自由と安心は同時に手に入らない

私たちの誰もが自由を求めていることは確かですね。物理的な自由だけでなく、精神的な自由も同じように求めているのです。

そのことは事実なのですが、往々にして結果は自由とは真反対の束縛されたものになってしまいがちなのです。そのことについて、書いてみたいと思います。

そもそも私たちが自由を求める本当の理由は、たった一つだけ、不自由さを感じながら生きているからです。その不自由さというものを、誰もが好ましく感じていないからに違いありません。

その不自由さとは、たとえば生きて行くために気の進まない仕事に毎日出かけなければならないとしたら、それはとても不自由を感じるはずです。

あるいは、家事仕事が忙しすぎて、自分がやりたいことをする自由な時間を作ることができないとしたら、これまた不自由な人生ということになるはずです。

つまり、生計をしっかり立てて生きて行くためには、また怠惰な奥さんと思われたくなくて、などの理由によって、止むおえず自分の自由を切り売りしているということかもしれません。

そのように見るなら、確かに不自由さも仕方がないように思えるのですが、実はそれは安心を得るための方策であるとも言えるのです。

実は本当に自由を手に入れようとするなら、安心や安全を期待してはいけないのです。そのどちらも同時に手に入れることは不可能だからです。

自由であるためには、危険や痛みを覚悟しなければなりません。誰かに後ろ指を刺されたり、認めてもらえないことになったとしても、自分の意志を貫きとおす覚悟が必要なのです。

もしもあなたが安全第一の旅を求めるのなら、ただバスに座っているだけでどこへでも連れて行ってくれる、便利な団体バスツアーに行くことです。

あれほどの楽ちんな旅もないでしょう。無駄なく名所旧跡を巡ってくれて、ちょうどお腹が空くころには食事を用意してくれるのですから。

けれども、安心していられるのとは反対に、自由さはほとんどありません。もしも、自由な旅を求めるならば、何の計画もせずに一人旅にぶらっと出かけるのが一番です。

その代わり、自分で何でもしなければならないのは言うまでもありませんね。人生もこうした旅行と同じです。あなたが勇気を持って生きるなら、自由はおのずと手に入るはずだからです。

生死を超越した自己

昨日のブログの冒頭で、私たちが生まれたその瞬間から、死に向かってのカウントダウンが始まっているということを書きました。

そのことは事実ではあるのですが、日ごろからそんなことばかり考えて生きている人がいたとしたら、その人は相当な変わり者だと言われてしまうでしょうね。

なぜなら、私たちは死ぬことを隠すためにも生きることに重きを置いているからです。そして、生きるために私たちが必要とするものは、すべて自分の外側にあるのも事実です。

餓死しないための食物も外側にあるし、危険から守ってくれる親も外側にいるのです。快適な生活を保障してくれる我が家も外にあるし、愛する人も外側の世界に住んでいます。

誰もが当然過ぎるくらいに知っていることですが、生き続けるためのすべての必須アイテムが外側の世界に存在するのですから、私たちの注意が自分の外側に向いてしまうのは仕方のないことです。

ところがどっこい、外側の世界ばかりに目が向いていると、いつまでたっても本当の不安はなくならないし、何を手に入れることができたとしても、満たされることは期待できません。

一度でも、ほんの少しでも完全に満たされた体験をしたことがある人なら分かるのですが、その感覚には理由がないのです。何かがあったから満たされたという外側の原因など、一つもないのです。

すべては内面で何かの変容が起きたとしか考えられないのです。つまり、私たちが本当に求めているもの、それは外側の世界には何一つないということです。

外側には、なるほど生きて行くために必要なものが勢ぞろいしているのですが、残念ながらあなたが心から欲しているものは、自分の内側にのみあるのです。

生きることに時間を使うのと同じくらい、死に対しても見つめることをすることができるなら、あなたの意識は自然と内側へと向くことが増えてくるはずです。

なぜなら、いくら外側に注意を向けてもそこには生きるためのネタがあるだけで、死への洞察を助けるものがないからです。人は、死を意識できれば必ず意識を内側へと向けることができるようになるのです。

そして、その内奥の究極まで見ることができたなら、生きることと死ぬことを超越した自己へとあなたは変貌を遂げることになるのでしょう。

自分の不死性

私たちは、生まれたその瞬間から死ぬ日に向かって、一歩一歩近づいて行っているのです。つまり、誕生とともに、死へのカウントダウンが始まるというわけです。

初めて人は死ぬのだということを知ったとき、子供は大変なショックを受けるのですが、その恐怖がなかなか受け止めがたいものなので、その恐怖を心の奥へとしまってしまうのです。

それがあらゆる恐怖の大元となっているのは間違いありません。そして、お年寄りは死が身近に迫ってきているものの、自分はまだ子供だし、あるいは自分はまだ若者なのだから死について考えなくてもいいとして生きるのです。

人間以外の動物は死について知ることはありません。だからこそ、動物には私たち人間のような心理的な恐怖、それが原因となる心理的苦悩というものがないのです。

動物は、目の前で動物の死を目撃しても、それを自分の事に照らして見るということができないのです。だから、死について無頓着でいられるのです。

人間は、そうはいきませんね。誰かの死を知れば、自分にもいずれはそれがやってくるということを思い起こされるので、またあの恐怖を思い出したりするのです。

死を恐れるあまりに、それから目を逸らし続けていれば、いつまでもその恐怖が人生のあらゆる場面について回るのです。そこから脱出するためには、死をもっと身近なこととして見ることが必要なのです。

そして生きることと同じくらいに死について見つめることができると、私たちは誰もが生死を超えた存在であるということに気づくことになるのです。

死について忘れて、人生でどれほど嬉しいことがあったとしても、それはまやかしでしかありません。死は毎瞬毎瞬迫ってきているに違いないのですから。

瞑想中に、自分の身体が死んでまったく動かなくなったというイメージを強く持つようにすると、本当に身体が異常なほど重くなり、自分自身が身体から離れたような感じになります。

そのときに、自分は身体ではなかったという実感を得ることができるのです。身体は、生まれては死に、生まれては死にを繰り返すのですが、自分はそれとは違う存在であると実感できるのです。

自分の不死性を見いだせたとき、本当の自己との出会いがそこにあるのです。

不安の本当の理由とは?

セッションにいらっしゃる多くの方々が、漠然とした不安を抱えています。自分では、どうして不安がこびりついているのか、その理由も分からずにずっと過ごしてきたのです。

このことは何度もこのブログでも書いてきたのですが、その不安の多くは、自分の存在に自信がないことが原因なのです。自分のままで、ここにこうしていていいかどうか?充分に分かっていないということです。

その不安を解消して安心したいがために、人は頑張り続けるのです。頑張って、努力して存在価値の代わりになるもの、つまり他人からの評価を気にする人生を生き続けるわけです。

それはいずれは限度を超えて、鬱症状を発症することになるはずです。幼いころの自分のあらゆる訴えを聞いて、丸ごとそれを受け止めることを続けていくことで、心の奥にある不安が安心へと緩やかに変化していくのです。

と、ここまでは通常のセッションで、みなさんにお伝えしてきたことです。けれども、もっと深いところに実は不安の原因となる大元が潜んでいるのです。

それは何かと言うと、私たちの誰もが自分の正体を本当には分かっていないということ、それこそが不安の本当の理由なのです。

自分が何なのかが分からないまま、安心していられるはずがありません。私たちは、自分を知りません。自分が誰なのか、一体ナニモノなのか皆目分かってはいないのです。

幼いころ、それもようやく意識が芽生えるもっとも大切な時期に、あなたは○○ちゃんなのよ!という洗脳を繰り返し受け続けた結果、それをただ信じたに過ぎないのです。

私たちは本当に知っていることを信じることはできません。知らないからこそ、教えられたことを否応なしに信じるしか手立てがなかったのです。

そして信じたという事実を、完全に忘れ去ってしまったのです。だから、私たちは自分は誰なのかを当り前のように知っていると思い込んでしまったのです。

固く信じ込んだことは、本人にとってはそれが事実であると感じるようになるのです。けれども、心のもっとも最奥の箇所で、自分が何かを知らないままでいるのですから、そこから決してなくなることのない不安がやってくるのです。

その不安を根こそぎにするためには、誰もが自分の本質に気づくこと以外に方法はありません。このブログでずっと伝えていることは、簡単に言えばそういうことなのです。

「お友達作戦」の勧め

クライアントさんの中には、闘い続けてきた結果、もうヘロヘロに疲労困憊してしまって、どうにもこうにもしようがなくなってしまったという方もいらっしゃいます。

それほどまでに極端でなくとも、私たちはずっとこの人生と闘ってきたのです。そのことにどれくらい気づいているでしょうか?自分は恵まれていると感じている人であっても、必ず闘争してきているのです。

あなたが、人生とどれだけ過激に闘ってきたかによって、それだけ苦難が増えるのです。なぜなら、闘えば相手はそれだけあなたに牙をむくからです。

あなたは危険だから仕方なく闘ってきたのだと主張するかもしれませんが、残念なことに人生のごく初期の頃を除いては、実際あなたが闘ってきたからこそ、苦難がやってきたのです。

闘えば、あなたは過酷な道を選ぶことにもなります。もしもそのことに気づいて、ほんの少しでも闘いの手を緩めることができるなら、人生もあなたにやさしく接してくる体験ができるはずです。

私はずっと水泳が得意ではなくて、社会人になってからふとしたきっかけから、水泳のスクールに3か月間くらい通ったことがありました。

最初は、25メートル泳ぐと息苦しくなっていたものが、あるときから急に息が楽にできるようになったのです。そうしたら、ゆっくりであれば休憩なしにいくらでも泳ぎ続けることができるようになったのです。

そのときに感じたのが、「ああ、水はお友達!」というものでした。それまで、自分の身体の周りにまとわりついて自分を苦しめていたと感じていた水が、突然お友達だと思えるようになったのです。

つまり、自分は気づかぬうちに水と闘っていたということなのです。溺れそうになっている人は、最大級に水と格闘していることは明白ですね。

また、スポーツクラブの100℃のサウナで汗を流すのが日課となっているのですが、あの高温の中でも長く入っていられるコツがあるのですが、それも「お友達作戦」です。

私たちは長く入って沢山汗を掻きたいと思うために、あの暑さとつい闘ってしまうのです。あと1分と思った瞬間に、その思考が闘いを作り出すのです。

その反対に、この暑さはお友達と感じるまでに自分のマインドを手なずけることができると、暑さの質が明らかに変わってきます。

このお友達作戦は、他のあらゆることに使えるのです。私たちは、放っておけば苦しみと闘ってしまうのですが、意識的にこのお友達作戦を実践すれば、苦しみの質は間違いなく変容してしまうはずです。

試してみる価値はありますよ。

マインドを超える

osho が光明を得た人の在り様を以下のように表現していましたので、抜粋します。なるほどね~、そそられます!

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もしマインドを超えていくことができたらいったいどうなるのか。マインド自体は同じままだ。マインドには何の変化もない。

だがマインドを超えていくとすべてが変わる。必要ならば部屋に戻って来ることもできる。だがあなたはもう別人だ。

このように出たり入ったりすることによって、あなたは質的に変わる。部屋の中だけに住んでいる人間、外がどうなっているか知らない人間は、じつは人間ではない……甲虫のように、昆虫のように生きている。

その彼が外に出て、空へ、大空へ、太陽へ、雲へ、無限の拡がりへと向かうとき、たちまち彼は変わる。この「無限」の衝撃によって、初めて彼は人間になる--意識になる。

また再び部屋に戻ることもできる。だが彼は別人だ。その部屋はただ利用するためのものだ。もはや牢獄ではない。

いつでも出て来られる。そして部屋は、利用するもの、実用的なものとなる。かつて彼はその中に囚われていた。

だがもう囚われていない。今や主人だ。今や空が外にあることを知っている……無限が自分を待っていることを知っている。

その部屋でさえも、今やこの無限の一部であり、また部屋の中の小さく限られた空間でさえ、外と同じ空間だ。

彼は再び部屋に入り、そこに住み、その部屋を使う。だがもうそこに囚われていない。これは質的な変化だ。

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夏休みという魅力的な響き

昨日は、梅雨の中休みというのでしょうか?一時的とはいえ、カラッと晴れ渡った空が見えてとても気持ちよかったですね。私は、一気にあの懐かしい夏休みの気分を思い出しました。

夏が好きな理由のほとんどは、夏休みという魅力的なものを連想するからだと思うのです。子供のころは、何を楽しみにしていたかといえば、長い夏休みだったのですから。

夏休みは、ルールから解放されて自由を満喫できる最高の日々だったのです。何やら意味のなさそうな宿題もあったのですが、そんなものは脇に置いてとにかく何もしないでいいという日々を堪能しました。

ちょっと変わった男の子だったのか、記憶の限りですが小学生のいつの夏休みかは忘れたのですが、ほとんど外出することなく過ごした年がありました。

とにかく何もしたくないというのが、根底にあったのだと思います。ただじっとしていることが好きで、それはもう異常な感じだったかもしれません。

かといって、友達と一緒にふざけたりも普通にできるのですが、それは本当の自分の姿ではないという感じがありました。そして、独りでは寂しいというのもあるのに、どういうわけか独りで過ごすことが好きでした。

親に監視されることもなく、じっと留守になった家に独りでいると、なんだか落ち着くことができたのですね。その感覚は、大人になった今でもしっかり残っています。

大切な人と一緒に過ごす時間も大好きな反面、とにかく俺を独りにさせてくれ!と叫んでいる幼い男の子の気持ちが根深く残っているのも事実なのです。

身勝手といえばそれまでなのですが、独りは超清々しいのです。母親が若干過保護気味だったせいもあるのかもしれませんが、干渉されずに過ごせる時間が天国なのです。

けれども、自分の中にどっしりとした安心感があって、だからこそ独りでいられるということを考えると、本当に大きな安心感を親から与えてもらえたのだという感謝の気持ちになります。

もうしばらくぐずついた天気が続くようですが、その後はあの嬉しい夏休みのシーズンがやってきますね。大人になった今は、夏休みとは無縁の毎日となったのですが、それでも夏休みの自由さを忘れたことはありません。

今は、毎日が自由すぎてホント感謝の日々なのです!

「ただ見る」ことの大切さ

私たちが今日生きるために使うことになっている、全エネルギーのうちの80%くらいを「見る」ことに使っているそうです。それくらい、「見る」ということに重きが置かれているのですね。

そして、更にその「見る」ことの目的のうちの90%以上が、実は自己防衛のために費やされていると思って間違いありません。掛け算すれば、0.8×0.9=0.72(72%)ものエネルギーが防衛に使われているということです。

それはオーバーだよと思われるかもしれませんが、上の数字はともかくとしても、気づかぬうちに相当なエネルギーを自己防衛に使っているということは、癒しをしていけば理解できるはずです。

もしも、その防衛のエネルギーを何かやりたいことに対して振り当てることができたなら、一体どれだけのことが精力的にできるようになるか、それは想像を遥かに超えているはずです。

セッション中に、何度も私は、「見て下さい!」というのですが、それは防衛するために見るのではなくて、「ただ見る」ということを実践して欲しくて言っているのです。

「ただ見る」とは、思考を使わずに見るということを意味します。この「ただ見る」ということは、判断も評価もせずに見るということです。言葉を変えれば、受け止めるということにもなるのです。

自分の思考を「見る」、心の中の想いを「見る」、感情を「見る」など、すべては無思考でということが最重要なのです。私が見て下さいと言った場合は、常に無思考を指します。

そして、無思考で見るということは、観照するということにもなるのです。自分を「ただ見る」ことを実践することは、取りも直さず自分に正直でいるということにもなるのです。

防衛システムからやってくる思考は、100%が防衛のためのものですから、決してそれをキャッチしてはいけないのです。幼いころからの癖で、ついキャッチしてしまえば、自動的に防衛システムに取り込まれてしまいます。

やってくる思考も「ただ見る」ことを実践することで、その思考に取り合わない態度でいることができるのです。相手にされなければ、思考は衰退していくしかありません。

ネガティブな感情が上がってきたら、それも「ただ見る」のです。そうやって無防備に感情を見れば、自動的にその感情を味わい尽くすことになるのです。

「ただ見る」ということは、そこに純粋な意識を向けるということ。最後には、その「ただ見る」が無意識の奥深くへと入っていくことになり、そうなればこの世界からあらゆる闇が消えてしまうでしょう。

LINE でセッション

今までにもう7000回もやってきた個人セッションですが、初めて文字だけによるセッションをやってみました。これまでにも、遠方で簡単には事務所に来られない方のために、スカイプなどでやったこともありました。

けれども、事情があってそういったものも使えないという状況で、なんと今流行りの LINE を使っての2時間のセッションとなったのです。

少しだけ不安はあったものの、終わってみたらそれなりに利点もあるなあというのが、正直な感想でした。とりあえず、ケータイのソフトキーボードでは全く用を足さないのが分かっていたので、キーボードを購入してキー入力が楽にできるように準備しました。

対面しない状態でのセッションですから、クライアントさんの表情とか態度や声の質などに注意を向けることができない分、少し戸惑いもあったのは事実です。

ただし、落ち着いてゆっくりと聞くこともできるし、話そうとすることもしっかりと時間をとってできるというメリットがあるのです。

しかも、二人のやりとりは、すべてケータイの中に保存されているというのもあって、これはなかなか使い物になるなというのが印象です。

クライアントさんには、途中で気づいて、都度感情が上がってきたときには、そのことも実況してもらうように頼んだところ、協力して下さったおかげで、とてもうまく行きました。

何でもやってみないと分からないものですね。それにしても、便利な世の中になったものです。この仕事を始めたころには、お会いできない場合には電話で、というのが一般的でした。

それが、ネットとアプリの発展のおかげで、スカイプや LINE やチャットなどでも十分にセッションができるということが分かったのです。

もしも、対面するのが苦手だと言う方、あるいは遠方過ぎて事務所まで出向くことができないなどの場合には、上記のようなことでもセッションは可能ですので、是非ご検討してみて下さい。

癒しの作業を疑うマインド

人は内面の癒しを進めて行くと、それなりにいろいろな変化に気づいてくるものです。勿論、その気づきは千差万別であって、こうならなければならないということはありません。

私自身の経験では、しばらくは何も自分の変化を感じることができなかったくらいですから。それでも、自分以外の家族が少しずつ楽になってきたなと感じたその後に、やっとどうやら自分にも変化が来たと感じたくらいです。

癒しがうまく行っている場合には、いい方の変化として次のようなことがあげられます。

-頭でグルグル考えることが減ってくる

-いろいろな事がそれほど気にならなくなる

-身体の痛みが楽になる

-自分に対して、裁くことが減ってきて優しくなる

-他人に対しても同様に裁くことが減る

-身体の疲労感が減少する

-感じる能力が蘇ってくる

-ねばならないなどのルールにこだわらなくなる

-自己表現ができるようになる

-etc.

一方、やだなと感じる方の変化としては次のようなものがあります。

-一時的に極度に身体の具合が悪くなる

-辛いことを感じやすくなる

-頭や心が混乱してくる

-頑張れなくなる

-自己表現を抑えられなくなる

-etc.

癒しを一気に進めようとしてがむしゃらにやっていくと、心の反動もそれに比例して大きなものとなってしまうために、上記のような辛さがやってきます。

特に、マインドは混乱してくるものです。そのときに、自分は信じるままにこんなことをしていていいのだろうかという疑いがやってくるかもしれませんが、それこそが自我の巻き返そうとする作戦だと理解することです。

早々に癒しを終えて、健康になったらこの世界で活躍できるという考えが一番危険です。癒しは継続してライフワークのようにしていくことです。

そしていずれは、自己の本質に気づくことになるのですから。