがありません。そのことを思うと、もしかしたら死んだ後でさえも、夢と同じように何かに乗っ取られたようになって、我を忘れてしまうのではないかと想像ができます。

だとしたら、我に戻っていることができる、この現実の世界だけが頼りだということになってしまいます。きっと、そうなのだろうなと最近分かるようになってきました。

だから、たとえ死んだとしても何の解決にもならないということなのでしょう。この世界で、この現実を生きているとしても、我を忘れて日々を送っている人が沢山います。

是非、一度立ち止まって下さい。そして、我に帰るということを経験して欲しいのです。しっかりと、立ち止まることができれば、それはそれほど難しいことではありません。

我に帰ることさえできれば、その後はどうにでもできるのです。いろいろなことのからくりが判明してくるはずです。そして、何も解決しなくてもいいのだということさえ気づくことができるのです。

執着を手放す?

もう10年以上前のことですが、ある会場で執着を手放すためのワークというのを多くの人と一緒にさせられたことがありました。

それは自分がいつまでも執着し続けていると思われる対象をイメージして、それを目の前の台の上に置いておき、それを少しずつ向こう側の崖に向かって押していって最後にはその崖へと突き落とすというものでした。

私は、その時にとても手放したくないある対象を一生懸命、自分の手で押していったのですが、最後に崖から落ちる寸前になったときに、手を差し伸べて引き戻してしまった記憶があります。

なぜこんなワークをやったのか、その時の講師の人に聞きたいくらいですが、今ではこうしたことは全く意味のないことだと思うようになりました。

意味がないだけではなくて、やればやるほど執着が残ってしまうはずだと分かるのです。つまり、執着というものは、それを手放そうと思えば思うほど、執着するということです。

それは、ちょうど寝ようと必死になればなるほど、寝付けないという情況と同じだと考えてもらえば分かりやすいと思います。

こうしたことは、いくらでも似たようなことを探し出すことができます。例えば、努力しないようにと努力してしまったり、リラックスするために奮闘する、あるいは静寂さを求めて必死になるなど。

客観的に見れば笑ってしまうようなことですが、当事者ともなると一生懸命であるためにそれがどれほど滑稽なことかは、気づくことができないのです。

自分を改善しようと思えば思うほど、思ったように改善していかない自分を責めてしまったりして、結果として罪悪感を深めてしまうことになるかもしれません。

つまるところ、意図的に自分のことをもっと何とかしようと思わないほうがいいということです。それでは向上することができなくなってしまうと心配されるかもしれません。

そうではなくて、楽しみながら好きなことをやっていくことの副産物として、思わぬ改善が起きるかもしれないという予想外の結果を楽しみにする程度のほうがいいということです。

いずれにしても、まずは自分は本質的には変わらないのだということをはっきりさせることです。その上で、より興味のある方向へと自分の意識を向けるようにすることの方が効果的なのです。

世界を見る一つの目

カラッとしたいいお天気の日が続くと、もうだいぶ昔のこととなってしまった小学生の頃の夏休みのことを思い出しますね。当然のことながら、夏休みは大好きでした。

暑い夏が好きというだけではなくて、学校に行かなくていいということが自分としてはなにより嬉しいことだったのです。ここまでは普通の小学生と同じかもしれません。

自分の場合には、どこかに行きたいという意欲というか気持ちがまったくなくて、ただ何もせずにじっと家にいるのが好きという変わった子供でした。

子供の頃から何もしたくないし、どこにも出かけたいとは思わないという子供でした。何年生の時だったかは忘れましたが、一度だけ夏休みの期間、つまり40日間どこへもでかけなかったことがありました。

毎朝、ラジオ体操をするために学校に行くだけで、それ以外は全く外出さえしなかったという記憶があります。よく言われる引きこもりの子供だったわけではないのですが、外出する理由がなかったということです。

そうした傾向が今だに続いていて、どこへも行く理由が自分の中にないのです。行ったら行ったで楽しかったりもするのですが、誘われない限りは用事がなければどこへも行きません。

ただ、最近は一つだけ行きたいところができました。それは、どこという具体的な場所ではないのですが、四方八方が大自然に囲まれていて、視界ができるだけ広がっているところに行きたいのです。

そこに行ったら、きっと自分がこの二つの目で外を見ているのではないということを、今よりももっとはっきりと感じることができるのではないかと思うからです。

誰もが、本当は無限に大きな一つの目で外の世界を見ていると気づくことができるはずです。その目は色も形もなくて、外の世界をまるごと抱きかかえているようなものです。

それこそが、本当の本当の本当の自己であるという気づきなのです。

○○な奴がいる

私たちは、自分の身体が一つであるように、心も一つであると信じています。一つであるからこそ、一人の自分でいられると思っているのです。

ところが、確かに心は一つであると言っても間違いではないのですが、一つの心の中にはそれこそ沢山の意識がうごめいているのです。

それは、百個と言っても二百個と言ってもいいくらいに、様々な意識があって、それぞれに全く異なる思いや主張を持っています。

右に行きたいという意識がいれば、その反対に左に行きたいと主張する意識がいると思って間違いありません。

今日は仕事を休みたいという意識があれば、絶対に行かなければならないと思っている意識があるということです。

つまり、心は一つであるとしても、その中には互いに合い譲らない意識があって、どちらが勝つかはその時になって見なければ分からないのです。

この互いに譲らない相対する意識を持っていることを葛藤と呼ぶのです。この葛藤を経験したことがないという人はまずいないでしょう。

どんなに心を癒していったとしても、そうした意識の断片がいなくなるということはありません。むしろ、癒すことによって抑圧して隠していた意識に気づくようにさえなるのです。

本当の自分の意識とは、こうした意識の断片とは異なり、何かを声高に主張することのない中立な意識なのですが、意識の断片を放っておくことによって本当の意識を乗っ取られてしまうのです。

そうすると、さっきはこう思っていたはずなのに、今は違うことを考えているというように、自分の意識や思い、あるいは感情がコロコロ変化するという状態になってしまいます。

センターの中立な自分の意識をしっかり中心に据えることができれば、こうした不安定な状態から脱却することができるようになるのです。

そのためには、中立な自分の意識を使って、沢山の意識が訴えてきたときにすべて、受け入れて深く共感してあげることが必要になります。

これを実践すればするほど、中立な自分が育ち、不安定な心を安定したものへと変えていくことができ、それが結局は成熟した自立的な心へと育っていくことになるのです。

例えば、「お腹が空いたなあ」と思ったら、すかさず、「お腹が空いた~と思っている奴がいる」という具合に三人称にしてしまうのです。

どんな場合にも、そうやって○○な奴がいるというようにして、中心の自分がその意識を受け止めて抱きしめ、十分に共感してあげることで、言いなりにならなくて済むようになるのです。

是非、日々実践することをお勧めします。そうやって中立な自分は心の中の誰の言うことも聞かずに置くことができるようになり、結果として明け渡す方向へと進んで行くのです。

自己表現の抑制

以前からこのブログでは何度となくお伝えしていることですが、自己表現(感情表現も含めて)を抑える4つの要素があるというお話しをしてきました。

それは、恐怖と、罪悪感と、可哀想という気持ち、そして理屈です。この4つが基本であり、それらを複数同時に使って抑制する場合もあります。

そして今回それにもう一つの方法を追加してお伝えするのですが、これは要素というよりも本当に方法とか方策と呼んだ方がいいものです。

それは、表現するネタを一瞬にして忘れさせるというものです。これは、自己表現を抑制するための最終手段とも言えると思います。

上記した4つの要素というのは、心理的にはそれなりになるほどと頷けるものですが、この方法はとても強引というか、なりふり構わないやり方であると感じます。

本人がどう思おうがそんなことはお構いなしに、とにかくこれ以上直接的なやり方はないと言ってもいいくらい、露骨な方法なわけです。

本人の感覚としては、いきなり頭の中が真っ白になったような、今まで持っていた材料が突然消え失せてしまったように感じるはずです。

例えば、あがり症の生徒が先生に急に指されて、質問に答えるように促されたような場合に、何も考えられなくなってそのまま口から何も発せずに押し黙ってしまうということがあります。

他の生徒からすると、なぜ何も言わないのか不思議に感じるかもしれませんが、本人としては頭の中がパニックになってしまったようで、思考が正常に働かなくなってしまうのです。

こうした事態になるのは、何も言わずに自己表現をストップすることで、自分を守ろうとする自己防衛のメカニズムが働くからです。

自己表現を徹底的に妨害しなければならないという、凝り固まった強い意識が本人の心の中に出来上がった結果であるわけです。

このような、理性を直接コントロールするような自己表現の抑制に対しては、繰り返してそうした自己防衛をしなければならなかった幼い頃をつぶさに見つめることが必要です。

かならずその理由を見出して、そのことによって蓄積してきた自己犠牲についてもそれを正面から見つめて、感情を開放していくことがとても大切だと思います。

問題を作りたい意識

私たちの毎日は、何かしらの問題らしきものを見つけては、それを何とかして解決しなければならないと思って生活しているのです。

何かを改善しなければ、このままではうまくない、何とかもっとできるように、この問題を片付けなければ次へ進めない、こうしたことのてんこ盛りの中で生きているのです。

それを解決することができたら、きっと今の生活の不満は軽減されて、より満たされた人生になるはずとの期待を持っています。

そうした期待があるからこそ、解決、改善を繰り返すのですから。しかし、よくよく現状を見てみると、実際はどうなのでしょうか。

あれが解決したと思ったら、次にはこの問題が持ち上がってしまった。この問題を解決することができたら、別の懸案事項が出てきて、今保留になっているなど。

考えて見れば、この連続だということが分かります。いくらこれを繰り返したところで、満足するところに到達することはありません。

だからといって、手をこまねいて何もせずにじっとしているわけにもいかないでしょう。結局人生とはそんなものだよと半ばあきらめて、合いも変わらず問題を解決するべく戦っていくことになるのです。

本当にそこから抜け出る方法はないのでしょうか。実は、問題が次から次と出現してくるのは、仕方ないことではなく、自分の中にそうした問題を作りたがっている意識があるからなのです。そのことに気づくことです。

何も解決する必要のある問題がなければ、困ってしまう自分がいるということです。なぜなら、解決することで人生をまっとうできると信じているからです。

本当の人生とは、問題を解決することにあるのではありません。問題など、本当はないのだということに気づくためにこそ人は生きるのです。

それに気づけば、何かを改善しようと躍起になることもなくなるし、どんな自分にでもOKを出していられるようになります。だからといって、純粋な向上心がなくなってしまうわけではありません。

ただそうしたいという意欲から、人は動くのですから。今を否定せずに、進んでいくことはいくらでもできるのです。もう、これ以上問題を作る必要はないと自分に伝えてあげてください。

そして問題の解決は、問題を作り続けたい自分と同じレベルには存在しないことを知ることです。すべてを受容する本当の自分に気づくことで、一瞬にして問題が消滅してしまう経験をすることです。

新鮮な気持ち

夕べ食事をしながら久しぶりにテレビを観たのですが、それが若い頃から大好きだった恐怖番組の類だったのですが、驚くほど映像がリアルなものでした。

最近あまりそういった番組をテレビでやらなくなったなあと思っていたのですが、本当に久しぶりに観たその番組は強烈でした。

沢山の映像を順次紹介してくれるのですが、今までに見たことがないくらいにはっきりと不可思議な存在が映っているものばかりでした。

その中でも群を抜いて驚いたのは、確かロシアの映像だったと思うのですが、お母さんと女の子がいるのですが、その娘さんが結構な高さに浮いていて身体のバランスを取っているという、不思議な映像。

お母さんは何事もない様子で我が子を見上げているのですが、何とも説明のつかない映像でした。誰かに撮られていると分かった瞬間に、二人は逃げるように去っていってしまいましたが。

奇跡のコースでは、この世界は本質的には幻想であると言っていますが、それでもこの現実で毎日暮らしている私たちにとって、そんな不可思議なことが起きていると思うと、その正体を是非知りたいと思ってしまいます。

しかし、よくよく考えて見れば、自分がこうして生きているというただそのことだけでも、怖いとは思わないまでも、実はとても不思議なことだと思えてきます。

自分はいなくてもいいはずなのに、というよりいない方が十分にあり得ることだと思えます。それが、どうしたわけかこうして生きているのですから。

モノが見えることも音が聞こえることも、何かに触れられることも不思議だなと思えば、これほど不思議なことはありません。

得体の知れないことは恐怖を呼び起こしますが、十分に慣れ親しんだものは、怖くはありません。それでも、その不思議さについては決して色あせることはないと思うのです。

あり得ない不思議な存在である、一人ひとりのことを貴重な存在として目を丸くして見つめる態度でいつもいたいなと、そうすれば常に新鮮な気持ちのままに生きることができると思うのです。

自分を憎む意識

ごくたまに、自分のことを心底憎んでいる人がいます。これは、単なる罪悪感という言葉では言い表せないくらいに、感情が歪んでいるのです。

思い切り否定しまくりたいし、惨めで情けなくてどうしようもない矮小な自分がいて、どこからも助けてなどあげる気もしないひどい自分なのです。

地球上に住んでいる人類すべての中でも、相当に下位グループに属しているくらいにどうしようもない自分を感じているのです。

なんでそれほど、自分を憎むようになってしまったのか、その憎しみさ加減はすさまじいものがあります。でも冷静に見つめて見れば、意外にシンプルな理由があるということに気づきます。

自分を蔑む気持ち、自分なんて最低で駄目な奴だと思っている意識というのは、実は自分を守ろうとする自己防衛の一つなのです。

以前からこのブログでもお伝えしているのですが、怒りなどの感情を含めて自分の本音を隠そうとするときに、いくつかの方法があるのですが、その一つに罪悪感があります。

自分をどうしようもない駄目な存在なのだと信じることによって、本音をしまいこむことができるのです。他にも、相手への恐怖や相手が可愛そうと感じる気持ちなども本音を抑え込む力があります。

その中でも、激しい自己嫌悪、自己否定、罪悪感によって、怒りを覆い隠そうとすることはそれほど稀なことではありません。

異常なほど自分自身に対して、激しい憎みの気持ちを持っている場合、それによって他者への強烈な怒りを感じなくするという大きな目的があるということです。

簡単に言えば、誰かへのひどい怒りを抑え込むために、その怒りの矛先を自分に向けてしまった状態であるとも言えるのです。

だからこそ、そうした人の怒りは尋常ではないくらいに大きなものとなっていることが多いのです。私が怒りを開放して欲しいと思っても、ひどい自責の念に邪魔されてそれが叶わないという事態に陥っているのです。

それでも、少しずつあきらめないで感情を味わう練習をしていくうちに、どこかからヘルプがやってきて本当の感情を味わうこととなります。

自分を思い切り責めてきたと実感している方、もしも思い当たるという場合には、本音をみないようにするためだったのだということに気づくことが大切なのです。

文句を言いたい意識

何年か前に家族でハワイに行った事があるのですが、その時に馬に乗って自然の山の中を一時間くらいかけて歩いてくるというアトラクションに参加したことがありました。

勿論どの馬も全くの素人がまたがっても大丈夫なように訓練されているのですが、どういうわけか、自分が乗った馬だけが大柄でとてもわがままな気性だったのです。

またがってすぐに、勝手に餌を食べに行ったり、道端で列から離れて自由に行動してしまったりと、とにかくみんなと逸れることしきり。

素人ながら、手綱を引いて方向を転換しようとすると、後ろを向き直って、「それ、やるな!」と鼻を鳴らすのですが、その声にびっくりしてしまったのです。

こんな馬に当たるなんて、なんて運が悪いのだろうと思っていると、あまりにもその馬の態度が悪いのを係りの人がみて、鞭を打つと今度は勢いよく走り出してしまうのです。

それがとてつもなく初めての自分には怖くて、途中で怒りが爆発してきてしまいました。ゴールが近づくと、それまで緩慢に歩いていたその馬は、急に水を目掛けて走り出す始末。

どうも、自分はこのような場合に運が悪いという自覚があるのです。なぜだか知らないけれど、文句を沢山言いたくなるような、情況にはまり込むのです。

家でご飯を食べるときに、時々アサリやシジミの味噌汁が出ることがあるのですが、どうしたわけか、ジャリっと音がして砂が口に入ることがよくあるのです。

自分以外の家族にはそのようなことはあまり起きないのですが、自分だけがそうした目に遭わされてしまうのですが、これは偶然なので仕方がありません。

実は、他にもこうした自分だけが理不尽な思いをすることになるというパターンには、昔から気づいていたのですが、理由が分かりませんでした。

でも今ではその理由については、はっきり分かっています。その理由はたった一つ、自分が人一倍文句を言いたい意識が強いからなのです。

だから自分で文句を言える事態を引き起こしていたということですね。もしも、似たようなことに思い当たる人がいるなら、このことをしっかり受け止める必要があります。

そして、起きたことをそのまま受け入れることができるようになると、そうした理不尽な体験そのものが格段に減ることになりますよ。受容することですね。

苦悩の原因

とても沢山のクライアントさんがそれこそ様々な問題を抱えて、それを何とか解決しようと決意して、勇気を持ってセッションに来て下さるのです。

その勇気を私はとてもすばらしいと思わずにはいられません。なぜなら、見ず知らずの私ごときにみずからそれを暴露しなければならないのですから。

でもその勇気は、すぐにではないにせよ、いつか必ず報われるときが来るものです。人は向き合っただけのことはあるということですね。

お話しをお聞きしたり、外見や状態を見させていただいただけでは、そのクライアントさんの本当の苦悩や痛みを推し量ることなど、決してできません。

私は、まつ毛が目の中に入ることがよくあるのですが、自覚としてはとても辛くて、うっとうしくて、痛くて何とも我慢がならない状態になります。

仕方なく、洗面所の鏡に向かってしばし奮闘した結果、そのまつ毛を取ることができたときに、実はびっくりしてしまうのです。

それは、目の下側に生えていた、本当に産毛のような細くて小さなまつ毛だったりするわけで、こんなに小さなやっと目で確認できるくらいのモノにこれほど翻弄されていたとは。

あれだけ自分にとっては重大なことだったはずなのに、その原因を見つけることができたら客観的にはくだらない小さなまつ毛だったわけです。

こうしたことと同じようにして、クライアントさんの苦悩の原因を探っていくと、外側からみたらそれほど大したことではないと思えるようなことでも、ご本人にとっては大変な苦しみという結果になっていることがあるのです。

人とはそういうものです。原因がどんなものであるにせよ、結果が本人にとってどのようなものとして知覚されるかで、その苦しみが決まるということです。

だからこそ、セラピストは安易にクライアントさんの苦悩を判断することはできないのです。誰もが固有の苦しみと戦っている、そのことを真正面から受け止めて差し上げる必要があるのです。

そして、こうしたことは普段の何気ない人間関係についても同じことが言えると思います。相手の気持ちを判断する前に、十分に相手の苦悩や痛みを受け止めることを心がけられるといいと思います。