自分の顔だけがこの空間にはない その2

昨日の続きです。

数年前に、クルマのレースゲームに嵌ったことがありました。自分の部屋でできるものですが、それはもうゲームセンターにあるものと比べても遜色のない、すばらしいシミュレーションゲームでした。事務所を移転するときに、売っちゃいましたけどね。

あまりにも画像がリアルで、シートもステアリングもアクセルもブレーキも本物みたいでカッコいいし、私はあまり使わなかったのですが、シフトレバーもふつうのものとパドルシフト仕様のものもついていました。

あまりに熱狂しまくって、老体にもかかわらず、時には徹夜で耐久レースをやったりして、無理したおかげで帯状疱疹を発病したくらいでした。笑えますね。

数種類のゲームをやったのですが、どれもドライバーの視点を変えることができる機能が付いていました。初心者向けにクルマの上部から見渡す視点や、ダッシュボードやハンドルが見える視点、そして外の景色だけが見える一番運転しづらい視点も選ぶことができました。

シミュレーションゲームの醍醐味は、何といっても実際に自分がクルマを運転しているような気にさせてくれることです。路面の変化などのタイヤからくるキックバックがハンドルを持つ手に直接伝わってくる仕掛けなどは、絶妙でした。

あたかも高速でサーキットを走っているあの感覚は凄すぎます。けれども、外の景色だけが見える視点を選んだときに、今度はそのゲームの中で自分が停止しているような錯覚を感じることもできました。

つまり、二重に騙されるということですね。ゲームをプレイしている自分は停止しており、それがクルマと共に走行しているように感じさせられ、さらに視点によっては停止していて外の景色だけが高速に動いているように感じることができたということです。

これは、自分と一緒に移動する何物かが視界の中にあるかどうかによって、感覚が変わることを示していますね。ちょうど、電車に乗って反対側の窓を見ている場合には電車と自分が動いていると感じるけれど、窓にぴったり目をくっつけて外を見ると、自分は停止していて外の景色の方が移動しているように感じるのと同じことです。

そこで、一つ実験してみて欲しいことがあります。いつも、見えている自分の二本の腕と脚、そして胴体などを見ないようにして外を移動してみて下さい。きっと、移動しているのは自分ではなくて外の景色だと気づくはずです。

あなたは、顔だけでなく身体も見えない状態になったとき、自分とは意識だったと本当に気づくはずです。意識は、大きさも色も形も位置さえもありません。だから、移動することもできないのです。

それが、あなたの本当の姿なのです。この世界にあなたという個人はいないだけでなく、あなたはこの宇宙全部だったということです。その全体性という感覚に意識を向けていることです。

ダグラス・ハーディングさんが伝えてくれたのは、そのことだったのです。

自分の顔だけがこの空間にはない

この時代に一緒に生きている日本人ならだれでも、あの「3.11」の生々しい記憶は決して忘れ得ぬものとして、心に深く刻まれていると思います。

私の個人的な記憶の中にはもう一つ、ちょうど3.11と同じころに体験した忘れられないことがあります。それは、ある本との出会いを通じて起こった、それまでの人生の中でも特別な体験があるのです。

ダグラス・ハーディングというイギリスの神秘家の本です。このブログでも何度も触れたことがありました。あの当時は、翻訳されているたった3冊しかない彼の本を、何度も何度も繰り返して読んだものでした。

彼は、いろいろな実験を提示しながらも、自分の顔や頭は自分がイメージしているようには存在しない、という事実を明快に説明したのです。

初めは驚き、少し躊躇があり、その次に衝撃が走り、また疑念がやってきて、という具合に心が揺り動かされながらも、結局それまで自分が事実だとしていたことが、実は完全なる思い込みに過ぎなかったことに気づかされたのです。

それは本当に笑ってしまうくらいにあっけない事実でした。当り前過ぎることに、自分が気づいていなかったことが判明すると、ある種笑いが込み上げてくるのです。少々の涙も混じっていたと思いますが…。

そして静かに記憶を遡っていくと、どうやらその感覚(自分の顔だけが見当たらない)は小学生くらいの時に感づいていたことだったと分かったのです。

子供のとき、自分の顔だけは特別だという思いがありました。なぜなら、友達の全員の顔はいつでも見つけられたのに、自分の顔だけが教室にも校庭でも見つけられないのですから。

それを不思議と思うよりも、特別なのだと思っていたのです。けれども、大人になるにつれて、そんなことはすっかり忘れ去ってしまっていたのです。

それがハーディングの実験によって、大人になった今、自分の顔だけが自分が過ごしているどの空間にも欠けていることを認めざるをえなくなりました。

自分の本当の顔は、自分の外側に広がっているこの世界だったと知ることは、格別のものがありました。その興奮は消えてしまいましたが、その感覚は今も残っています。

不完全さを受け入れる

私たち人類は、その歴史を見れば明らかなように、常に争いに明け暮れてきたのです。戦争は良くないと知りつつも、問題を解決するためにも戦いは必要悪だとする根深い思いを持っているのです。

侵略されたら侵略し返す。正義の元では、戦いもやむを得ないことだと正当化してきました。そして、いずれはすべての戦いに終止符が打たれるはずだと信じているのです。

その先には、いわゆるユートピア、つまり理想郷が待っていると信じたいのですね。誰もが他人を憎まず、互いが助け合い、理解しあって平和に生きていくことができるはずと願っているのです。

けれども、本当のところはどうでしょうか?人類が進化したのは確かですが、それは文明の発展や科学の発達などによって、近代化が進んだだけで、個人としての私たちに大きな変化はないような気がします。

私たちの理性には、理想を求める能力が備わっていますが、個人としての私たちそのものが理想を実現することができるわけではありません。

個人という自覚、つまり自我は必ず自己防衛せずにはいられないのです。それは、自分と外界の世界との対立を発生させることになるのです。

そういう意味では、自我は決して真の平和を望んではいません。自分に都合のいい平和だけを望んでいるのですから、それは結果として戦いへと繋がっていくことになるのです。

私たちは、理想を追い求める一方で、常に不完全な個人として生きているということを忘れてはなりません。そして、大切なことはその不完全さを受容することです。

不完全を完全へと改善しようとすることをいくら続けていったところで、自我が完全になどなることは不可能なことなのですから。

不完全であることを心の底から受け入れるとき、その瞬間にだけ完全であるという奥深い気づきがやってくるのです。その気づきこそが、本当の救いなのです。

自分を解放するのではなく、自分から解放されること

多くのセラピストが、私も含めて「自分を解放することです!」とクライアントさんに伝えてきたのでしょうね。抑圧された心を解放して、もっと素直で楽な人生があることに気づきましょうということです。

勿論、ある面ではこうしたことは間違ってはいません。あまりにも、不自由な生き方をしてこられたクライアントさんには、そのようにして理不尽な自己否定や無理な重荷から解放されるようにと促します。

けれども、こうした癒しは敢えて表現すれば、初期の癒しのことを言っているのです。もっと本質的な癒しというのは、自己を解放するということではありません。

なぜなら、私たちが自己だと認識しているものは自我であり、自我を解放するなどということは原理的に不可能なことだからです。

自我は、本来自己を抑圧するようにできているのですから。真の癒しとは、自我の解放ではなく、自我から解放されることなのです。

自我から解放されるということは、自我を敵対視して自我を叩きのめすことによって、それから解放されるということでもありません。

相手が何であれ、それを敵対視するのは、自我の専売特許です。自我から解放されるためには、方法はたった一つしかありません。

それは、自我が真実ではないということを見抜くことです。ところが自我には、凄まじいほどのリアリティがありますね。自分という個人はここにいるということを、なかなか疑うことは難しいのです。

自我の包囲網をかいくぐり、真実へと近づくためには、どこまでも自分に正直になることしかありません。そのためには、自分にとって事実だと思ってきたことをすべて疑ってみることです。

そうすると、事実だとしていたあらゆることが、すべて信じていたことだと気づきます。結局、自我とは決して敵なのではなく、単なる思考だったと気づくことになるのです。

自我も含めて、この世界のすべてを思考だと見破るとき、自我を否定することなくおのずと自我から解放された視点に戻ることができるのです。

そうやって、自分(自我)から解放された自己の本質が、それ自体に気づくことになるのです。それこそが、究極の癒しであり、本当の救いなのです。

「気づき」そのものがそれ自体に気づく

子供の頃から、ちょっと変なことをそこそこ真剣に考えるようなところがあったのですが、今になってみるとそうした生まれながらの習性がとても役に立っています。

例えば、自分の目で自分の瞳を直接見ることは不可能なんだなあと考えていたことがありました。その時には、ただそれだけだったのです。

どう逆立ちしたところで、瞳がそれ自体を見ることができないということが、どういうわけか心に引っかかっていたのです。こんなことを考えるのは子供だからと思われるかもしれませんね。

けれども、実は年齢を重ねた今でもやはりそんなことを時々考えているのです。そして、今では原理的に見ることが不可能だというところに、真実が何気なくその姿を露呈しているということに気づいたのです。

私たちが暮らしているこの世界は、いわば分離の世界と言えます。あらゆるものが、それ以外から分離して存在しているからです。

その分離がベースとなって、主体と他者があり、その間で見ることや聞くことといった知覚が機能するわけです。いつものように、真実とは全体性であるということからすると、知覚は機能しません。

つまり、自分の目でそれ自体を見ることが不可能であるというところに、真実が口を開いていてくれるのだと分かるのです。真実とは究極の一人称だということは以前のブログでも書きました。

私たちは周囲の音を、鼓膜の振動によって聞くことができるのですが、その鼓膜の音自体を聞くことはやはりできません。なぜなら、そこに本質があるからです。

あなたの手の人差指の先を使って、絨毯や畳の上をなぞってみて下さい。絨毯の毛足の柔らかさや、畳の質感が指先に伝わってきますね。

けれども、どうやっても指先そのものの手触りを、その指先そのもので感じることはできませんね。そうやって、知覚が不可能な一人称こそが、真実の入り口なのです。

真実は、この分離の世界においてもごく普通に私たちにその姿をちゃんと見せてくれているということです。私たちが「気づき」とか、「覚醒」などと言っていることも、本質的には気づく何者かがいるわけではありません。

「気づき」そのものが、それ自体に気づくということです。

「祈り」と「心配」

私たちの心の中には、自分が大切だと思っている人やモノを守りたいという根本的欲求がありますね。これは、動物的な本能と言ってもいいと思います。

カンガルーのお母さんが、我が子を自分のお腹についている袋の中にかくまって守るのもそうですし、幼い子を守るために外敵と命がけで戦う動物は沢山います。

けれども、人間である我々はそうした動物的な防衛本能だけではなく、心理的にも守ろうとします。どの親だろうと、我が子に幸せな人生を生きて欲しいと願うのはそのためです。

こうした気持ちは、「祈り」と呼んでもいいかもしれません。「祈り」には、否定的なエネルギーがありません。なぜなら、「祈り」の原動力は愛だからです。

ところが同じ守る気持ちであっても、「大切な人に苦しんで欲しくない」となると、実は「祈り」とはまったく違う心理状態となってしまうのです。

つまり、大切な人を守りたいという気持ちには二種類あるということです。愛による「祈り」と、恐怖による「心配」です。でも、往々にして私たちはこの二つを混同してしまうのです。

実際、この二つはいつも非常に紛らわしいので、気が付くと心配している気持ちを祈りによって払拭しようとしてしまうこともあるのです。。

たとえば、家族が病気にならないようにとか、子供が試験に落ちないようにと祈るなど。これは、まさしく祈りと心配をごちゃ混ぜにした結果なのです。

繰り返しますが、「祈り」には恐怖というネガティブなエネルギーが入る余地はありません。それは不安とか心配とは無縁のものです。

大切な人のことを心の中で想うときには、ただ「祈り」に意識を向ければいいのです。それが、純粋な愛なのですから。心配は、自分の心の中にある恐怖や不安を大切な人に投影した結果なのです。

祈りも心配も、そのまま大切な人へと必ず届きます。あなたはどちらを本当に届けたいですか?

心配よりも可能性に目を向ける

私は子供の頃、ちょっと考えられないくらい極端な偏食でした。固いものを噛んで食べるということ自体があまり好きではなかったのではないかと思えるくらいです。

食べられるものがほとんどなく、卵焼きとヨーグルトばかり食べていたのを覚えています。母親はきっととても心配していたことでしょうが、そんなことにはお構いなく、嫌いなものを口にしたことはなかったのです。

でもそれは私にとって、とても幸運でした。というのも、無理やり嫌いなものを食べさせられると、悪くするとその体験が一種のトラウマとなって、大人になってもずっと嫌いなままになってしまう可能性があるからです。

私は食べ物を強制されたことがなかったので、自然と大人になるにつれていろいろなものを食べられるようになりました。結局、人は成長するにつれて、ごく普通になっていけるのです。

食事にまつわることでは、もう一つあります。小学3年生くらいになって、ようやく少しづつ給食を食べられるようにはなっていったのですが、特別好きではなかったせいか、食べる速度がクラスで一番遅かったのです。

けれども、これも誰からもせかされたり、否定されたりすることがなかったので、そのことで辛い思いをすることはありませんでした。中学生になって、体力がついてきたころには人一倍早食いにもなったのです。

もしも、自分のペースを否定されていたら、きっと焦ってしまうクセがついてしまっただろうと思うのです。子供が独自に持っているその子のペースは、とても大切な個性として尊重してあげることが大切なのです。

小学生のころの別のひどいエピソードを思い出しました。2年生か3年生のころ、図工の授業で粘土を使って仮面を作るということがあったのですが、いつものようにペースが遅かったのです。

というよりも、授業が終わる5分前になっても私は何もできていませんでした。何を作ろうか考えている間に時間が経ってしまったのですね。

それを見かねた担任の先生が、こんなのはどう?といって、私の粘土で確か悪魔のような仮面を一分くらいでちゃちゃっと作ってしまったのです。

私はあっけにとられていたものの、それを完成品としてずうずうしくも提出したのでした。なんと、それは図工の先生によって、優秀作品として展示されたのです。

夏休みの自由研究の宿題を丸ごと友達のお兄さんに頼んで作ってもらったこともありました。こんないい加減な、ずるい子供だったのですが、誰にも否定されたことがありませんでした。

今もずるいところは沢山あるかもしれませんが、かといって社会性がない大人になったとは思っていないのです。子供のときに、ちゃんとした大人になれるのかと親が心配してしまうことはよくあることですね。

けれども、否定さえしないであげることができたら、その子は間違いなく足りないところを自ら補正していくことができるのです。

心配するよりも、子供の可能性のほうに目を向けてあげることができると、その子供の未来には大きく羽ばたくチャンスが広がるはずですね。

お金の功罪

ほとんどの人は、お金をたくさん欲しいと願っているはずです。お金さえあれば、欲しいものは手に入れることができるし、生活の心配をする必要もないからですね。

お金さえあれば、嫌いな上司のもとで、我慢しながらいやな職場で仕事をする必要もなくなります。もっとお金に余裕があればと思うのは、無理もないことです。

私自身も、どこかに当たった宝くじでも落ちてないかなあ、などと都合のいいことを考えていたりします。お金で幸せが買えるとは思ってないにせよ、金持ちにもなってみたいと思わない人はいないでしょう。

けれども、お金が有り余っていると、都合の悪いことから目をそらしたまま生きていく傾向が強くなるのです。なぜなら、お金を使ってレジャーや気晴らしで人生を費やし続けることができてしまうからです。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、裕福な方も確かにいらっしゃいます。でも、その割合は少ないかもしれません。

一生困らないだけの財産をお持ちのクライアントさんもいらしたことがありましたが、それはとても稀なことです。その場合には、ご本人が大きな不自由を抱えていらしたという事情がありました。

一般的に考えて、金銭的に何の不自由もない人は、心の癒しに前向きとは言えません。わざわざ面倒なことをしなくても、面白おかしく生きていけるような気がするからです。

明日のパンを買うお金がないようでは、今度は癒しどころではなくなってしまいますが、ちょうど適度というのか、お金がもっとあったらセッションにもっと通えるのに、というくらいがちょうどいいのです。

一度のセッションが貴重に感じられるでしょうし、そうなるとセッションに向ける気持ちが強くなるからです。さらには、お金が欠乏することへの恐怖から逃げずにいることで癒しは進んでいくのです。

そういう意味で、私はこの仕事を通して、お金は心の癒しととても深い関連を持っていることを知りました。お金は生きていけるだけあればいいのです。

そしてさらに、癒しが進むとよりお金を手に入れるようになったとしても、もう大丈夫。そのことで、自己防衛がまた強く復活することはなくなるからです。

自分の本質は微動だにしない

今こうしてパソコンに向かってブログを書いているとき、思考は緩やかに流れています。周囲が静かであるということも手伝ってか、静寂という本質と繋がっているという明らかな感覚があります。

静寂さには、前後左右上下、そして位置も大きさも何もありません。その何も無さが変化するということは不可能なことですね。そのことを、思い出すたびに検証することが癖になっています。

たとえば、最近では毎朝のようにプールで泳いでいるのですが、その時は自分の身体がうつ伏せの状態のまま、水の滑らかさの中を移動していることに気づいています。

けれども、それと同時に今この瞬間の静寂さと全く同じものを感じています。それは、全く同じということではなくて一つものなのです。

パソコンの前にすわって、静かに思考を見ているこの瞬間と、両手両足を使ってクロールしている瞬間の両者の静寂さが、一つものであるということです。

静寂さは動くことすらできません。本質とは、すべてが不可能であるということでもあるのです。不可能性とは神の属性と同じものですね。

神は考えることもできないし、意志を持つことも、痛みから逃れることすらできません。不可能とは、万能ということと何の違いもありません。

話しを元に戻すと、スポーツクラブで水泳をし終わった後、サウナに入るのが日課となっていますが、あの100℃の温度の中にいて、暑さと争わないようにしているときにも、やっぱり今と同じ静寂があることに気づきます。

実は私たち一人ひとりが宇宙の中心です。この宇宙を支えている静寂さこそが、あなたの本質なのです。あなたの肉体が消滅しても、本質は今この瞬間の静寂さのままに在るだけです。

だから、あなたはどこかへ行くわけではなくて、どこへも行けないのです。あなたの静寂さという本質はまったく微動だにすることはないのですから。

「我(われ)が儘」の勧め

「我が儘」な人というのはどこにでもいるものです。私の心の中にも、たぶんに「我が儘」な要素が含まれていることは、幼いころからよく知っています。

「我が儘」というのは、自分勝手で人の気持ちを無視したり、自分の気持ちだけを押し通そうとするという意味がありますね。嫌われるタイプの典型だと言えるでしょう。

けれども、「我が儘」の中身をよく見て見ると、大きく二つの要素から成り立っていることに気づきます。一つ目は、「我(われ)がまま」ということ。つまり、自分のままであるという意味。

自分そのものであって、それを修飾したり隠したりしないということ。自分のあるがままの状態と言ってもいいかもしれません。自分以外のものに迎合したり、無理に合わせたりしない素直な自分の姿です。

誰でもそんな風に生きることができるなら、きっとストレスから解放された清々しい人生を手にすることができるはずです。それを邪魔するのは、唯一幼いときに作った自己防衛システムなのです。

そして、「我が儘」のもう一つの要素は、人の気持ちを受け入れないということです。自分を守るために、自分の正しさにしがみつき、他人の不正を攻撃するわけです。

そうした恐れによって動かされている心は、誰かを受け入れようとは決してしません。頑なに心を閉ざして、自分の意見と異なる他人の思いや気持ちを否定してしまうのです。

この二つ目の要素ばかりが目立ってしまうために、「我が儘」というものがネガティブなイメージに固定されてしまったわけです。

けれども、一つ目の要素である、「我(われ)がまま」の部分と、人の気持ちを受け入れるということを両立させることは、決して不可能なことではありません。

人が恐れを受け入れて、無防備さが全面に出てきたときには、自分の在るがままでいられると同時に、相手の気持ちを尊重するようになるからです。

「我(われ)がまま」でいることは、本来無防備さの証でもあります。防衛をしない心は、必然的に自分のあるがままを受け止めて、自然体でいられるからですね。