眼球を固定すると意識は内向きになる

私たちの視覚というのは、一瞬にして物の形状や大きさなどを把握することができますね。実際に試してみてもらったら、すぐに分かるのですが、目の前にある何か、卓上時計でもパソコンでも何でもいいのです。

あまりに大きすぎて、目をぐるりと回さなければ見えないくらい大きいものはともかく、その物体を見たと同時くらいにそれがどんな大きさでどのような形をしているかを見極めることができるのです。

これは、ようく観察するとすごいことだと分かります。それは、私たちの視覚が眼球を瞬時に動かして、対象物の外周をぐるりと一周見てしまうのです。

それは見事なまでのやり方で、自覚する暇もないくらいのスピードで眼球が動くということですね。そのおかげで、私たちは目の前の物質の全体像を瞬時に把握することができるのです。

逆にいえば、眼球は放っておけばいつでも振動しているということです。一か所をじっと見続けるということに慣れていないということです。

放っておけばずっと動き続けている眼球を、意識的に一点に据えて、動かないように固定してしまうこともできるはずですね。そうなると動くことでその機能を果たしている眼球は困ってしまうのです。

するとどうなるかというと、実は動くことができない眼球は、見る方向を変えてしまうのです。つまり、外側へと向かっていた視線が、急に180度反転して見ている自分に向くようになるということです。

このことは実際に試していただければすぐに分かることですが、見るとはなしに一点に視点を固定してしまうと、面白いように視線が内向きになってしまうことに気づくはずです。

これは自分の意識に意識を向けるということには好都合です。そのために、瞑想の時には目を閉じるという方法と同時に、伏し目の状態にして一点に視点を据えるという方法もあるのです。

どちらが、より自分の意識へと注意を保ちやすいかは、実際に試してみるといいと思います。どんなことでも、読んでなるほどと納得して終わりにせずに、すぐに実践してみることですね。

それには、興味があるかどうか、そして何かに困っているという状況のどちらかが役に立つのだろうと思います。

女性性への期待

セラピストの仕事を始めてから、もうすでに7000回になろうとする数のセッションをやってきました。その中で、まったく変わらないことがあります。

それは、女性のクライアントさんが男性のクライアントさんに比べて、圧倒的に多いということですね。正確な数値は調べてないですが、きっと全体の7~8割は女性だと思います。

まさか、男性にくらべて女性の方がいろいろ辛い人が多いのだというわけではないでしょう。まったくそうは思えません。ではどこに違いがあるのでしょう?

それはきっと、女性の方が自分自身のことに気づいているということだと思うのです。男性は、意識が外側へと向かってしまう傾向が強いのです。

男性というよりは、男性性と言ったほうがいいのですが、性別に限らず、男性性が優位である人は、間違いなく外へ外へと意識が向くのです。

彼らは何かを成し遂げなくてはならないからです。親からも社会からもそのように教え込まれたという事実も加担しているはずです。

けれども、本質的な部分で男性性とは攻撃性なのです。外へ向かってエネルギーを放出して、どこかへ到達しようとするのです。何かにならなければならないのです。だから、時間がないのです。

一方、女性性は意識が内側へと向く傾向にあるのです。だからこそ、自分の現状を男性よりも深く把握しているはずなのです。だから、セラピーにも来やすいのでしょう。

女性性は男性性のような目的を持ちません。だから、話しにオチがなくても一向に構わないのです。話すことそれ自体が目的のような、要は無目的での会話を楽しめるのです。

目的がなければ、どこかへ到達することもないし、何かを成し遂げる必要もあるはずがありません。急がないのであれば、時間感覚が乏しくなって当然です。

この世界を見渡す限り、男性性が支配している社会がずっと続いてきたのですね。だからこそ、頑張って成果を出して、何かを成し遂げなさいという教育を受けてきたのです。

だからこの世界は生きづらくなってしまったのです。受容する能力の高い女性性がメインとなる世界が早く来ればいいのにと思うのは、私だけでしょうか?

問題行動を疑ってみる

私たちのオリジナルは、無邪気な心を持った愛の塊りのような存在です。誰でも、幼児の頃にはそうやって生きていたのですね。その頃は、屈託がなく自由で、ある意味我が儘でいられる大切な時期だったのです。

けれども、早晩そんな自由は許されないよという強力なメッセージを、毎日浴びるようになってしまうのです。そうして、気が付いたときにはすっかり社会や親からのルールが、本人の潜在意識へとしまわれるのです。

山奥に一人で暮らしているわけではないので、人としての常識的なルールを教えてもらうのは当然のことなのですが、それが行き過ぎてしまうと、その子供の心は強力な自我に乗っ取られてしまうことになるのです。

親からの激しい強制があるとするなら、そこにどんな子がうまれたとしても、必ず自我は肥大化してしまうことになるはずです。それは避けられないことです。

幼い子どもは無防備であり、弱い立場の中で親に100%依存しなければ生きてはいけないのですから、親からの力いっぱいの強制に順応しようと必死になるのです。

そうなると、オリジナルな部分は完全に心の奥深くへとしまわねばならなくなるのは言うまでもありません。そこに強い恐怖があれば、親からの洗脳は完全なものになってしまうでしょう。

すると、オリジナルな部分は深い部分から反撃を開始するようになるのです。それが問題行動です。問題行動とは、オリジナル部分の不満が、本人の自覚をすり抜けて表へ出てくるものなのです。

自由が奪われているという鬱憤を、あの手この手を使って親に知らしめようとするということです。ただし、潜在意識がその役を担っているので、本人にはその自覚がありません。

幼いころからの抑圧があまりに激しすぎると、そうした問題行動は多岐に渡るようになり、最終的には本人の人生を犠牲にしてまでも続けようとするようになります。

つまり、人生の悦びや幸せを台無しにすることで、その苦しむ自分の姿を親に見せつけることで、自分の鬱憤を訴えようとするということです。

問題行動は、そのようにして人生を破壊するかもしれません。問題行動を、意志の力で止めることはほとんどできないと言っても言い過ぎではありません。

仮にできたとしても、元となる原動力がそのままであるなら、また別の問題行動を引き起こすことになるだけで、人生は益々苦しいものになるはずです。

もしも、あなたが自分のやっていることは問題行動かもしれないと感じるなら、なるべく早くセラピーを受けることをお勧めします。

自然を超越する可能性

誰もが素晴らしい大自然の姿を目の前にすれば、感動したり、心を打たれてしばし言葉を失うような経験をするはずです。それは、取りも直さず私たち自身がその大自然の一部だからなのでしょう。

地球上に存在するあらゆる無生物も生物も、勿論大自然の一部です。どんな植物であっても、その大自然の法則の元に、淡々と生きているのです。

動物にしてもそうですね。動物の場合は、本能と呼ばれる自然のメカニズムを使って、その法則の元に生きているわけです。勿論、人間にも他の動物同様に、それなりの本能があるのは誰もが知っています。

ところが、実は人間だけが大自然の一部でありながらも、その大自然から逸脱することができるのです。そこが人間という存在の面白いところなのですが…。

私たちの身体は自然の一部ですし、私たちのマインドも自然の一部です。そのマインドの中には凄まじい思考が渦まいているのですが、その思考もこの自然界の一部なのです。

けれども、その思考の中で自分がいるという想いが作られてしまったのです。その想いは自然界の一部ですが、その内容を単なるイメージではなくて、事実であるかのように信じ込んでしまったのです。

つまりそれがマインドの中心を占めている自我(エゴ)なのです。自我はイメージなので、実在するものではないのですが、それが働くことで大自然よりも低レベルに成り下がることも、それを超越する可能性もあるのです。

他の動物にはない高度な言葉を発明することで、複雑で込み入った思考を駆使することができるようになった人間は、目的や、価値、意義、善悪、そういったものを作り出したのです。

それは自然界にはないものですね。そのために、自然界の法則からはかけ離れた殺し合いをするようになったり、他の動物にはない深刻さや苦しみといったものを生み出してしまったのです。

これはどう考えても、自然界にはない地獄の中にいるようなものです。その一方で、人間だけが自分の本能に逆らって、恐怖から逃げないという選択をすることもできるのです。

そして、その結果いずれはすべての人が、この大自然、この宇宙が自己の内側にあるということに気づくのです。この神羅万象が立ち上がってくる源としての自己の本質に気づくことになるのでしょうね。

人間として生まれてきてよかったです。

無限に広がる意識

私たちがどれほど努力をして、自分の人生を満ち足りたものにしようと頑張っても、あなたが個人として生きているという思いに圧倒されている限りは、どうにもならないのです。

大切なことは全体性なのです。あなたが全体性に気づくとき、あなたこそが全体性そのものであるという本当の理解がやってくることによってのみ、生が根本的な変容を迎えることになります。

それなしには、何も変わらないということです。自分は全体から分離したある部分だという認識は、必ず不満や苦しみに襲われる現実を作ることになるのです。

途切れることなく活動し続けている喧しい思考が緩んでくると、あなたが普段既知だと思い込んでいた事柄が、軒並みそうではなく、何も知らなかったと気づかされることになります。

自分は何も知らなかったという深い気づき、そうして自分の名前や性別、所有物あるいはこれまでのすべての記憶に至るまでが、剥がれ落ちていくのです。

そうして自分の形はおろか、自分と関連していたあらゆるものも、本当は何もなかったと分かるときが来ます。あなたは、上下、左右、前後、全く不覚になるのです。

この恐怖から逃げずにじっと見ていれば、その中心にいたと思しき自分はいなかったと気づくことになるのです。それはある種、あらゆる面倒から解放された清々しさを伴うかもしれません。

本当のあなたがいないのではなくて、これまで自分とはこういう人物だとイメージしていた自分がいなかったと気づくことになるのです。

あなたはどこにもいませんでした。それは、言葉を変えるとすべてだということ、それが全体性なのです。目を閉じてしばらくじっとしていてみて下さい。

そうすると、あなたは自分の身体とマインド(思考)がすぐ身近にあり続けることを感じるはずですが、そのことはそのままあなたとは、身体でもマインドでもないということを見せてくれているのです。

無限に広がる意識を、そのうえで戯れている自分の思考と区別することです。意識とは、あなたの身体や思考、そしてこの宇宙全体を起こしている土台なのです。

激しい感情放出は身体が痺れる

今やデトックスという言葉が、ごく普通に使われるようになっていますが、いわゆる毒出しのことですね。温泉に浸かってのんびりするだけでも、身体は毒出しを始めてくれます。

身体が自動的にやってくれる毒出しには、身体そのものに溜まった毒の排出だけでなく、精神的な毒についても同様にして、身体はデトックスしてくれることをご存じですか?

催眠療法のセッション中に、一度に大量の感情エネルギーを放出すると、体質や場合にもよるのですが、身体がそれに反応してデトックスを手伝ってくれるのです。

それを経験した人は、誰もが一様に手足が痺れてきて、感覚がおかしくなってしまったと表現します。心が激しくデトックスするさいに、身体が健気にもその毒出し作業の一部を手伝ってくれるのです。

そのときには、身体の末端である手足の痺れを感じるのです。症状がひどくなると、セッション用のリクライニングチェアから立てなくなることも珍しくありません。

そういう場合には、とりあえずトイレに歩いていけるかどうかを見させてもらっています。ご本人は大丈夫というのが常なのですが、少しも大丈夫ではない場合が多いからです。

トイレにも行けない状態で、歩いて帰ることができるわけないですからね。手足は言うに及ばず、歩けない場合にはその痺れが全身にわたっているはずなのです。

私は、あるセミナーで瞑想中に全身が痺れてしまって、どうしようもなくなった経験があります。その時には、手足から始まった痺れが、頬に来て、お腹などの胴体の部分にまで及んでいました。

勿論、単に瞑想状態が理由でそうなったのではなくて、結果として潜在意識と繋がることによる感情の放出があったからなのです。

身体は痺れるだけではなくて、ようく観察してあげてると、微妙に振動している場合があることに気づきます。その振動はとても心地よいものです。

あなたの身体とは、何と素晴らしい機能を持っているのでしょうね。身体が痺れて、振動して毒出しをしてくれたなら、心から身体にありがとうの気持ちを伝えてあげて下さいね。

セラピーと瞑想の二刀流

十数年前にこの仕事を始めたときから、ずっと一貫して催眠療法というセッションを売り物にしてやってきました。それは、昔でいうところのタバコ屋の看板娘のようなものかもしれません。

それはあくまでも看板娘なのであって、沢山の癒しの方法のうちのほんの一つのやり方に過ぎません。けれども、自分を何とかして欲しいと切実に願う人にとっては、何か魔法のツールのように見えるのかもしれませんね。

HPで看板にしてしまっているのですから、そう錯覚されるのも無理はないと思います。催眠療法によって、自分は今まで成し得なかった何か特別な体験をすることができるのではないかと考えるのですね。

催眠状態というのは、確かに表面意識を少しだけ緩める効果があるのです。そうすると、意識下で常に蠢いている潜在意識がやや表面に上がってきてくれるのです。

それはちょうど、寝入りばなの時のような、あるいは寝起きの直後のようなちょっと曖昧な意識状態に近いのです。以前、睡眠学習なるものが流行ったことがありましたが、あれも潜在意識に直接働きかけるという効能を利用したものです。

少し乱暴な言い方をしてしまうと、癒しというのは社会によって作られてしまった潜在意識の影響をできるだけ小さくしていくということに他なりません。

したがって、潜在意識に直接働きかけることができれば、それは確かに好都合なのです。潜在意識のパワーの源は、今までに溜め込んだネガティブな感情なのです。

だからこそ、催眠中にできるだけ過去に溜め込んだそういった感情を味わって解放してあげることによって、表面意識(つまり理性)が巻き込まれることを減らすことができるわけです。

ただし、催眠療法といえども、その人の個性によっては向き不向きがあるのは避け難いことです。その場合には、星の数ほどある、他のセッションを試してみるのもいいと思います。

また、潜在意識の影響を小さくするための方法として、意識的でいるというシンプルですが、とても本質的な方法があるのです。

それが瞑想的に生きるということですね。常に、自分の内側に意識を向け続けていることで、潜在意識にしだいに光が当たり、それはいずれ崩壊していくことになるからです。

私は、催眠療法のようなセラピーと瞑想とを両方バランスよく実践していくことが、癒しにとっての最大の近道になると思っています。

私たちの身体は神聖なもの

自分がスピリチュアルなことに目覚めていると自負している人の中には、自分の身体について大きな間違いをしていることに気づいていない場合があります。

それは、身体は低俗なものであって、精神性こそが高尚なものであるというようなことです。身体も含めて目に見えて、手に触れられる物質的なものは、本質的ではないと…。

私自身もそのような考えに陥っていたこともあったのですが、よくよく考えてみれば明らかなのですが、私たちの身体はこの大自然の一部なのです。

野に咲く花が美しいように、野生の動物が美しいように、私たちの身体も美しいものです。例えて言えば、神が創りたもうた神羅万象の一つなのですから。

身体は、それ自身で独自のバランスを取ったり、必要とすることを正直に求めてきます。それをあるがままに受け止めてあげていれば、身体が健康を害するということはないはずなのです。

けれども、私たちは身体からの声を聴かずに、エゴの声ばかりを優先させてしまうがために、身体の健康が害されてしまうことになるのです。

私は、自分の身体のあちこちが痛みを訴えてきたり、不具合を感じるにつけ、身体って本当に面倒なものだなと思ってしまうクセがあるのですが、これなどは本当に言語道断なことですね。

身体はただ、自分を健康に保つためにこうして欲しいと教えてくれているだけなのに、聞く耳を持たないばっかりに苦しむことになっているのですから。

あなたの本質、あなたの心が神聖であるならば、あなたの身体もまったく同じように神聖であるはずです。そのことを決して忘れずに、敬意をもって接することが大切ですね。

逆に、身体とあなたの間に立ちはだかって、邪魔ばかりをするエゴこそが、神聖ではない唯一のものであることに気づくことです。

エゴがあなたの主人になっている度合いが大きければ、それだけあなたの身体は健康ではいられなくなる可能性が高くなるのですから。

エゴは個性を殺す

私たちの心の中にある自我(エゴ)は、自分のことを常に特別な存在でありたいと願っているのです。その願いはかなり節操がなくて、良いことでも悪いことでもどちらでもいいから特別感が欲しいのです。

人よりもお金持ち、自分には誰もまねのできない才能がある、人格的に優れている、外見が美しいなどは、ポジティブな方で特別であろうとするときの特徴ですね。

一方、人よりも重篤な病気に罹っている、世界で一番のダメ人間だ、性格も悪いし、外見もひどいなどは、ネガティブな方で特別感を出そうとするときの特徴です。

こうしたことを改めて考えると、エゴの特別であることへの願望とは凄まじいものがあるということですね。自分は普通であってはいけないというわけです。

また逆手をとって、あまりにも普通の人であるということでの特別さをアピールするということだって、あるかもしれません。これほどまでに必死なのは、自分の存在の確かさがかかっているからです。

けれども、よくよく考えてみると、こうしたエゴの特徴というものが誰の中にもあるとするなら、これほど特別ではないということもないのではないでしょうか?

どの人のエゴも結局同じようなものなのです。大して変わり映えするものではありません。目的は、自分が存在するということを自分自身に証明し続けるのがその本業だからです。

そのために恐怖を植えつけて、常に自己防衛に奔走させるところまですべてのエゴに共通する特徴です。敢えて個性があるとするなら、防衛の方法に様々なバリエーションがあるということくらいです。

つまり、エゴは自分は特別だと思いたいのに、そのエゴ張本人が私たちの大切な個性を奪って、誰もが似たような個性のない人生を生きるように強いているということです。

エゴにとっては皮肉なことが起きているということですね。もしも、あなたの心からエゴの部分が消滅してしまったなら、あなたは正真正銘の個性的な存在になるはずなのです。

そうなったら、あなたと同じような人はこの世界に誰もいなくなってしまうでしょう。誰もがその人の輝くような個性を存分に生きることができたら、この上なく素晴らしいものとなるでしょうね。

この世界は確かに実在します。けれども、一つだけ実在しないものがあるのです。それが、エゴです。エゴは思考であり、想像の産物に過ぎません。十分に光を当てれば、影が消えるのと同じように消えてなくなるのです。

お恥ずかしい話し

今から40年くらい前になりますが、私は大学生のころに安アパートで一人暮らしをしていました。そのときに、記憶が正しければですが、7週間程度オナニーをせずに過ごしたことがありました。

20歳くらいのもっとも血気盛んな時期であって、男性なら分かるはずですが、性欲が自分をコントロールしてしまうような年代だったわけですから、なかなかの忍耐でしたね。

部活もせずに暇な毎日を暮している中で、その強い性欲を自分はどのくらい我慢していられるものかという興味と、欲望に打ち勝つ理想的な自分になりたいという思いがあったのかもしれません。

ちょうどそのときに、彼女がいなかったというのも手伝っているはずです。一か月以上もそんな生活をしていると、ジーパンの上からであっても股間を何かが触れるだけで、危ういと感じることもありました(笑)。

バイト先の炉端焼きの板長さんに、何かの折にそのことを話したときに、「絶対にウソだ!、お前らみたいに若い奴がそんなに我慢できるはずがない。」と言って信用してもらえなかったことをまだ覚えています。

なぜ、こんな恥ずかしいバカなことをお話ししているかというと、人は誰でも不完全なものだということを伝えたかったからです。完全な人など一人もいないのです。

いわゆる人格者と呼ばれるような人は、性欲や○○欲などを沢山抑圧しているだけに違いありません。だから決して誰からも尊敬される人格者になどなろうと目指してはいけません。

私たち一人ひとりの心の中には、あらゆるモノが詰まっています。天使のような部分があれば、必ず悪魔の部分があり、努力家の部分があれば、怠け者の部分があるのです。

自分の都合のいいところばかりを集めて、理想の自分像に近づこうとするなら、それは心の全体性を理解していない無知な人の努力目標なのです。

あらゆるものを含む全体性こそが美しいのであって、気に入らない部分を一つひとつ否定していては、あなたに深みというものが起きてこないのです。

どんな自分の思いも、どんな感情であっても、全面的にそれらを丸ごと受け止めることです。そして、それを受け止められない思い、否定せずにはいられない気持ちに対しても、それを受け止めてあげるのです。

あなたを改善しようとするのを、即刻やめて下さい!その代わりに、新しい自分を一つ追加するだけです。それは、これまでのどんな自分であっても、ただ受け止めるという役割を新規に作ることですね。