思考の外に質問はない

子供が成長する過程で、質問ばかりをするようになる時期というものがあります。彼(彼女)は、その時に自分の周りで起きているあらゆる事象に興味津々で、驚いているのです。

だから、それは何?それはどうして?なぜそうなるの?と言う具合に、いくらでも疑問が湧いてくるわけです。ちょうど、言葉が流暢に話せるようになるのと相まって、質問魔になるのです。

疑問を持つということはとても大切なことですね。なぜなら、興味がなければ質問も出てこないわけですから。生きることに悦びがあるうちは、疑問質問があって当然なのです。

ところが、そうした時期が過ぎ去ると、徐々に質問をしなくなっていくものです。本人の心の中には、本当は疑問があるのかもしれないのに…。

それは、周りの大人たちが、質問ばかりしているとあまりいい顔をしないということを察してしまうからに違いありません。質問責めにあうと、大人はもう勘弁してくれよ!となるからです。

そうした態度が徐々に当り前になって行き、大人になるにつれて気づかぬうちに疑問を持たなくなって行ってしまうのでしょうね。残念なことです。

けれども、一方で真理を探究しようとすると、これまたとても本質的で全体性であることへの疑問、質問というものが必ずやってくるものです。

普段は考えたこともないような、例えば、存在するとはいったいどういうことなのか?などのようなことです。こうした質問に答えようとするのが哲学です。

しかし、どれだけ哲学を追及したところで、質問はなくならないし、すべての質問に対する答えが見つかるわけではありません。なぜなら、質問とは思考の世界のことだからです。

もしもあなたが、誰も答えることができないような本質的な質問を持っているのでしたら、それはそもそも答えなどないということに気づく必要があるのです。

どんな質問も、一たび思考の外に出てしまえば、その質問そのものが消え失せてしまうのですから。周りという対象が消えたとき、あるいは内と外とが一つだと気づくとき、そこには質問はおろか、何も無さだけがただ在るのです。