エゴの癒しから自己探求へ

セラピストの仕事を始めてしばらくしてから、コツコツと書き溜めたコラムがあります。勿論今でもルシッドのホームページ上にそのまま掲載してあります。

そのコラムも、もうすでに書かなくなってから多分4年くらいは経っていると思います。そのくらい、ある意味放置してしまっているということです。

これは、サボっているということではなくて、自分の中である種の変化が起きたために、書こうという気持ちがなくなってしまったというのが本当のところです。

コラムに書いていたことは、概ねエゴのレベルでの癒しに関することでした。そのことに疑問を持ち始めたために、すっかりコラムから遠ざかってしまったのです。

けれども、今だにコラムを読んで、ピンときてセッションに来たと言って下さるクライアントさんもいらっしゃるのも事実なのです。

したがって、癒しの入り口としては、たとえエゴのレベルであっても、私がずっとやってきたような心理療法というのは、必要なのだと思います。

人はどれほど真理に近いことに気づいたとしても、やはりエゴとして生きているのです。したがって、エゴをエゴとしてしっかり見るためには、エゴの領域での癒しが必要なのですね。

部屋から出て行くためには、部屋のなかを歩いて行って、ドアを開ける必要があるのと同じです。部屋を通らずに外に出ることは不可能なのです。

そしてここからが更に大切なところですが、外に出るために部屋の中をグルグル回ってしまっては、永久に出ることができなくなってしまいます。

部屋を歩くときには、一直線にドアを目指して歩く必要があるということです。エゴのレベルの癒しをするときにも、まったく同じことが言えるのです。

エゴを打倒するというよりは、エゴを利用してエゴの外に注意を向け続けることを忘れてはならないということです。

それが自己探求なのです。そのためには、ルシッドのコラムを読んで理解を深めることができた方には、是非こちらのブログも読んで欲しいと思っています。

母のリハビリの頑張り

母親は自転車同士の接触事故で倒れて、左足の大腿骨(股関節の部分)を骨折してから、10日間もベッドに寝かされていました。

その間、ずっと左足を錘(おもり)で引っ張っられて固定されていたせいか、手術後に判明したのですが、太ももを上げるときに使う筋肉と筋が伸びきってしまったようです。

ちょうど、古くなったゴムがだらしなくビヨ~ンと伸びて、縮まなくなってしまったのをよくみかけますが、あれに似ているかもしれません。

老人の身体というのは、本当に弾力がなくなってしまうものなのですね。きっと若い身体であれば、すぐに回復することができたのでしょうが…。

筋肉の力というのは、縮むときに発揮されるので、伸びきって縮まなくなった母親の筋肉では、いくら本人が頑張っても思い通りには足を上げることができないのです。

それでも、人体の不思議とでも言えばいいのか、繰り返している間に徐々に足を上げられる距離が大きくなっていくのです。それも短時間の間に。

勿論、しばらく放っておくと、また上がらなくなってしまったりもするのですが…。筋肉も含めて、身体を正常に保つ最大の方法は、それを使い続けることなのでしょうね。

そして、もう一つリハビリを成功させる秘訣を見つけました。それは、本人のやる気を起こさせるためにも、褒めたり勇気付けたりすることが大切なのです。

母親はその点、子供のように素直なところがあるので、助かりました。私の励ましをそのままいい方向に受け取ってくれています。

昨日の日曜日は、リハビリがお休みの日なので、一日中べったりと付き添って、歩行器で病棟のフロアを何度も歩きました。

看護師さんたちも、みなさん「えらい、えらい!」と声をかけてくださいます。それも、精神的ケアに一役かってくれていると思います。感謝ですね。

「喪失」よ、いらっしゃい!

2008年の秋から、奇跡のコース・テキストを読み出して、同時にワークブックを毎日実践し出したので、それからもう丸四年が経とうとしています。

コースと向き合うようになって、一番ショックだったことは、教師用マニュアルに書いてあったことが、自分に該当するのではないかと思えることがあったからです。

それは、コースと係わるようになった人の身に起きることについて、いろいろと述べてあったのです。その中でも、大切なものを喪失していくケースがあるということ。

何となく、それは自分のことを言っているのではないかと、直感したのを今でもはっきりと覚えています。

そして、そのことがやっぱり当たっていたんだろうなということが、最近はっきりしてきたのです。執着しているものを手放さざるを得ない状況がやってくるということです。

どうでもいいものを失っても、人は何のショックも受けませんが、大切なもの、ずっと一緒に在りたいと思っているものを失うと、激しい喪失感を感じるのです。

この一ヶ月強の間に、いろいろなものを喪失したような気がします。今これを書いた時点で、まだまだ甘いよって誰かが言ったような感じがしました。

喪失は、自分にとってとても大事なことなんだろうということを、薄々感じてはいるのですが、こうも明確に連続して起きてくると、何かの作為を感じざるをません。

といっても、作為するナニモノもいないということも承知しているので、身勝手な心の反応をただしているだけだということも分かっているのです。

喪失が続くと、コントロールなどできないということを身をもって知らしめてもらえるのでしょうね。それと、喪失に巻き込まれる度合いが格段に小さくなってきます。

これはとてもありがたいことだと思うのです。人情としては、もうこの辺で終わりにして欲しいと思うのですが、それも神のみぞ知るということなのでしょうね。あきらめます。

すべてが完全にお膳立てされた日々を生きる

昨日は、お昼過ぎから夜8時を越えて、ずっと入院中の母親と一緒にいました。病院では、勿論必要なすべての処置をしてくれています。

それでも、今リハビリが始まって一週間というときに、自分にできることがあればあらゆる協力をしてあげたいというのが本音なのです。

運良く、病院はここ吉祥寺からクルマで20分程度の距離のところにあるし、仕事の予約はほとんど入らない日が続いているため、毎日母のところへ行くことができるのです。

生まれてこの方、自分は家族も含めて誰かの世話を丸一日やったことがなく、子供が生まれたときも概ね奥さんと母に任せていました。

それが今回、初めて母親のためだけに一日近くを使うという経験をさせてもらっていて、本当にそれをありがたいことだと思えるのです。

理性では、何だか一日中生産的なことをしていないし、ただ昨日よりも10cmだけ足が上にあがるようになったということに単純な喜びを感じるだけで、こんなこともありかぁと思うわけです。

けれども、大切な人への恩返しをどうやったらいいか分からないでいたのが、ようやくほんの少しだけそれをさせてもらえるチャンスが廻って来たんだなと感じるのです。

すべてが完全にお膳立てされているという、身勝手な感覚がやってきています。こうして、母親自身が身体を張って私に恩返しの機会を与えてくれたのだと思うのです。

歩ける、ベッドから起き上がれる、というこんな当たり前が、いかに恵まれたことなのかということにも気づかされる日々を過ごしています。

病院で母親と一緒に過ごしていると、瞑想のこともあまり思い出すことすらなくて、代わりに筋力が異常に低下してしまった母親の筋肉を、少しでも力づけたいという祈るような気持ちで過ごすのは、とても新鮮なものですね。

加えて、この週末は90歳を越えて元気でいてくれる、父親との時間を過ごすことになるので、それはそれでまた楽しみでもあるのです。

全体性へと消えていく恐怖

私たちは誰もが、心の奥底に全体性への回帰という願望を隠し持っています。それを愛と呼んでもいいのかもしれません。

そして、それとは真反対に、特別な個人でいたいというエゴの欲望も持っています。普段の生活の中では、このエゴの欲望ばかりが表面化しているのです。

全体性への死ぬほどの渇望というのを、エゴは最も恐れているので、一般的には本人にそれをひた隠しにしているわけです。

けれども、人は人生のある地点で、どういうわけか真の救いについて真剣にならざるを得ないときを迎えるものです。

つまり、全体性への強烈な渇望を持っているということに気づいてしまうのです。それは、言ってみれば青天の霹靂のような新鮮さと驚きを伴うものです。

そして、全体性へと近づこうとしたその瞬間に、途方もない恐怖に出会うことになるのです。それは、エゴが消滅してしまうことの恐怖です。

このままだと、残念ながら個としての自分が消えない限り、全体性への帰還を果たすことができません。

そうなったら、全体性への強い渇望とこの人生に対する暗澹たる気持ちがあるとしても、個としての自分を守ろうとしてしまうのです。

なぜなら、どれほど惨めな私であろうと、とにかく居るのですから。それならば、ほら、やっぱり個人として生きていくほうがいいだろ、ってエゴは囁くのです。

私たちは、個人としての自分が消えた後の保障を何も受け取らずに消えていくしかありません。それはとても勇気のいることだと言えます。

それならば、エゴとして生きている間に、エゴはそのままにして全体性を手に入れることができればいいわけです。

エゴが世界を見ている場所に意識を向けて見ると、個としての特徴がすべて消えてしまう自己と出会うことができます。そしてそれはいつでもここにあるのです。

そのことに完全なる信頼をおくことができるなら、全体性へと消えていくこと、つまり愛への恐怖から開放されることになるのでしょうね。

人生はいつもチャンスだらけ

長いようで短い人生、でも生きていればいろいろなことが起こります。飛び上がって大喜びするようなことや、落ち込んで塞ぎ込んでしまうようなときもあります。

そういう意味では、私の場合は、ここ最近はどちらかといえば後者のほうの部類に入るようなことばかりが立て続けに起きている感じがします。

セラピストの仕事がままならなくなって、セッションルームを去らねばならない事態になりつつあるし、先日母親が自己で骨折して大変な目に遭ったりして。

そして、昨日は自分の不注意が基で、クルマのボディを鉄柱に当てて、悲惨な状態にしてしまったりして。お金の問題というよりも、なんだか気が滅入る感じです。

けれども、この人生の主人公である自分が、起きたことに対して参ったなあと思ってうな垂れているとしても、それを「目撃している自己」が在ることに気づくのです。

その自己は、あらゆる感情をそのまま取り入れることができるのに、決して傷つくことがないと分かっている自分なのです。

すべてをあるがままに目撃していて、決してそれに影響されることのない自己。そこに意識を向けていることができると、完全に救われます。

反対に、母親の術後の経過は順調で、リハビリによる回復も予想よりもずっと早いという、とても喜ばしいことも同時に起きています。

それで、一体どちらが本質の自己への意識を思い出し易いかといえば、やはり都合の悪いことが起きた時のほうだと言えます。

人間とはそういうものなのかもしれませんね。残念ながら、望まないことが起きた時のほうが真実に近づくチャンスは圧倒的に大きいのです。

そう考えると、人生とは、どちらに転んでも本当に恵まれていると言えます。喜ばしいときには大いに喜び、辛く苦しいときもその中に大きな気づきを得るチャンスがあるのですから。

身体の手入れを忘れないこと

母親が股関節の手術をしてから、ちょうど一週間が経ちました。そして、今週の頭から少しずつリハビリを開始したのですが、なかなか大変です。

二週間もの間、寝返りさえ打つことができずにずっと寝たきりだったからか、怪我をした左足が鉛のように重いらしいのです。

普段、自分の身体は概ね思ったとおりに動かすことができるのが、当たり前であった感覚が残っているためか、思い通りに動かない足を不思議そうに見ている母の姿が痛ましかったです。

リハビリを親身になって手伝ってくださる理学療法士さんたちは、みなさんとても若くてびっくりしました。

その上誰もがやさしく、労わりの気持ちを持ってサポートしてくださる姿には、本当に感謝せずにはいられません。

母を担当してくださる方などは、身体が小さい女性なので、大丈夫なのかと心配もしたのですが、無駄のない体の動きで充分に大人一人を支えられるのですね。

彼女によると、母の身体がとても柔らかくて力を抜くことが上手なので、快復が平均よりも早いだろうとのことでした。

母は、事故に遭う直前まで毎日スポーツクラブに行って、五百メートル泳いでいたので、予想していたよりも復帰が早くなりそうです。

自分の本質が身体ではないと本当に分かったとしても、やはりこの世界では身体と共に生きていくわけですから、日頃から身体をそれなりに手入れしておくことは大切なことなのですね。

私自身もやめてしまった水泳を、もう一度近々復活させて、なまってしまった肉体をまた元通りにしてあげようと思います。

みなさんも、若い内から自分の身体の手入れを適度にし続けておくようにして下さいね。老後や怪我をしたときに後悔しないためにも。

個人と全体性の二つの感覚を同時に感じる

毎日自分の人生を生きながら感じていることのほとんどが、自分はこの世界の中で一人の人間として生活しているということですね。

それを否定する必要もないし、否定することはできないわけですが、それでもなるべく忘れないでいるように務めていることがあります。

それは、個人としてここに居るという感覚のほかに、「ただ在る」という感覚を感じることができるということです。

それは奇妙なことに、全く異なる互いに相容れないような感覚なはずなのに、それが同時に自分の中で起き続けているのです。

そして、「ただ在る」ということの意味は、何かが在るということとは違います。何かなどはなく、ただ在るということです。

敢えて言えば、「在ることが在る」ということです。あるいは、「全体性が在る」とも表現できるかもしれません。

「神が在る」というよりも、「神性が在る」と言ったほうがしっくりくるように感じます。物質が存在するとかしないということも、「在る」の基盤の上で言えることです。

そして、「ただ在る」は本当は自分に一番近いところに在るのですが、それは距離がゼロなのではなくて、距離そのものがないということです。

目を開けると、この世界、あるいはこの宇宙が現象化して顕われ、そのすべてが「ただ在る」から流れ出てきていて、それらはコインの表と裏のようにくっついています。

「ただ在る」ことと、現象化された事象が、映像とそれを写すスクリーンの関係のように、密接に繋がっているということです。

一方で目を閉じると、すべての現象が消え去り、「ただ在る」だけがクローズアップされたようになります。それは深淵な「何もなさ」でもあるのです。

現象化された人生から一歩も逃げずに、同時にその基盤である「ただ在る」をいつも見続けていられるように、バランスを取ることが大切だと思います。

お隣同士は仲が悪い?

私が子供の頃というのは、ご近所付き合いというのがごく普通にあったのですが、大人になってからは、互いに顔を知っている程度のことが多いようです。

集合住宅になると、さらに疎遠になって、お隣さん同士であってもほとんど顔を会わせることもないのが普通です。

実際、セッションルームの同じ階の人で、顔を知っている人は数人しかいません。それで別に不都合なことがあるわけでもないので、親しくなる機会もないままなのですね。

けれども、子供の頃のご近所付き合いのことを思い出してみると、本当にお隣さんと仲がよかったかというと、そうでもない印象が残っています。

困ったときに、助け合うことがなかったわけでもないですが、私の率直な印象では仲良しというよりも、本当のところは、あまり仲はよくなかったとも言えます。

表面的な付き合いをしているうちはいいのですが、何か事が起こったときには本当に仲がいいのか悪いのかが、如実に現れてしまうものですね。

それは、国同士についても当てはまるようです。日本は島国ですが、それでも隣国といえば韓国や中国、あるいはロシアなどが挙げられます。

日本がそうした国々と仲良しだなどと思っている人は、誰もいないでしょう。距離が近いということは、それだけ領土問題やその他において利害が直接係わってくるからです。

韓国の大統領が日本の竹島に不法侵入したというニュースを聞いて、うわべだけ仲良くしていくことさえ、この先難しくなったなと感じます。

隣国同士なのだから、もっと腹を割ってお互いに話し合い、大人として、争うばかりではなく仲良くすればいいのにと思わないでもありません。

しかし、自分の家の庭の隅に、隣人が勝手に小さな犬小屋を建てて、そこに隣人の犬を住まわすことになったとしたら、なかなか仲良くできるものではありませんね。

争いを避けるために、すべてを無難に、丸く治めようとすることは決して得策ではありません。かえって、深い怨恨を残すことにもなるのです。

これは、国同士であろうが人間同士であろうが同じことです。争いを避けるためには、問題から逃げずに正面から向き合うことがどうしても必要です。

日本の政府が毅然とした態度をとる、と口で言っているだけでは、争いを避けることになるどころが、問題をより深刻化してしまうことになると思います。

都合の悪いことから目を背けずにいるということ、事なかれ主義に陥らないようにすることが大切だと思うのです。

自分のことで手一杯な人生にゆとりを持つには?

人は誰でも、3歳くらいから自我が芽生えてきます。そして、気づいたときには、もうすでに自分の人生の中心にドシっと腰を据えた自分を発見することになります。

その自分は、自分自身で守ってあげなければ、とてもじゃないけれど危険過ぎて、毎日をどう生き延びて行けばいいのか分からないのです。

自分以外の誰かに対して、愛を与えるような心の余裕など残ってはいないのです。つまり、自分のことだけで手一杯だということです。

自分を助けることで精一杯なので、他の人のことをケアするエネルギーなど残っていないという状態で生きるのです。

それは子供のときだけではなくて、大人になっても、そして親の立場になったとしても基本的には変わることがありません。

例えば、母親というのは我が子に対して無償の愛を持って接するはずと、誰もが思いたいわけですが、実際にはそう理想的にはいきません。

仮に過保護で過干渉な母親がいたとして、充分に子供に対してエネルギーを使っているように見えて、実は自分を守るための作戦でしかないのです。

子供の世話を必要以上にするのは、母親自身がそれで安心したいという心の現われなのです。それは、結局は自分のことで手一杯だということなのです。

そういう親は、大抵が心にゆとりがないので、子供の言葉や話しを聞こうとせずに、自分の正しさや子供の否定的な部分ばかりを主張することになります。

これでは、子供は自分を受け止めてもらえたという安心感を得ることができません。それは、自分の存在価値を感じることができずに大人になることを意味します。

そうやって、自分のことで手一杯だという人生が世代を超えて伝播していくことになるのです。これは本当にどこかでその連鎖を断ち切る必要があります。

幼いころに真正面から自分を受け止めてはもらえなかったという、見るに耐えない自分の惨めさから、目を背けない練習をすることです。

そうして初めて、隠されていた否定的な自己を受け入れることができるようになってきます。そうなると、自分のことで手一杯であった人生にゆとりができるはずです。

その心のゆとりが、必ず自分の心から家族や他の人の心へと伝播していくことになるのです。この世界を救うためには、一人ひとりがまずそうやって、自分の心を救うことから始めることが必要なのですね。