以下の osho の言葉は、自己探求を続ける自分に対して、ガツンという一撃
のように響きました。
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‘この空なる世界に現われる見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’
これはひとつのビージャ・マントラだ。
実に、実に深いメッセージだ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。
あなた方にどうやって、真理を捜すことができよう。
あなたが真実ではないのだ。
そのあなたに、どうやって〈神性なるもの〉を捜しに行くことができる。
どうやって、捜すのかね、何をするというのか。
せいぜい、あなたの思考(マインド)がまやかしを演ずることになるだけだ。
せいぜい、「真理」を投影することになるだけだ。
だが、真理はヒンドゥー教でもなければ、キリスト教でもない。
真理はクリシュナでもなければ、キリストでもない。
それらは形態、衣に過ぎない。
そしてもし、未だにその衣が自分の所にやって来ているのだとすれば、
それは、その人が キリスト教とか、
ヒンドゥー教という自分の意見でいっぱいだということ、
自分を投影しているということだ。
僧?(ソウサン)は「真理を求めることはない」と、言う。
あなたには捜せない。
どうやって捜せる。
あなたには用意ができていない。
思考(マインド)があるからだ。
誰が捜すのか。
探求とはすべて思考(マインド)のものだ。
あらゆる探索は思考(マインド)からやって来る。
意識は決して求めない、決して捜さない。
意識はただあるだけだ。
それは存在だ、欲望ではない。
探索は欲望だ。
あなたはこの世で富を、権力を、 地位を捜し求め失敗した。
今度は神を、真理を求めている。
しかし自分は同じままだ。
何ひとつ変わっていない。
ただ言葉が変わっただけだ。
以前は権力だったが、今は神だ。
しかし、 あなたは同じ探求者のままだ。
真理は捜せない。
逆に、あらゆる探求がやんだ時、真理があなたの扉を叩く。
探求者が、もういなくなった時、真理があなたの所にやって来る。