探求心とは愛の一つの形

人の個性は様々で、それぞれがどんなことに興味を持っているのかとか、好みや趣向などが千差万別なところがまた面白いのですね。

何かに興味を持つと、それを探求したくなるのは人間だけの特性ではないようです。何かを不思議に感じて、何度もその不思議さを感じたくて益々探求してしまうことになるのです。

その探求のターゲットがなんであるかということには、ほとんど意味がありません。ただ、興味を失わずに探求していくこと、それ自体がすばらしいことだと思うのです。

探求心は、真面目さを必要としません。なぜなら、そのエネルギーが自然と真剣さを生み出してくれるからですね。普段はぐうたらしている子供が、何かに取り憑かれたように熱心になっている姿はいいものです。

ところが、大人になるにつれて、自分が興味を持っているものが、他人にとっていい評価を得られるのかどうかということに危惧するようになっていくのです。

たとえば、絵を描くことが大好きだった子供が、成長するにつれて上手な絵を描こうとして、残念なことに絵を描くという純粋な興味を失っていってしまうということはよくあることです。

あるいは、自分の興味がこの社会の仕事として成立するのかどうか、それでお金を稼いで人生を生きていけるのかどうかが重大事になってしまうのです。

そうして、次第に子供のころの探求心を忘れて、現実はつらいのだとか何とか自分に言い訳をして、大人の顔をして生きていくことになるのです。

私は、辛さで言ったら、大人よりも子供の頃の方が絶対に辛いと思っています。なぜなら、自立できてない分だけ大人よりも桁違いに不自由だし、この世界のことを知らない分だけ恐れが大きいのですから。

それでも子供は、興味の対象を持っているものです。もしも、今のあなたが興味を持って探求するものなど見当たらないと感じているのでしたら、どうか子供の時のことを思い出してみて下さい。

その時に持っていた興味の対象について、思考を働かせることなく素直な気持ちでもう一度それを楽しんでみることです。きっとそれは、大人になったあなたにとっても何か心が躍るような悦びがあるはずです。

それと触れ合うこと、それを探求することは年齢に関わらずすばらしい体験になるはずです。それが、愛の一つの形なのですから。